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最後のお茶会
間抜けなほどに蒼い空が広がっている。8月だといっても、ここの空気は冷たく、それでいて乾いていた。故郷から遠く離れた欧州のど真ん中でワタシはスマートフォンの地図のアプリを閉じた。
太陽の光があまり届かない裏通りで、煙草に火を付ける。もうすぐ世界が滅びるっていうのに、相変わらず煙草の税金はしっかり取られるのは若干不条理だとは思っているが、そこまで考える気にはならなかった。紫色の煙を吐き出して、殆ど減っていない吸い殻を足元に落とす。これで、人生最後の一本にするつもりだった。
別に、禁煙をするわけでもない。だからといって電子タバコの類に鞍替えするわけでもない。ただ単に、もう吸う機会が無くなってしまう。それだけの話だ。今日の深夜にワタシ達が生きているこの星は、隕石によって跡形もなく吹き飛んでしまうらしい。地球最後の日だっていうのに、平面上は争いはなくなったとはいっても世界中の国々は下らない言い争いを続けていた。地球最後の日だっていうのに、ワタシは仕事に向かっている。
仕事といっても、誇れるようなものでもない。ただの汚れ仕事だ。ヒトが社会的な立場を重視する生き物である以上、そこには必ず蹴落とす者と蹴落とされる者の二種類が存在する。お受験が一番簡単な例えだ。倍率が高ければ高いほど、蹴落とす相手が増えていく。他にも出世においてライバルを嵌めて落第させるなど、競争を続ける以上はそういうものの連続を瞬間ごとに繰り返していく。競争と比較と謀略のエンドレスリピートで造られたものが、今の人間社会なのだ。
その愛の欠片もない社会の中で一番手っ取り早く競争に勝つ方法。気に入らないライバルを退場させる方法。それは対象がいなくなる事だ。レースで一度も勝ったことのない競走馬も、競争中に他の馬が全て倒れれば結果としてはぶっちぎりの一位だ。どんなに負けそうな勝負も、例え盤上が詰む寸前だとしても。対面で指している相手が戦いの最中で死んでしまったならば不戦勝だ。ライバルを減らす事によって、自分を優位に立たせようとすることは、誰だって思い浮かぶものだ。
別にライバルじゃなくったっていい。気に入らない、単純に嫌い。それだけでもいなくなって欲しい理由には十分事足りる。どんな聖人だろうとも、ヒトがヒトである限り持っているドス黒い感情は、実際にはなかなか発散できないものだ。社会という枠組みの中で生きている限り、どこかでその感情と折り合いをつけて妥協しなければならない。無闇矢鱈に行動に移してしまった瞬間に、誰かへの不戦敗を捧げる事になる。
だから自分の手を汚さずに、誰かを消してしまいたいと思った『力のある』人間の為に、ワタシのような種類の人間がいる。誰かの代わりに、その別の誰かを消すことを仕事に選ぶ奴だっている。『力』っていうのは結局のところ、お金のことだ。お金を稼ぐ為には、働かなくてはならない。身寄りも学もないワタシが出来ることなど、高が知れていた。単純に、知らない誰かに股を開くより知らない誰かの頚動脈を掻っ切るほうがワタシにとっては性に合っていた。ただ、それだけのことだ。
地球がもうすぐ滅ぶっていうのに、依頼をまとめるクライアントはワタシに仕事を押し付けてきた。日付の指定は今日。話によると、最後の最後にどうしてもいなくなって欲しい人がいるらしい。あと12時間もしないうちに地球もろとも吹き飛ぶっていうのに、全くもって悪趣味極まりない話だ。そんなにお金が欲しいのか。まぁ、その仕事をやろうとするワタシも同じぐらい悪趣味ではあるのだが。
故郷の蒸し暑い空気と蝉の鳴き声が懐かしい。長袖のジャケットの内ポケットに忍ばせたナイフが、ワタシの仕事道具だ。これを使って何人も何人も現世という舞台から蹴り落として、命の価値に見合わない端金を受け取り続けてきた。最早数を数えることすらも億劫になってきた。人の命というものは腹に空いたほんの数センチの穴から血液と一緒に流れ出ていく。思っているよりも案外簡単に、人は死ぬのだ。
足音を立てずに赤いレンガで舗装された路地を歩いているうちに、やがて太陽の光すらも殆ど届いていない場所へと辿り着く。ここだけ夕方になってしまったかのような違和感があるこの場所こそが、地球最後のターゲットが住む家であった。この家の主である女性を蹴落としてほしい、というのがクライアントからの指令だった。終末価格なのか、報酬はヤケクソのように高額だった。高級クルーザーが余裕で買える程度の金額に、世界が終わりかけていることすら忘れてしまい引き受けたというわけだ。
