とある山中にて

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とある山中にて

 普段から淡路芝右衛門狸の一番弟子だと主張する長老の話は、いつもはデタラメの極みのホラ話ばかりで誰も信じることはなかったのだが、いつになく真剣な目をした長老が静かに口にしたことをココルとその仲間たちは信じることは出来ずにいた。  俄には信じられない話だが、夜の空が明るくなってまた暗くなることを何回か繰り返したあとに、空の上から大きな大きな岩が落ちてきてこの山どころか全てのものを殺してしまうらしい。長老から一通り話を聞き終えたとき、ざわめき慌てふためく他の仲間たちと違ってココルは落ち着いていた。  ココルは生まれてからずっと山の中で過ごしていた。茹だるような暑い日は木陰に隠れて水際で涼み、寒い日は穴熊の巣穴を借りて、その中でじっと過ごしてきた。爪が食い込まないほどに硬い黒い道に出ると変わった毛皮をした大きな大きな動物が自分を不思議そうな目をして見てくるし、鳥と思うような速度で道を走っていく四角く大きな物体は容赦なく仲間たちを殺していく。  ココルと共に生まれた兄弟であるリシリは硬い道路を挟んだ山に向かうと言ったきり戻ってくることはなかった。きっとアレに撥ね飛ばされてしまったのだろう。生まれてからずっと一緒に過ごしていたあの柔らかな毛並みに触れることができないということを思い出すと、目と目の間が熱くなってくるココルであった。  あの四角い物体に殺されたのは、リシリだけではない。ココルの番いであったレナカもそうだ。山の奥の奥で偶然知り合ったメスであるレナカは、くるりと丸まった尻尾が可愛らしい姿をしていて、同属とは思えない程に細くきめの細かい毛並みに触れた瞬間にココルは恋に落ちたのだ。レナカに触れてから、彼女のことが彼の頭から離れたことは今の今まで只の一度もない。  暑さが和らぎ、だんだんと寒くなる日の夜だった。レナカとココルは身を凍らせるような厳しい冬に備えて栄養をつけるため、真っ暗な夜に餌を求めて歩き回ってしまったのが、根本的な間違いであった。高速で近づいてくる四角い物体を見て頭の中が真っ白になってしまったレナカは、気を失ってしまった。  それ以降、レナカが目を覚ますことはなかった。俗に言う『狸寝入り』と言われるものであったが、それをココルは知ることはない。彼の中にあるのはあの四角い物体にレナカが殺されたという事実。ただ、それだけの事だ。  ココルは時折レナカがいなくなってしまった場所の近くへ行き、あの場所に彼女がいたことを思い出していた。もしかしたら自分の子供を産んでくれたのかもしれない。生まれ落ちた以上、種を存続させることを目的にすることも生きる理由の大きな一つではあるのだが、ココルはそれよりも生涯を共に生きていくかもしれなかった存在を失ったことの悲しみの方が大きかった。  だとしてもココルには自分で自分の命を断つという考えは持っていなかったし、レナカに代わる他の雌を探すということもしなかった。木の実や虫を食べ、朝露や川の水で喉を潤すという代わり映えのしない日々を過ごしていたのだ。  そんな中、ココルが子供の頃からずっと年老いている長老がこの周辺で生きている仲間たちを集め、掠れて嗄れた声でゆっくりと語る話を聞いて、彼が思ったことはただ一つだけだった。  あぁ、これでレナカのところに行くことができる。  土の上で死んだものは他の動物や虫に食われて糞になる。その糞や骨は大地を豊かにして、命を育てる糧になる。何度かしか冬を越していないココルであったが、その円環は理解していた。しかしあの硬い大地の上で死んでしまったレナカとリシリはどうなったのか。あの大地は命を感じない、真っ暗なものだ。あんなところで死んでしまった二人の命は、大地に還ることはなく、そのままどこへ行ってしまったのだろうか。大地の下ではなければ、上に行ってしまったのか。ココルは今にも落ちてきそうな月を見上げながら、小さく鳴き声を上げる。誰にも聞こえないようなその声は、今はもうないレナカに向けたものだ。  