一瞬の中の永遠

1/1
前へ
/14ページ
次へ

一瞬の中の永遠

『この隕石は信神深いものと、そうでもないものの選別なのです! 信じるものは救われるとは言いますが、我々と共に歩いていくことが、滅びから逃れる唯一の方法なのです!』  陽気な音楽をバックに大音量で騒ぎ立てる新興宗教の街宣カーの声が、備え付けられたテレビから流れる野球中継の音声を破壊していく。まったく、地球最後の日ぐらい静かにできないのか。頭の中で愚痴を吐きながら玉葱程度では固さをどうにも出来なかった牛肉を噛み締める。安かろう悪かろうなどを語る舌など持っていない。噛めば噛むほどに繊維がほぐれることによって滲み出てくる微かな旨味と、ニンニクが効いた塩辛い味付けの調和が俺にとっては極上なのだ。  この味こそが、最後の晩餐に相応しい。『ワイルド・チャレンジャー』なんていうアホみたいな名前の宇宙船が粉々になって、世界の殆どの人が生き続けることを諦めた。今思えばニュースを見た瞬間に『最後の夜は、いつも足を運ぶこの店で焼肉定食を食べよう』と思った俺も、そのクチなのだろう。  テレビに視線を移す。地球最後の野球中継は、4回になったばかりだ。こんな日でも普段通りにプレイをして、普段通りに終わらせるつもりなのだろう。両チームとも裏ローテーション同士――つまりは主力ではない投手が投げる試合であり、下手をすれば両軍足を止めての殴り合いになりそうなものなのだが、スコアボードにはゼロとゼロが刻まれていた。  案外こういう日にこそ、終わりを迎えるには相応しいのかもしれない。そう思いながら大根の漬物に箸を伸ばしたところで、友人である文彦の咳払いで現実へと引っ張り戻される。彼の前にはさっきまでカツ丼だった丼が残されていた。相変わらず食べるのが異様に早い奴だ。感心しながら肉をもう一口放り込む。 「幾ら何でもさぁ、最後の夜に呼んだのは俺かよ、えぇ? ていうか彼女とかいたんじゃなかったか、雄一郎サンよぉ」  刈り上げた後頭部を手で摩りながら、文彦はどこか気まずそうに口を尖らせる。確かに1ヶ月ほど前まで彼女と呼べる女の子がいたのは事実だ。 「あぁ、とっくに別れたよ。最後の最後に、本気じゃない子と一緒にいても、お互いアレだろ」  子供の頃からずっと白球を追いかけてきた。幾らボールを扱うことが上手くなっても、異性への付き合いがうまくいくはずもない。有難いことに告白されて付き合いだしたのではあるが、どうにもしっくりこなかった。漫画やドラマのようにキラキラした恋愛など柄でもないし、そもそも本気で好きになっていたかと聞かれると首を縦に振ることができなかったのだ。そんな男と一緒に最後を迎えても、彼女はきっと後悔するだろう。 「俺ならいいのかよ」 「一人よりマシだろ。お前も彼女とかいないだろ?」 「ほっとけ」  口では悪態をついてはいるものの、文彦はなんだか嬉しそうではあった。テレビを見ると、デビュー二年目の若手投手がベテランの長距離打者を空振り三振に抑えていた。右手を小さく上げてガッツポーズをする投手を見ていると、俺の心臓の奥で愚かな血が騒ぎだしていく。 「ホント、どうしてこうなっちまったんだろうなぁ。普通にやってたら、来年の今頃にドームで投げてたのはお前だったかもしれないじゃンか」  俺の言葉に文彦は右手をゆっくりと開いたり閉じたりする。俺と文彦の野球部は甲子園こそ叶わなかったが、地区大会の準決勝まで進むことが出来た。文彦がエースで、俺が四番だ。俗に言うお互いを高め合うライバル関係とも親友とも言える間柄であり、共に切磋琢磨をしていく間柄だった。  それは準決勝の試合の最中、6回の裏の出来事だった。ピッチャー返しが文彦の右手に直撃し、それが決定打になってしまった。ピンチを控えの投手でどうにか出来ず、そのまま敗退だ。それが無ければ甲子園に行けたかもしれない。相手も文彦の右手を狙ったわけではない。骨には異常はなかったものの、投げられる状態でなかった文彦を交代させた監督の采配ミスといえばそうなるし、失点を取り戻すことが出来なかった俺や他の仲間たちの責任もある。チームで戦っている以上、あくまでそれは『不幸な事故』だ。それこそ、もうすぐ地球が滅びるように、だ。 「わかんねぇよ、やれることはやったつもりだしな。