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生き抜いた先にあるものは
あと数ヶ月で、世界が終わる。額から脂汗を流し、目に涙を浮かべながら会見を行う科学者が言っていることはとても信じることのできないものではあったが、彼の悲壮感に満ちた表情は彼が狂人でない限り、それが紛れもない事実であることを証明していた。
スクランブル交差点にほど近い商業ビル。そこに備え付けてある大型スクリーンで放送されたニュースを見た瞬間、自分の中でなにかが音を立てて砕けるような音が聞こえた。僕の周りにいる人達も、横断歩道の信号が点滅しているにも関わらず立ち尽くしている。あまりにも現実的ではない。映画のワンシーンか何かを放映しているのだ。頭の中で何度も何度もそう言い聞かせても、呼吸は浅くなるばかりだ。
これは悪い夢なんだ。朦朧としはじめてきた意識の中、誰にもわからないように奥歯で口の裏側を噛む。柔らかな頬の肉が臼歯と臼歯で挟まれたことにより生まれた鋭い痛みは、夢の世界から僕の意識を引き戻すことはなかった。
ある人は涙を流し、ある人は呆けた顔をしている。ある女性は膝から崩れ落ち、ある男性は青ざめた顔をしている。ある老人は映画か何かと勘違いしたのだろうか困惑しながら辺りを見回し、ある少年は意味がわからず首を傾げている。
肩に背負ったギターケースの重みが10倍にもなったようだ。気を抜いてしまえば潰されそうになる。合わない歯の根を噛み締め、足に力を入れて何とか耐える。衝撃的なニュースではあるが、今僕が生きている以上世界は動き続けているのだ。わざわざこんな都会まで来たのは、こんなところで立ち尽くす為ではない。なんとか前に足を踏み出すことのできた僕は、目的地に向かってゆっくりと歩き出す。例えそれが映画や漫画に出てくる食人屍のようなスピードだとしても、前進は前進なのだと自分に言い聞かせた。
世界中で連日放送された、世界が滅びるというニュース。最初の方は悲しみに溢れていた世間も、慣れというものは恐ろしいもので数日後には普段と同じような日常を取り戻していた。斯く言う僕もその一人で、寝て起きて学校に行ってギターを鳴らしている日々を過ごしていくうちに、いつしか恐怖や不安といったものがじわじわと抜け落ちていく。
何処かで聞いた『痴呆症は、死の恐怖を忘れるためにある』という言葉。祖父母はまだ健在である為、そういった予兆すらないのが救いではあるが、この地球上で最も理性的な生物である人間が生物というカテゴリとして存在している以上、生きている限り最も恐ろしく感じる『死』から目を逸らすことは防衛本能の一つなのかもしれないと他人事のように考えていた。
地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸に群がる亡者のように行われた、地球上の人類が希望の船に乗るための抽選の当選倍率は1億を優に超えていた。当然ながらそれに当選したという話を僕の周りで聞くことはなかった。おそらくは、船が造られたときにはもう席が決まっていたのだろう。現にこの国で有名な実業家とその恋人が当選したとまるで茶化すかのようにSNSにて幸せそうな写真付きで報告していた。最近はよくわからない理由で金をばら撒き、近いうちに月に行くと豪語していた彼のことだ。金の力で二つの席を手に入れたとしても、何も不思議ではない。
僕たちのような持たざる者は、そのまま地球と共に粉々になるだけなのだ。死の恐怖に対する逃避もあったが、やはりもうここで殆どの人が生き延びることを諦めていたのだ。日々を精一杯生きよう。悔いを残さずに命を使い切ろう。そう気持ちを切り替えないと、自分が自分でいられなくなったのだろう。そして、微かに希望を残していた人たちが全て諦めたのは数ヶ月が経ち希望の船が木っ端微塵に吹き飛んだ瞬間なのだろう。