月は星たちを引き連れて、ゆっくりと山の向こうへと落ちていく。そしてその反対側の空から日が昇り、また沈んでいく。夜が明けて、朝が来るという不穏な周回はあっという間に過ぎていく。長老が言っていたことが事実なら、今日の夜にも大きな岩が落ちてきて、みんなを殺していくのだろう。それはきっとリシリやレナカを殺したあの四角い物体よりも、遥かに大きくて素早く、無慈悲に地面にやってくるのだろう。ココルはどこか他人事のように、慌てふきながら山を走り回る仲間たちを見つめていた。 「これから、どうするんだい、ココル」  ココルに向かって少し間延びした声をかけたのは、あの長老の話を遠くで聞いていたミトケだった。ココルとあまり関わりのない彼は、ココルと比べて二回りほど大柄であり、両耳の毛の色が若干異なっている。二匹が並んでいると、別の種類の生き物が並んでいるようにすら見えた。 「どうするもこうするもないさ。いつも通りに過ごすだけさ。今日で終わりだろうけど、な」  ミトケの顔を見ることもなく、ココルは静かに呟いた。彼と話をする気など、ココルにはなかった。愛するものを失った悲しみは未だにココルの胸を切り裂き続けていたし、それを癒やしてはいけないと彼自身が思っていた。無視を決め込むことも出来たはずだが、自分自身をまっすぐに見続けているミトケを無視する程、彼は薄情でもなかった。 「長老の言ったことを、信じてるか?」  何故こんなことを聞いたのか。会話にするにしたって他に色々あるだろう。ココルは口に出した直後に後悔した。よりにもよって、もう終えたかった話題を何故続けようとしたのか。それはココル自信が抱いている葛藤なのか、それともただ単に話をする相手が欲しかったのか。  丸々とした頭を小さく震わせ、何回か瞬きをしたミトケは尻尾をゆっくりと振る。ココルが今感じている感情が一体どういったものか、ミトケにはわからなかった。元々臆病で用心深い反面、楽観的で物事を深く考えることが苦手な彼らの中でミトケは更にのんびりとした性格をしていた。争いを好まず、日向の下でゆっくりと時間を過ごすことを愛してやまない彼は温厚といえば聞こえはいいものではあるが、度が過ぎたそれは集団行動の妨げになり得る。いつしかミトケは疎まれ、集団の隅に追いやられていた。それをココルは知っていたし、レナカやリシリを喪っていた彼はこれ以上親しい誰かが死ぬのを見たくなかったのか、必要以上に誰かと関わるように日々を生きていなかった。 「最初はいつものぉ、デタラメだと思ってたんだけどさぁ、長老があーんな目をして喋ってたのを初めて見たしさぁ、他のみんながさぁ、あそこまで慌ててるとさぁ、なんだか、ホントの気がするよねぇ」 「君もそう思うのか。俺もそんな気がしていたよ。長老が言ってた通り、もうすぐ死んじまうんだな、、俺たち」  だからこそ、このような状況でも無い限り、声をかわすことすらなかった二匹――輪に入れなかった一匹と輪から遠ざかった一匹は今こうして言葉を交わしたのだろう。疎ましく思うものからすれば苛立ちを感じるミトケの喋り方は今のココルにとっては新鮮さを感じるものだった。ココルの視界の先には土の下から掘り起こした大きな虫の幼虫を貪るように食べている他の同属の姿があった。一心不乱に顎を動かしている彼はまるでやり残したことがないように腹一杯食べておこうとしているようだった。 「ミトケ、キミは、怖くないのか?」  ココルが目を逸らしながら向けた視線の先には、ミトケの丸い瞳があった。ココルが視線を外している間も、ミトケはずっと彼を見続けていた。やっと自分を見てくれたのと思ったのか、ミトケの太い尻尾が大きく揺れた。 「怖いよぉ。やりたい事をたくさん残したまま、死んじゃうなんて嫌だし、みんな死んじゃうんだったら化けて出ることも出来やしない」  ゆったりとした口調ではあったが、ミトケの言葉の端々にどこか硬さのようなものがあることをココルは見抜いていた。落ち着いているようでも、言葉の通りミトケは恐怖を抱いているのだ。 