怪我だって、きっと『プロに入ってもいい事ねぇぞ』っていうお告げだったかもしれないじゃねぇか」  お告げか。そういえば『神様のお告げ』といって球団を抜けたお騒がせ外国人選手がいたなぁと思い出すが、慌てて思考の外に弾き飛ばす。文彦は代わった結果ピンチを覆せなかった投手や他の仲間に向かって非難するようなことは何も言わなかった。俺たちはその時の全力を尽くした。それを知っていたからだ。負けた選手は悔し涙を流し、去っていく。勝って勝って勝ち進んで、甲子園という晴れ舞台で頂点を掴めなかったという悔いを残したからだ。そんな文彦の信頼を知っていた俺たちは、負けても一雫も涙を溢すことはなかった。  それでも、たまに考えてしまうのだ。本当にそうだろうか、と。確かに不幸な事故だ。それでもあれを事故と割り切っているのはもしかして俺だけなのではないか。頭の中でぐるぐる回る疑問を隠しながら、まだ熱を放ち続けている焼肉定食を咀嚼していく。 「あ」  その思考の回転は文彦の抜けた声で中断される。口を半開きにした彼の表情は素っ頓狂な変顔そのものであり、つい笑ってしまいそうになる。 「あったわ、心残り」  流れるように出てきた言葉は、まさかの心残りであった。やっぱり、あの日のことを悔やんでいるのだろうか。 「雄一郎、お前と決着つけてねぇわ」  しかし、文彦の口から出てきた言葉は、俺の予想を大きく超えるものだった。確かに言われてみればそうだ。実践形式のシート打撃や紅白戦などで文彦の投球を俺は何度も何度もバッターボックスで受け止めてきた。だがそれも、あくまで練習だ。言ってしまえばお遊びなのだ。あの脳汁と冷や汗が止まらなくなるような焼け付くような真剣勝負。勝ったものが全てを手にする抜き身の刀で切り結ぶような闘いを、幾らライバル関係であっても同じチームである以上、俺と文彦は行うことがなかったのだ。  多彩な変化球や唸るような速球で抑えられても、『やっぱり文彦は凄いな』としか思わなかったし、俺が投球を真芯で捉えて遥か遠くへ飛ばしても、楽しそうな顔をしながら『ナイスバッチ!』と叫んでいた文彦。そして、試合で文彦が投げるボールは、俺に投げたものとはあまりにも次元が違うものだったのだ。 「急いで食え! こんなところでのんびり飯食ってる場合じゃねぇぞ!」  机を揺らして僕を急かす文彦の目は、試合の日にマウンドに立つ時と同じ目をしていた。いつもは明るいムードメーカーである彼であったが、本番の時には暴君と化す。完全にスイッチが入った彼を止めることはできないということは長い付き合いの中で知っていた。  そして、それ以上に。 「あぁもう! 先行って肩作ってるぞ! 照明とかはなんとかしとくから! バット持ってグラウンドに来い!」  俺も、この状態の文彦と戦ってみたかったのだ。プロ球団のスカウトも数多く視察に訪れたほどの逸材。怪我がなかったならばプロ入りは確実と言われた、同世代最強投手の内田文彦という男が本気で投げる球をバックスクリーンへと打ち返してやりたいのだ。  手早く食事を済ませ、レジへと向かう。何度も足を運んだ食堂のおばちゃんはもうお代なんていらないなんて言い出したけれど、押し付けるように代金を支払う。こんなところで弱みを見せてしまえば、きっと俺は文彦に勝つことは出来ないだろう。それだけの強敵なのだ。地球最後の日に、何もかも投げ捨てて立ち向かうほどに。  自宅とグラウンドの中間点にある食堂から、小走りで帰宅する。日はもう落ちているとはいえ、蒸し暑い8月の空気が俺の身体に熱を与えてくれる。汗だくのまま自宅のドアを開けて、すぐ脇にあるバットケースを手に持つ。そのままUターンして外へ飛び出し、玄関のアプローチの脇に置かれている自転車に乗り、外へと向かって一直線に飛び出した。  踏みしめるペダルからダイレクトに伝わった力が車輪へと伝わり、高速で回転するタイヤが汗で濡れた俺の身体を高速で前へと押し出していく。幾らか身体は冷えたが、中心の熱さだけはいくら走っても覚めることはなかった。あの子の手を握っても、肩を抱き寄せても、この熱さを感じることはなかった。この熱さを与えてくれるのは、いつだってバッターボックスにあったのだ。そして、最後の最後にそれを感じられるのは永遠のライバルだ。  