この世に生を受けた理由

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この世に生を受けた理由

 生きる理由なんて、後悔しないように死ぬ為だとずっと思って生きてきた。人の人生は『どう死ぬか』ではなく、『どうやって生きたか』で決まる。それだけを胸に漠然と過ごしていたし、自分で言うのもなんだが、高校、大学を卒業して就職先で同期と職場結婚というありふれた人生を過ごしていた。このまま平凡に生きていくのだ。そう思いながら日々を過ごしていた。  そんな考えというものは大きな衝撃を受けてしまえば一瞬で粉々に砕け散る。仕事が軌道に乗り、忙しくなってくるかもしれないというところで、妻の玲奈が妊娠したという話を聞いた。新しい命がもうじきにこの世に生まれ出るという事実に喜びを感じながら、これからは父として家庭を支えなければならないというプレッシャーも確かに感じていた。不安定になる玲奈に苛立ちを感じなかったといえば嘘になるが、もう一つの命が身体の中にあるので混乱するのも当然だ。愛する玲奈のために出来る限り寄り添い、二人で困難に立ち向かっていった。  そんなこんなであっという間に時間は過ぎていき、もうすぐ父になる自覚が段々と大きくなってきたところにやってきた、もうすぐ世界が滅びるという最悪のニュース。出来ることならば嘘であると思い込んでいたかった。  俺が子供の頃に一時期メディアを騒がせた、ノストラダムスの大予言。『1999年7の月、空から恐怖の大王が下りてくる』という言葉に人々は大いに惑わされたし、丁度『死』というものを漠然と知り始めていた俺からしてみれば恐怖以外の何ものでもなかった。  ノストラダムスの言っていたことは結局何も起こらずに、世界は平穏なまま歩みを続けていった。今回もそうであることを祈りながら日々を過ごしていたが、否定の話が出ることもなかった。ストレスはお腹の子供に非常に強い悪影響を与える。玲奈には出来るだけテレビを見せないようにし、不安を押さえつけながら笑顔を貼り付け続けていた。察しのいい玲奈のことだ。俺が無理をしていることなどとっくにわかっていただろう。それでも、前を向き続けていた。倍率が数億倍だとかいう希望の船のクルーに応募をしたのだが、当然の如く落選をしても俺たちは俯くことはなかった。  流石にその希望の船が空中で粉々に砕け散ったのを中継で見たときは驚いたし、あの船に我が国の有名な実業家とその恋人が金の力で乗り込んでいたという事実はもっと驚いた。結果的には失敗したけれど、金さえあれば玲奈と我が子を助けられたかもしれなかったという現実は、今までの平穏な人生の道のりとは一体なんだったのだろうかと思えた。そのような考えも時間の経過により、希望の船が粉々になって人類が全てを諦めていくと同時に殆ど消えてなくなっていった。  希望の船が吹き飛んだときは、地球の残り時間はあと2ヶ月程度となっていた。一途の下衆な話しか取り上げない週刊誌を除いたほぼ全てのメディアは犯人探しをすることもなく、馬鹿みたいな名前の宇宙船など存在しなかったかのようにいつも通りの日常を映していた。最近話題のスイーツやら、テレビ局の売り込みたいドラマに出演した俳優、アニメの吹き替えに挑戦する人気のコメディアンの紹介など、退屈とも取れる日常を映し出していった。  テレビの中の光景だけではなく、実際の世界も平常に動いていく。電車はダイヤ通りに走っているし、高速道路は大量のクルマが行き交っている。事故が起きればパトカーと救急車がやってくるし、火事が起きれば賢明な救助活動が行われる。人々が繁栄を諦めても、日々を悔いなく過ごそうとしているのだ。俺も玲奈も、いつも通りの日常を過ごしていた。時折義母が俺たちの住むマンションの一室に来ることもあった。玲奈と同じような義母の優しい笑みを見ていると、命の連鎖というものが続いていくことを改めて実感する。そして、その連鎖は玲奈のお腹にも確かにいるのだ。玲奈の意向で生まれてくる子供の性別は、わからないようにしてきた。生まれた子供に先入観を持たずに愛情を注ぎたいという彼女の気持ちを尊重して、俺は頷くだけであった。  玲奈の妊娠が8ヶ月を超えた頃、丁度この頃から玲奈は甘いものを欲し始めていた。彼女は元々あまりそういったものが好みではなかったので、慌てて近所のデパートで様々なジャンルのスイーツを買い漁った。何種類か一口食べては、これじゃないと拒否し続けた玲奈ではあったが最終的には餡蜜に落ち着いた。美味しそうに食べる玲奈を見て胸を撫で下ろす。何が正解で何が不正解なのか、玲奈自身にもわからないのだ。妊娠というある種の未曾有の事態に、体質自体が変わりはじめているのだろう。  テレビを付けていると、このまま何も起きないのではないかというような気がしているが、忘れかけた頃に挟まれる滅びの情報によって一気に現実に引き戻される。