「キミはさぁ、生きるってことはさぁ、どういうことだと思う? 僕はさぁ、命を繋いでいくためだと思うんだよねぇ。子供を作って、育てて、自分がいた、生まれた証を次へ、次へとね、伝えていくんだ。そう思ってたよぉ」  ミトケは身体を動かし、まだまだ明るい空を見上げる。まだまだ空から全てを滅ぼす存在が落ちてはこない。それでも彼の視線にココルは釣られていた。 「俺は――」  ココルはどうにかして言葉を捻り出そうとしたが、うまく言葉にすることができなかった。彼の時間はレナカを喪った時から止まっているのだ。ミトケの言葉をそのまま受け止めるならば、ココルは生きてはいないのだ。生きてはいながらも、自分がいた証を世界に刻むことを拒んでいるのだ。 「いいんだよぉ、それでも」  自分自身を肯定するミトケの声に、ココルは驚いて視線を戻す。ミトケはまだ空を見上げていた。まるでまだまだ見えない夜に浮かぶ頭上の輝きに魅入られているように体勢や表情を変えることなく、ミトケは言葉を続けていく。 「自分がいた証を伝えるために生きるっていうことは、死ぬために生きるようなもんさぁ。みんな死んじゃうってことは、生きた証なんか何も無くなっちゃうんだ。だから、どう生きたかなんて、もう、関係ないんだよぉ。長老から話を聞いて、ホントに僕たちが死んじゃうんだと思った瞬間から、考えが変わったさぁ」 「どう生きるかよりも、どう死ぬか、か」  死ぬために生きる。その言葉が、今のココルには妙にしっくりきた。いつの間にか体勢を元に戻していたミトケは、ココルに向かって口角を上げていた。 「そういうことさぁ。いやぁ、ココル、キミとはなかなか話が合いそうだ。もうちょっと早く、話しかけとけばよかったねぇ」  まるで美味い食べ物の場所を仲間たちに教えるときのように無邪気に笑うミトケは、今日で死ぬとは思えないものだった。彼の屈託のない笑顔を見て、ココルは自然と笑みを浮かべていた。ミトケだけでなく、ココル自身も気づいていないことであったが、レナカを喪ってから今この時、彼は初めて笑ったのだ。 「後悔ができちまったか?」 「うははははは、どうだかなぁ。わかんないや」  声を上げて笑うミトケと、静かに笑うココル。何もかも滅びる日に作られた友情はどこか奇妙で歪なものではあったが、今の二匹には十分すぎた。 「もうこんな時間だ。長い間、悪かったねぇ。そろそろ行くよ」  気づけば辺りは暗くなっていた。もう間もなく全ての命が失われるという時が迫っている。ココルが最後に何をするのか、ミトケは理解していたのだろう。どこか遠くを見つめながら、ミトケはゆっくりと尻尾を振り回した。 「さようならぁ」 「あぁ、さよならだ」  別れの言葉は簡潔だった。後ろを振り向くことなく、ミトケは山の奥へと消えていった。残り時間は幾ばくもない。ココルは急ぎ足であの硬い大地へと走っていく。あの四角い物体の気配はほとんど感じなかった。もしかしたら奴らはもう眠りについてしまっているのかもしれない。だとしたら、好都合だ。最後の最後ぐらいは、最後にレナカがレナカであった場所の近くで眠りたい。その場所までは、そこまで距離は離れていない。  真っ暗だった空の向こうが、激しく光を放つ。大きな岩が大地にぶつかったことを示す光だったことをココルは知ることはなかったが、急速に彼の胸で騒ぎ立てる焦燥感に従って、野山を一気に駆け降りた。  全てを滅ぼす地響きが轟くよりも早く、レナカが死んだ場所に辿り着いたココルは、息も絶え絶えであった。崩れ落ちるように丸まり、想いを馳せる。それは、もうすぐ消え失せてしまう自身の命よりも、彼が愛するものへと。  出来ることならば、レナカにもう一度会いたい。そして、なんでもいいから話をしたかった。自分が生きた証を、彼女に受け止めてもらいたかった。叶わないことだとはわかっていたが、それがココルの生きる理由そのものだったのだ。彼女のふわふわとした毛並みの感触を思い出しながら、ココルはゆっくりと目を閉じた。
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