もう、街宣カーの喚き声など耳に入らなかった。俺の頭の中には、もう文彦のことしか存在していなかった。本気と本気のぶつかり合いほど、美しく楽しく素晴らしいことはない。あんな連中なんかに、妨げられてたまるか。無尽蔵に溢れ出るエネルギーが、自転車を加速させ続けていくうちに、あっという間にグラウンドへと到着した。  自転車を降りて、マウンドに向かって歩きながらジャージのズボンからバッティンググローブを取り出し、装着する。どうやってやったのかわからないが、眩いほどの照明がマウンドとバックネットを照らしている。俺と文彦の戦いを見届けるのは、誰もいない。大量のLED照明で隠れてしまった星々と、大きく光る月。そして遥か頭上からこちらに向かって落ちてくる隕石だけが、俺たちを見ていた。 「遅かったなぁ、もうとっくに出来上がってるぜ。準備運動は必要か?」  文彦はもう完全に試合モードへと切り替わっていた。いつの間にか用意していた帽子を深く被り、獰猛な肉食動物のように犬歯を剥き出しにして笑う文彦を射殺すように睨みながら、俺も口角を大きく上げる。 「見りゃわかるだろ、必要ねぇよ」  身体の奥底から湧き上がる熱が止まらない。鞘から刀を抜き出すように、ソフトケースからバットを取り出す。ずっとずっと俺と共にあった、自らの半身そのもの。バッターボックスに入り、ゆったりと構えた瞬間、頭の中が急速に冷えていくのを感じた。  冷え切った頭と、燃え続ける心。相反する二つが混ざり合う。文彦もきっと、同じような感情を抱いているだろう。   「じゃあ、やるか! 一球勝負だ!」  白黒つけようぜ。内田文彦と大槻雄一郎、どっちが強いか。たった一度きりの本気と本気のぶつかり合いだ。満員のスタジアムでないことが残念なところだが、もう俺の視界にはワインドアップポジションをしている文彦しか映っていない。これ以上、俺と文彦には言葉など必要ない。言葉などなくても、これから訪れる一瞬で全てを語り尽くすだろう。  文彦は足を高く上げ、大地を踏みしめる。位置エネルギーと体重移動、そして腕力と握力が産み出した圧倒的な力が生み出されていく。唸りを上げながら、視覚できないほどに速く振られた右腕から放たれた白球は空気どころか空間を切り裂くように鋭く、そして真っ直ぐにストライクゾーン目掛けて突き進んでいく。  研ぎ澄まされ尽くした集中力は時間を圧縮し、18.4404メートルをおよそ0.4秒で到達するボールをゆっくりと見せた。回転する縫い目すらもはっきりと見えるようだ。絶好調の時にも訪れない、超一流のプロ野球選手が到達すると言う高みに至れた事に自分自身が感動しながら、向かってくるボールに向かってバットを叩きつける。  瞬間、手に伝わったのは鉛塊でもどころか戦車の砲撃でもぶち当たったかのような衝撃だった。初めて受けた内田文彦の魂を込めた投球は、クリーンヒットした金属バットすらも容易に押し通すほどに強力なものだったのだ。俺は負けじと肩、腰、両腕、背中と全身に力を込めて押し返す。本来はコンマ0.1秒にも満たないほどのインパクトの瞬間の筈だが、永遠に続くかと思われるほどに長いものに感じた。そして、その永遠は、俺たちしか感じることの出来ないものだ。  遅れてやってきた金属バット独特の甲高いインパクト音と同時にやってきたのは、世界を壊す轟音。恐らく隕石が落ちた音が、およそ秒速340メートルで俺たちに向かって襲いかかってきたのだろう。鼓膜どころか内臓を吹き飛ばしそうな爆音の中でも、あのインパクトの音は確かに聞こえていた。  崩れゆく世界の中では、白球が何処へ飛んだのかわからない。ファールグラウンドに消えたのかもしれないし、遥か彼方へと吹っ飛んでいったのかもしれない。それを確かめる術はもうこの宇宙にすら存在しないが、俺にとっては些細なことだった。  全力の中の全力を出し、あいつの全力とぶつかれた。その事実だけで、十分だったのだ。きっと、俺も文彦と全く同じことを考えていただろうし、全く同じ表情をしているに違いないだろう。  最後に見た文彦は、屈託のない笑顔をしていた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加