絶望が希望より遥かに大きかった人は、どのみち隕石で死ぬというのに、それより早く自分自身で自分の命を断つ選択をした。現にこの数ヶ月で有名人の自殺なんて多数あったようだし、希望の船に乗っていたセレブのファンも後を追うように何人も死んでいったという噂をよく聞いた。それでも、メディアはそのようなニュースを流すことはなかった。気取った名前をした希望の船が粉々になって、世界中に諦めという感情が覆い尽くされたとしても、これ以上生きている人を暗くしないように最善を尽くしているつもりのようだった。
僕は希望の船が吹き飛んでから、ギターケースを背負って街へ繰り出す頻度が増えていた。時間というものは止まってくれることはない。待ってくれ、止まってくれと願っている間にも無情にも時計の針は進んでいく。それを悔いている暇などない。ノンストップで駆けていく日々を思い残すことがないように全力で生きていく。
もう両親は遠くに出かける僕に何も言わない。いつかは恨みすら持っていたが、どこか寂しげではあったが優しい表情で最後の最後にやりたいことをしなさいと言ってくれた母の気持ちを汲み取らない程に親不孝ではなかった。
ペルセウス座流星群がピークを迎える8月11日。この日に沢山の流星を伴って大きな隕石が地球に落ちてくる。その時が、この地球の終焉の瞬間だ。街で日々を暮らす人達は相変わらずの日常を過ごしていたが、愛すべき喧騒を塗り潰す新興宗教の宣伝車だけはいただけない。彼らと同じ道を歩けば隕石によって死なないのならば苦労はしない。そこまでして仮初の賛同と一時のカネが欲しいのか。馬鹿みたいに騒ぎ続ける彼らの前を通り過ぎる時に、敢えて聞こえるように舌打ちをした。
別に現在進行形で空元気を振り撒いている誰かに勇気を与えたいとか、そういった使命感を持っているわけではない。とにかく何もしていないと頭がおかしくなってしまいそうなのだ。立ち寄った銀城の街で紅い髪の毛を揺らしながら一心不乱にアコースティックギターを掻き鳴らしていた女性の右手のピックが奏でていたあの旋律。それを聞いた時に、頭の中で浮かんだのは中学生のときに白球をひたすら追いかけていたクラスメイトの存在であった。
あの時は僕はギターを弾くことを諦めていた。理由は今になってみればあまりにも下らないものだが、親が認めてくれなかった。ただそれだけなのだが狭い世界を生きていた僕にはあまりにも大きな理由だったのだ。それでも捨てることができなかった夢をもう一回進もうとする意思を与えてくれたのが、プロ野球選手になるんだと語り、いつも大きな声でグラウンドを駆け回っていたクラスメイトだった。彼が話す大きな大きなその夢を、僕はどうせ叶わないただのピエロの戯言だと内心馬鹿にしていた。
帰り道にふと金網の向こうから見えた泥だらけの練習着でボールに飛び付いた後の彼の叫び声。
「もう一回、もう一回お願いします!」
その決して諦めることのない声を聞いたとき、僕の胸の中で何かが震えたのだ。あれからもう一度ギターを持ち、再び歩き出すことができた。彼は今何をしているかはわからない。きっと言葉の通りプロ野球選手を目指しているのだろう。甲子園に彼が進んだ高校の名前が出ることはなかったが、このまま順当に時間が進んだのならば、いつか満員の球場の上でプロチームのユニフォームを着て野球をしていただろう。
そんな彼のことを思い出しているうちに、女性は何処かに消えてしまっていた。いなくなった人のことをどうこう考えても仕方ない。もうこの世界の残り時間は限られている。その中で僕にできることといえば、僕にしかできないことをやるだけなのだ。ギターケースを開き、中に入っている相棒を取り出す。ゆっくりと弦を弾くと、何百何千回と聞いた相棒の透き通るような音色が耳孔を通り抜けた。