流石に玄関から堂々と不法侵入する暗殺者など、聞いたことがない。そんなものはファンタジーやフィクションの世界でもやらない事だ。レンガ調のタイルが貼られた外壁をよじ登る。僅か5ミリ程度の窪みなど、ワタシにとっては階段と同義だ。一瞬で2階の窓まで辿り着き、窓枠に力を入れると軽い手応えと共に音もなく窓は開かれる。普通の思考をしているならば、バルコニーもない出窓から人が入ってくることを想定をしている人などほぼ存在しない。このような場所は、絶好の侵入場所なのだ。
標的のいる建物の中を歩く時は、猫の歩き方をイメージする。気配を殺して静かに、しなやかに、そして素早く走るように歩く。人の気配は2階から感じられない。1階に1人分のものがあるだけだ。階段を滑るように下り、気配がある大きなドアの前に立つ。この場所で間違いない。ジャケットの内ポケットからナイフを取りだし、鞘から抜きだす。いつもワタシが仕事で使う道具は、いつだってこのナイフだけだった。
実際のところ、銃を使うと線条痕などで簡単に身元がバレる。特に科学技術が発展した現代ならば、ワタシ達の思いもよらぬ要素で特定された同業者など両の指では数えられぬぐらいだ。
しかし、ワタシがナイフを使い続ける理由は身元がバレにくいというものではないのだ。指の動き一つで遠く離れた対象を殺すピストルやライフルでは命を奪った実感をあまり感じられないような気がしていた。日々の糧というワタシが好きな賛美歌がある。日々の糧は、何かの命だ。ステーキだって牛の命だし、パンだって小麦の命だ。光合成をしている植物などはさておき、生きている限り他の命を奪って生きていく。だからこそ、生きるためのお金を得るこの仕事がどんなに汚くておぞましいものだったとしても、自分の手を汚したことを実感したいのだ。生きる為にやったことだと、正当化をしたいのだ。
ナイフを逆手に持ち、少しだけドアを開ける。隙間から周りを見回すと、安楽椅子で揺れる老婆の姿があった。彼女こそが、今回の仕事の対象だ。齢80を超えるこの老人の命を切り取ることに何故あんな大金を用意するのか全くもって理解不能だった。仕事を貰った時に教えられた情報が確かならばマフィアなどに関係者もいない、至って普通の女性だ。だからと言って、ナイフを振り下ろす腕が躊躇うことなどない。他愛もない隣人トラブルによってワタシや同業者に殺された人は多い。今回もそんな線だろう。誰かの怒りを買った、それだけだろう。世界の終わりよりも早く、殺したいほどに。
気配を殺したまま室内に入る。先程彼女が淹れたのだろう。机に置かれたティーポットから紅茶の香りが部屋中に広がっていた。足音を立てずに老婆のすぐ後ろに立つ。安楽椅子を揺らしながら目を閉じている彼女は、どうやら眠っているようだった。このまま世界の終わりまで微睡んでいるのは、とても幸せなことだろう。その眠りがほんの少しだけ早く終わってしまうは少しだけ心苦しいが、これも仕事だ。逆手に待ったナイフを持つ手に力を入れる。
「もうちょっとだけ、待って頂ける?」
思いがけない老婆の言葉に心臓が跳ねる。気配は完全に殺しているはずだ。目を開き、ワタシを見据える彼女の視線はもうすぐ終わりを迎える人間とは思えないものをしていた。
「抵抗はしないわ。とりあえず、お茶でも飲まない? 安心していいわよ、毒なんて入れないから」
一瞬呆気に取られたワタシを無視しながら、老婆は椅子から立ち上がりテーブルに向かって辿々しい足取りで歩いていく。安楽椅子からテーブルまでの距離はほとんど無い。テーブルに辿り着いた老婆は、先程までの足取りとは変わってしっかりとした手付きで紅茶を淹れていく。タイミングを完全に逃してしまったワタシは、老婆の動向に最新の注意を払いながらナイフを鞘に収めた。
「不思議そうな顔してるわね、なんで来ることがわかってたんだって思ってるでしょ」
紅茶を二つのティーカップに注ぎ、一つをワタシに差し出しながら老婆は静かに笑う。
「簡単な話よ。依頼したのは、私だから」