ソファーに座る俺の隣には、玲奈がいる。しまったと思った瞬間、俺の手を握り小さく呟く。 「私、何があっても、この子に会いたい。産まれた子供が、何日生きられるかなんてわからない。下手をすれば、産まれた日に死んじゃうかもしれない。ある意味でとても残酷なことかもしれない。でも、私が、私たちが生まれてくる命を祝福しないと、どうするのって」  力強く握られた玲奈の手は、生命力に満ちていた。俺は玲奈の目を正面から見つめながら口角を大きく上げる。彼女の言う通り、どんなことがあっても、何をしてでも俺たちだけはこの子をこの世界に連れ出さなくてはならない。この地球の空気を直接吸って、音を聞いて、光を見て、産声を上げて欲しいのだ。それが例え一瞬でも、我が子が生まれたことを、我が子自身が認識して欲しいのだ。それが親のエゴイズムだと言うならばそうなのだろう。それでも、それを願うのは、罪なのだろうか。もしそれが罪ならば、誰が裁くのだろうか。  どんなことがあっても、太陽は昇って沈んでいく。いつものように仕事をしながら玲奈のサポートをしているうちに、日々はあっという間に過ぎていった。今日の日付は、8月11日。今日が、世界が滅びる日だ。間に合うかどうか、焦りがなかったといえば嘘になる。それでも最後の最後で神様を味方につけることに成功した俺は今日の明け方、産気づいた玲奈を連れて病院へと向かった。スタッフの指示に従いながら、苦しみ始めた玲奈の背中をさすったりしている間に、準備が整ったようだ。  あとは最早、俺に出来ることは祈ること、そして待ち続けることだった。ドラマで病院の椅子に座り続ける登場人物の気持ちがよくわかる。普段は座り心地の悪く感じる合皮製のカバーの椅子の硬さなど、何も感じることもない。時間の感覚もない。悟りを開く直前の聖人のように、ただただ我武者羅に祈り続ける。どうか、無事にこの世にやってきて欲しい。玲奈も何事もなく元気に笑いかけていて欲しい。出産という命がけの行為に対してあまりにも身勝手で楽観的な祈りだ。せめて苦しみ続ける玲奈の痛みを肩代わりできればと思うが、指が食い込んでいく腕も痛みを感じることはなかった。  嗚呼。神様。最後の最後に虫のいい話かもしれません。今日、世界が滅びる日に限って産まれてくる我が子をどうか、どうか無事にこの世に導いてください。  祈りが本当に届いたかどうかはわからないが、分娩室のドアが開く。こちらに向かって歩いてきた医師が、柔らかい笑みを浮かべた。もう医師の言葉は聞こえない。微かに聞こえる産声しか耳に入らなかった。  分娩室の奥の方で、息を切らせながらも慈愛に満ち溢れた表情を浮かべている玲奈の胸の上には、小さな小さな命があった。産まれた瞬間に上げる叫びを出し終え、目を閉じて眠る我が子を見た瞬間に、大口径の銃で打ち抜かれたような衝撃が俺の側頭部に響き渡った。  ゆっくりと手を伸ばす。この世に生を受けたばかりの我が子の頬に初めて触れたと瞬間に、俺が産まれた意味を知った。俺は、この子に巡り会うためだけに産まれて、今まで生きてきたんだ。突き詰められた至上の喜びと例えるには余りにも大きすぎる感情。それを整理することができずに胸の奥の感情が爆発して、どうにかなってしまいそうだ。 「.......雅之さん、泣いてるの?」  玲奈の声に驚きながら頬を触る。気づかないうちに僕の頬は涙で濡れていた。今日、世界が滅びるとしても、産まれてきた意味、生きてきた意味を知ったのだ。 「ありがとう」  涙で声が詰まって声がなかなか出て来ない。絞り出されたその言葉は玲奈と産まれたばかりの我が子への感情が濃縮された感謝のものであった。自己満足でも構わない。腕時計の示している時刻はそろそろ正午になるところだった。あと12時間もしないうちに世界が終わるとしても、父親になった瞬間に形成されたその感情を失ってはいけない気がした。 「女の子、だったよ。早く、名前を呼んであげて」  額から未だ汗を流し続けている玲奈の声に、眠り続けている我が子にどう声をかけていいか考える。ずっとずっと、頭の中でシミュレーションを繰り返していたのだが、完全に吹き飛んでしまっていた。それでも、予め玲奈と二人で決めていたその名前を忘れることはない。多く息を吸い、産まれたばかりの小さな姫君に持ちきることが出来ないほどの愛情を込めて声をかける。 「俺がパパだよ、望見」  余りにも安置な言葉。俺の声は、瞳を閉じて眠っている望見には届いていないかもしれない。それでも、この胸の中で暴れ続けているこの幸福感は、もうすぐ世界が終わるという絶望感など宇宙の彼方に吹き飛ばしてしまうほどに大きいものであった。  これから世界がどうなったとしても、3人が一緒ならば何も後悔する事などないだろう。そういった確信だけが、俺の中にはっきりと存在していた。
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