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プロローグ
――斬、という鈍く鋭い音とともに竜の姿をとった邪生物の首が落ちる。
戦場に立つ少女は、丸腰であった。
少女の前に立ちはだかる、先ほどまではこの大地を蹂躙しつくさんとしていた邪生物を操っていた男は叫ぶ。
「……ど、どうして! あらゆる攻撃魔法の術式は封じているはずだ! お前の武器は何だ――なぜ、俺が負けるんだ!?」
圧勝できるはずだった。
戦いにすらならないはずだった。
現に、兵士たちも、その力を鼻にかけていた魔導士たちも、男とドラゴンの前では敵ではなかった。
魔法大国を相手どるにあたって男の開発した、攻撃魔法も防御魔法も無力化する術式はすべて上手く働いていたはずだった。
それなのに。
「お前は――いったい誰なんだ、女ァッ!」
目の前の、名も知らない少女が――男の計画をすべて、切り伏せた。
そして、少女は嘆息する。
男の叫び声など、取るに足らないとでもいうように。
「さぁね。私が誰かとか、そーゆーのはどうでもいいからさ……」
紅い刃を、少女は振るう。
男の首から、赤い、赤い、血が吹きあがる。
「……早く帰って、あったかいお茶でも飲みたいよ」
戦場は紅く染まり――長く続いた戦役は、その少女の一撃をもって終結した。
その少女の名も、存在も、誰も知らない。
* * *
――数年後。
咲き乱れる四季の花。
そびえ立つは、白亜の城。
魔法大国シュトラの王城は、今日も今日とて賑わっていた。
王侯貴族の華やかなりし囁きあい。
魔法大国と呼ばれるゆえんである綺羅星のごとき魔導師たちの、その力と技術と自らの派閥の拡大にしのぎを削る権謀術数。
その中心、魔法の力によって咲き乱れる薔薇と百合の庭園の、その中心。
たっぷりの白いレースのあしらわれたメイド服をまとい紅茶色の髪をなびかせた――まだ少女とも呼べるほどの女が立っていた。
手には、つるりと白い陶器。
たっぷりの湯をたたえて、内側に茶葉を躍らせるポット。
そして、彼女の前の丸テーブルに置かれた――紅茶のカップ。
こぽぽ、と音を立てて紅く、深く、そしてどこまでも透明で温かい紅茶が注がれる。
菫色の瞳が、それをじっと見つめる。
彼女の名は、レミィ・プルルス。
連綿と続く魔術師たちの楽園、魔法大国シュトラ。
その王城に勤める――『宮廷魔導師』のひとり、【紅茶の魔女】である。
* * *
「はぁ……ほんとに、うるさい」
レミィは雑音を耳に入れないように、手の中のポットで沸き立つ湯の音に耳を澄ませた。
彼女の耳には、こぽこぽと沸き立っていく湯の音の他に聞こえる声があった。
王城の庭園の東側にそびえたつ、講堂。
そこに100名を超える宮廷魔導師たちが朝礼のために集まり始めているのだ。
「よし、本日の出勤者と役職者は全員講堂に集まりましたな!」
「いや、待て。【紅茶の魔女】がまだ来ていないぞ」
「……はっ。お前、本当にカタブツだな。【紅茶の魔女】だぞ? あの女、朝礼にも協議会にも一度も出てきてない……というか、あの女が出席して何になる? あいつの固有魔法はただ、旨い紅茶を淹れられるってだけだぞ?」
「まぁ、確かにな……まったく、戦争とも厄災ともやっと無縁になったこんな世の中じゃなけりゃ、【紅茶の魔女】なんていう、あんな役に立たない役職が栄えある宮廷魔導師のうちに列せられるはずもないんだがなぁ」
「まったくだ。よし、朝礼と協議会を始めよう。――俺たちは王族の皆様と国のために日々働いてるってのに、アイツの仕事は茶会の取り仕切りだ。格が違うんだよ、格が」
言い放つ声には、嘲りが含まれていた。
それを、隠そうともしていない。
「……聞こえてるっつーの」
レミィは、紅茶を一口。
ミルクと砂糖で茶葉の香りをうんと引き上げた一級品だ。
温度も、水の質も、沸き立つ間の対流も、水と茶葉の鮮度も――すべて、彼女の思いのまま。
完璧な一杯である。
この豊かな一杯。
ゆるやかに流れる時間。
「っていうか、旨い紅茶以上に大切なものなんて――この世の中にないでしょうに」
バタン!