驚きながらも、頭のどこかで納得している自分もいた。一目見ただけでも分かる。この老婆は誰かに恨みを買うような人間ではない。他人からではなく、自分から。お金を使った自殺行為ならば、理由としては理解出来る。
「どうせ死ぬなら、隕石なんかで死んじゃいたくないのよ。それだけなんだけどね。報酬に沢山お金があったでしょ? 悪いことなんかしてないわ。私が、一生かけて稼いだお金よ」
椅子に深く腰かけ、紅茶を飲む老婆は目を閉じながら小さな声で語り出す。最後に彼女の話を聞くのも悪くないかもしれない。もうすぐ世界が滅びるという現状に、ワタシの思考もおかしくなってしまっているのだろう。何故かそう思ってしまったワタシは、老婆からテーブルを挟んで対面の椅子に座り、視線をティーカップに移す。紅い液体が、ワタシの手の動きに合わせてゆらゆらと揺れていた。
「ひたすらに、ひたすらに働いたわ。親がすぐ蒸発して、兄弟もいない。子供の頃から働かないと生きられなかった。学校も行かず、恋もしない。毎日毎日朝から晩まで真っ黒になって働いて。気づいたらしわしわのおばあちゃん。なんだったんでしょうね、私の人生って。だから、最後にこのお金で何かをしようと思ったの。寄付なんかしても何にもならない。どうせ世界は終わるんですもの。はじめてだけど、自分の為だけにお金を使ったわ」
彼女の話を聞きながら、ティーカップの中身を口に運ぶ。これが、これが紅茶なのか。鼻を通り抜ける圧倒的な香りが生み出すあまりの美味しさに、思わず警戒を解いてしまいそうになる。頭の中でワタシ自身を殴りつけ、気を取り直す意味合いを含めて老婆を強く睨みつける。ワタシの視線なんて凪を受けたようとでも言わんばかりに老婆は笑みを浮かべた。
ワタシも老婆も、これ以上は何も話すことは無かった。ワタシ達は黙々と紅茶を飲んでいく。言葉を交わさずに、ただ時間だけが過ぎていく。終わりゆく世界の中で行われる最後のティーパーティは、壁にかけられた時計の長身が半周ほど回った後に老婆の持つカップがソーサーに当たる音で終わりを迎えた。
「最後に、言いたいことは?」
椅子から立ち上がり、再びナイフを鞘から取り出したワタシの言葉を聞いて老婆は嬉しそうに微笑む。これから自身が殺されるというのに、まるでお茶会で楽しい会話をしているような麗らかな少女のような笑みに、ワタシの胸の奥で形容できないような不思議な感覚がざわざわと騒ぎ立てていく。
「私の最初で最後のわがままを聞いてくれた子が、こんなに美人さんなんて。こんな子に送ってもらえるなんて、こんなに嬉しいことはないわ」
両手を椅子の後ろに回し、背持たれながらワタシを真っ直ぐに見据える。抵抗や命乞いをする場合があっても、このようなケースは逆にはじめてだ。躊躇いはないとは言い切る事はできないが、頭の中に作られた棚に余計な感情を置き、抜身のナイフを老婆の胴体の中心……心臓に向かって突き刺した。
「ありがとう」
おそらく痛みは一瞬も感じなかっただろう。心臓を正確に突かれた老婆は、一言だけ呟いた後に笑顔のまま永久の眠りについた。ワタシは何も言わずに、彼女の薄く開かれたままに動かなくなった目蓋を閉じる。胸に突き立てられたナイフを引き抜く気はしなかった。例え肉体が魂が抜け出てしまったとしても、これ以上彼女に痛みを与えてはならない。今まで多数の命を奪ってきた身ではあったがそんなことを思ったことは初めてだった。
ふと、ワタシの頬に冷たいものが流れていることに気づく。もうとっくに捨て去ったと思っていた感情が、ワタシの丹田の奥から湧き上がってくるのを感じる。地球の歴史の最後の最後になんてものを押し付けてくれるんだ、あの老婆は。
時間というものはあっという間に過ぎ去っていくもので、地球最後の夜が来た。あれからずっと安らかな顔をして眠る老婆の近くの椅子に座り、テーブルの上の食器を見続けていた。普段なら仕事を終わらせたあとにすぐに銀行に行って振り込まれている報酬を確認するのだが、なんだかそんな気にはならない。
ティーポットの中には、老婆が最後に淹れた紅茶があと一杯分は残っていた。ワタシはすっかり冷たくなってしまった紅茶をティーカップに注ぎ、口に運ぶ。先程とはまるで違った強い苦味が、舌の奥で広がっていく。彼女の残した最期のものを、最後まで味わっていよう。遠くから聞こえる地鳴りを聞きながら、ワタシは深く目を閉じた。
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