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幸せのカタチ
普段はエアコンの電源を付けっぱなしにしていると母から怒られたものだが、今月に限っては許されていた。電気代がどうだとか、地球に残された資源やエネルギーなどがどうだとか、そういったしがらみから人類は開放されたのだ。
別に水力火力原子力より効率が良い新しいエネルギーが見つかった訳ではない。現在進行形で発電所はフル稼働しているし、限りある地球の資源は消費されていく。それは、地球人類が行う最後の消費活動だった。間もなく終焉を迎えてしまうこの星の資源など、後世に残しても何も意味が無いからだ。
「眞那さぁ、だからって冷房効かせすぎじゃない?」
部屋の冷房は行き届き過ぎていて、少し肌寒いくらいだ。エアコンのリモコンに記されていた21度に設定された室温に辟易した。
「仕方ないでしょ、暑いんだから、さ」
眞那は設定温度を変えられたくないのか、リモコンを手に取って俺の手の届かない位置に置いた。身を乗り出せば届かなくもないが、そこまでする程ではないと小さくため息をつく。
「駄目じゃない裕貴、ため息つくと幸せが逃げるよォ」
幼馴染である眞那は時折よく分からないことを言うし、よく分からない行動をとる。こうして冷房を効かせた部屋に僕を連れ込み、ダラダラと時間を過ごしている。半ば授業をシャットダウンするように、地球最後の夏休みが始まってからはそれが僕たちの日常になりつつあった。
「幸せ、ねぇ」
彼女の言葉が、なんとなく引っかかった。幸せの基準が人それぞれなんてことは、理解しているつもりだった。それでも、つい口から出てしまったのだ。
「俺って、幸せだったのかな?」
「え? 何言ってんのさ、いきなり」
目を丸くした眞那が、素っ頓狂な声を上げた。まるで俺の言っている言葉の意味を理解できないように、怪訝そうな顔をしながら僕の顔を覗き込んでいる。
「そのまんまの意味だよ。だってまだまだ生きられたんだぜ、まだ十分に生きちゃいないのにさ。得られたかもしれない幸せを何も得られないまま死んじゃうなんて、最悪の最悪じゃんか」
眞那は顎に手を当て、目を閉じる。何も考えていないように見えるが、それは彼女が熟考に耽る時にとる姿勢であった。思いつきそのものである俺の言葉を自分の頭の中で噛み砕いて、どうにか言葉にしようとしているのは、長い付き合いの中でわかっていた。
馬鹿みたいに大きな隕石が、今夜やってくる。テレビやネット散々騒がれている。悲しいことに一昔前の大予言とは違って、それは紛れもない事実ということだ。無慈悲にこの世界をポケットの中のビスケットのように粉々に砕く巨大なハンマーは刻一刻とこの地球に近付いている。
俺も眞那も今夜死んでしまうのだ。理解も認識も、出来ればしたくない。いつも通りに生きて、眠りにつくように全てを終わらせたいのだ。そうでもしないと、恐怖で頭がどうにかなってしまいそうだった。
若干の沈黙が俺たちの間を潜り抜けていく。冷房の風の音がやけに大きく聞こえている。窓の外で喚いている筈の蝉の声を聞き取ろうとした瞬間に、眞那の肺に空気が吸い込まれる音がした。
「裕樹は覚えてるよね、最後の宿題。それを終わらせればいいんだよ」
ゆっくりと頷く。終業式で担任が僕たちに伝えた宿題だ。『心残りを残さないようにしよう』『最期は一番大事な人と一緒にいよう』の二つ。在り来りであるそれらを叶えることが出来れば、世界が終わる瞬間を幸せに迎えられるとでもいうのだろうか。
「心残り、かぁ」
エアコンの送風機から吐き出される冷たい風が、眞那の髪を揺らしていく。後ろで纏められた長い髪が、動物の尻尾のように揺れていた。僕の呟きに目を輝かせながら、身を乗り出した彼女は、楽しそうに目を細める。
「お、早速来たねぇ。何かあるの? 教えてよ、裕樹の心残り」
「教えない」
即答する。そんな事を、こんな状況で言えるか。心の中で毒づきながら、目の前の幼馴染から目を逸らす。どんなことがあろうとも、胸の奥にしまい込んでおくつもりなのだ。目の前の女の子への想いなど、口にしてはいけないのだ。あと数時間で滅びを迎えるこの世界と共に、あの世に持っていくつもりなのだ。
「えー、ここは言うとこでしょ。早く言って楽になっちゃいなよォ」
眞那は口を尖らせながら左右に身体を揺らしている。もしかしてこれでプレッシャーをかけているつもりなのか。メトロノームのように延々と高速で左右に揺れている彼女の奇行を止める為に、話を逸らすことにした。
「そういう眞那はどうなんだよ」
メトロノームのリズムが徐々にゆっくりになっていく。斜めになったまま動きを止めた眞那は腕を組み、暫しの思考の末に答えを出す。
「うーん、強いて言うならお母さんになりたかった、かなぁ。もう時間的に無理なんだから別にいいんだけどさ」
まさかの『お母さん』であった。てっきりどこそこに行きたかったとか、食べたかったものがあるとか、そういうものだと思っていた。眞那の出した答えがあまりに予想と違うものが出てきた為に、思わず吹き出してしまう。
「かーっ! どうしてそこで笑うのさ! 別にいいじゃない! 可愛らしいでしょうが!」
優しい目をしていたと思えば、眉を釣り上げて叫ぶ。まるで万華鏡のように表情がころころと変わる彼女は見ていて飽きることはない。それがなんだか面白くて、笑いが止められなかった。
「自分で可愛らしいって言うなよ……しかし、『お嫁さん』じゃなくて『お母さん』かぁ、なんていうか、眞那らしいな」
「どういうことさ。まぁ、目の前に大きな子供みたいなのがいるからそうなるんじゃないかな?」
こういったやり取りも、俺たちが子供の頃からずっと繰り返されているものだった。そして、これからも繰り返されていくものだと思っていた。
少し寂しいし悔しいが、人生の終わりっていうのはそういうものなのかもしれない。悔いなく終わることができる人なんて、多分存在しない。どんなに満たされていても、こうしておけばよかった、これをやりたかったなんて今際の際に思うのだろう。
だから、今が良ければそれでいい。そうでも思わないと、あと数時間をやっていけそうにない。
「あー、やっぱり私だけ言うのは不公平だ! やっぱり裕樹も言いなよ!」
願いの半分はもう叶っている。俺にとっては、それで十分なのだ。このままずっと、目の前の女の子と一緒に最後を迎えることができれば、それでいい。
「口にするようなもんじゃないんだよ」
幼馴染の高い声を聞きながら、小さく笑う。
頰を膨らませた不服そうな彼女の顔すら、あまりにも愛おしい。この気持ちは、この星が砕けたとしても、壊れることはない気がした。
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