講堂の扉は、閉じられた。
宮廷魔導師の役職のひとつ【紅茶の魔女】を襲名したレミィの到着を待つことなく、だ。
しかし。
それは、レミィにとっては願ってもいない扱いだった。
不毛な会議よりも、一杯の紅茶を庭の真ん中でいただく時間の方が愛おしい。
レミィはお気に入りのカップになみなみと特製の紅茶をそそいで、うーんと伸びをする。
昨日も書類仕事に追われて、あまり眠れなかった。
「はーぁ。かったるい会議なんてすっとばして、こうして庭園独り占めして飲む紅茶は格別だわ~!」
甘い紅茶を一口。至福の瞬間。
――しかし。
「レミィ! ここにいたのね、ごきげんよう!」
「うわあ!! ……って。また、こんなところにいらしたのです?」
突然の訪問者を、レミィはじとぉっと睨んで、ふてぶてしく形ばかりの立礼をする。
「お茶のお作法の講義は、今日の予定にはございませんよ……ステラ王女殿下」
訪問者――レミィよりも年若い少女の銀の髪には、王族の血を示すティアラが輝いている。
魔法大国シュトラの第一王女、ステラ・ミラ・エスタシオ。
彼女はこの庭とレミィの紅茶をどういうわけか気に入っていて、毎朝のようにレミィのもとを訪ねてくるのだ。
「ふふ。宮廷魔導師たちが朝礼でいなくなるこの時間は、羽を伸ばせて好きなのよ」
「……私も一応、宮廷魔導師のひとりですけれどね」
レミィは、新しく湯を沸かす。
ポットに手を触れれば、たちまち中の水が沸き立ってお茶を淹れるのに最適の温度になる。
茶葉をティースプーンですくえば、茶葉は理想的な乾燥具合と熟成具合に変成する。
それが、【紅茶の魔女】――レミィ・プルルスの能力だ。
「わぁ……いい香り。茶葉になにか仕込んでいるのね?」
「ええ、そうです。鼻がよいですね、ステラ様。むせ返るような庭園の薔薇と百合のなかで、かすかな柑橘の香りを聴き分けてくださるとは」
素直に、感心した。
なかなかに見どころのある少女である。
レミィの言葉に、ステラは嬉しそうに応える。
「ふふ、だってレミィの紅茶は一級品ですもの。さすが、宮廷の誇る【紅茶の魔女】ね!」
「はぁ」
嬉しそうに微笑んでいるステラに、レミィはすっかり毒気を抜かれてカップ・アンド・ソーサーを差し出した。
朝食用に爽やかな香りと軽い飲み口に調合した、レミィ特製の紅茶である。
本当は、自分一人で楽しむためのものだったのだけれど。
「……サンドウィッチも食べますか?」
「まぁ! どうして私がお腹がすいているってわかったの」
「さっきからグゥグゥと腹の音色が聞こえてますからね……この、間に薄く挟まってる瓜は今年の農作物の新作だそうですよ。平民向けの食べ物ですが、うすーくうすーく切って、バターと一緒にサンドしたら意外と美味しかったんで、よかったら試してみてください」
「わぁ、美味しいわ! これ、今度のお茶会でも出してくださいな」
「ご冗談を! そんな貧乏ったらしい、しかも平民向けに開発された食材をお出ししたら私のクビが飛びます。物理的に。私はこの大国の宮廷で特に役に立つこともなく、のんびりと給与をいただいてサボり放題の勤務を末永く続けるって言う志がありますからね」
「あっは、うふふ……本当に面白いヒトね、レミィ。私、一応この国の王女よ? そんなこと言っていいのかしら」
しまった。
このお姫様は、どうにも腹の内が読めない――というか、十中八九がド天然ゆえに、腹芸というものが通用しないのだった。