何も考えずに、一心不乱で6本の弦を弾き続ける。頭の中に浮かぶのは、夢を諦めかけたあの日。親や教師に否定されたあの時に感じた悲しみを、やり場のない感情をクラスメイトにぶつけてしまった自分自身への怒りを、再びギターを手にした時の喜びを腹の底から絞り出すように歌声へと変えていく。完全オリジナル。僕の、僕だけの、僕だけが歌う歌だ。この感情を他の誰かに共感して欲しいわけではない。もうすぐ終焉を迎えるこの世界に僕という存在がいた。ただ、それだけを道を歩く人たちに知って欲しいのだ。
弾いて、歌って、叫ぶ。喉が枯れたらギターをケースにしまって自宅へと帰り、泥のように眠る。そして起きたらギターケースを背負ってまた街へと繰り出していく。月と太陽は何度も登っては沈んでいくうちに、あっという間に地球最後の日がやってきた。
銀城に行く気はなかった。あのアコースティックギターの旋律を聴いて、アイツのことを思い出してしまったならばもう僕はきっと僕は崩れ落ちてしまうだろう。ただでさえ薄氷の上のような平穏をおっかなびっくり歩いてきたのだ。それだけは避けたかった。
人混みから逃げるように行き着いたのは、小さな港だった。ギャラリーは道を歩く猫と雲ひとつない夜空を飛ぶ鳥とそこに輝く月と星。そしてもうすぐやってくる隕石ぐらいだろうが、今夜ぐらいはそれでいいだろう。どうせケースに小銭が入ったって、使い道はないのだから。
いつものように縁石の上に腰掛けた僕はギターを取り出し、ピックを弦に乗せる。そのまま一気に右手を下ろして曲の始まりであるEm7のコードを奏でようとしたのだが、僕の右手は凍りついたように動かなくなっていた。もう片方の手も、張り付いたように弦から離れることはない。
せめて歌声でもと息を吸っても、代わりに吐き出されるのは嗚咽だけだ。その声を自覚してはじめて自分が涙を流していることに気付く。そうなってからはもう、何もできなかった。なんで、こんなところで死ななければいけないんだ。夢なんかまだ少しも叶えていないのに。やりたいことを一つも叶えていないのに。夢に向かって突き進んでいたアイツのことを胸を張って直視することすら、出来ていない。なんでだ。なんで。
「なんでだよ……こんなところで、こんなところで死んじまうなんて、嫌だ……!」
誰か、助けてくれ。いくら願っても、手を伸ばしても未来は変わることはない。もう間もなく僕は不条理に死んでしまう。その事実に耐えられないのだ。
切り替えているつもりだった。諦めているつもりだった。最後の最後まで精一杯生きて生きて生きて、悔いなく終わりを迎えるつもりだった。
冗談じゃない。まだ僕は、十分に生きちゃいないんだ。こんなところで、何も残すことなく地球と一緒に粉々になる。そんなバカな話があるか。認めて、認めてたまるものか。
僕の慟哭を嘲笑うかのように空から巨大な光の帯が高速で落ちてくる。この星の、最後にして最大の天体ショーだ。見る人にとっては幻想的に見えるだろうそれは、僕には遅れてやってきた恐怖の大王が翻す外套にしか見えなかった。恐慌状態になった僕は少しでもそれから少しでも遠ざかろうと駆け出した。
夜が昼になる。鼓膜どころか内臓を吹き飛ばすような轟音が世界に響き渡る。それでも走り続けた。アスファルトは裂け、街灯は倒れ、港のコンクリートは砕け散る。それでも走り続けた。世界が加速度的に終わっていく。それでも走り続けた。
一瞬の静寂の後に襲い掛かる、幾重にも圧縮された空気が生み出した衝撃。それが僕の身体の内側を粉々にし、この惑星ごと僕の命を刈り取っていく。視界が赤く染る。全ての触覚がオーバーフローして全身の皮膚が裏返った感覚がする。焼けた油をぶち撒けられたような熱さに、口の中から全ての内臓が飛び出しそうになる。
地球が終わる。世界が終わる。生命が終わる。
それでも、急速に消えいく意識の中でも最後の最後まで、ボロボロになったアコースティックギターを手放せなかった。
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