「あー……それを飲んだら、さっさと王城にお帰りくださいよ。お姫様。王族の方が、たかが宮廷魔導師のひとりと……しかも、【紅茶の魔女】なんかとつるんでると知れたら、あまりいい顔はされませんよ」
「あら、お友達としても?」
「そうですよ。ほら、行った行った」
王族に対する態度としては0点としか言えない対応で、レミィはステラを追い払う。
実際、大仰な名前に反して実体はただの王宮役人である宮廷魔導師と王族――しかも、現国王直系の血族であるステラと『個人的な関係』にあるというのは、スキャンダルに発展しかねない。
ここは、生き馬の目を抜くシュトラ王城である。
「さぁ。うるさがたの教育係たちが朝礼から戻ってきやがる前に、お部屋に引き上げなさいな。あなたは朝の気付けの一杯として【紅茶の魔女】に茶を淹れるように命令をした――いいですね?」
「はぁい……じゃあね、ごきげんようレミィ!」
「だーかーら、名前で呼んじゃいけませんって! あー、もう。まぁ、いいでしょう。明日は来ないでくださいよ」
返事はもう聞こえない。
まだ幼さの残るお姫様は、ふわふわした見た目に反してお転婆ですばしこい。
「まったく、平和ボケっていうんですかね。もっと王宮ってのはピリピリしたもんだと思っていましたけど」
ふぅ、とレミィは息をつく。
この王城では【紅茶の魔女】というのは蔑称に近い。
ステラはそれを知ってか知らずか、レミィのことを名前で呼ぶのだ。たった数年前までの戦時下、宮廷魔導師にまぎれた敵国スパイの存在がまことしやかに囁かれていた頃には考えられない行動である。
「ま。平和すぎるくらいが、いいですけどね」
レミィは自分のためにもう一杯紅茶を淹れる。
今度は、うんと渋みを利かせたブレンドのお茶を、渋みとえぐみが出るように、長時間の蒸らしで茶葉をいじめる。
この王宮内で【紅茶の魔女】の地位は低い。
魔術師のなかでも使える者が限られる、その人物に特有の魔法『固有魔法』を使えるところまではいいけれど、その能力に難がある。
いかなる炎も操り敵陣を焼き尽くした、戦役の勇者【爆炎の魔導士】。
光を操り、王国の夜を照らす常夜灯をもたらした不夜の象徴である【光臨の聖女】。
そして、ありとあらゆる固有魔導を解析し攻撃魔法を打ち出す魔法大国シュトラの象徴である兵器を生んだ【機工の魔女】。
そういった綺羅星のごとき宮廷魔導師たちと比較すれば、【紅茶の魔女】であるレミィの能力――紅茶を旨く淹れる能力というのは、本当にお茶会にしか役に立たないものだ。
――少なくとも、表向きは。
したがって、彼女は自国の王侯貴族や外国からやってくる貴賓たちのお茶会を取り仕切るという役割を担っている。
戦闘にも国防にも役に立たない、最弱の宮廷魔導師。
普段の主な仕事は……書類作成と、その運搬である。
「……さて。そろそろ、今日の仕事に向かいますかねーっと」
平和なことは、よきことかな。
役立たずの固有魔法しかもたない宮廷魔導師、【紅茶の魔女】は立ち上がる。
今日も、平和な一日を始めようではないか。
「む?」
カサリ、と何かが庭園の花を揺らした。
嫌な、気配がする。
レミィは手に持ったティーポットを――気配の下方向に、突きだした。
「誰だ?」
ヒュン――!!
高い音とともに、ティーポットの注ぎ口から飛び出した塊が薔薇の花を撃ち落とす。
弾丸――否。
レミィが打ち出したのは、紅茶だった。
「……? 勘違いかな」
きょろきょろ、とレミィは周囲を見まわす。
うん、誰もいない―――ように見える。
「よし、誰にも見られてない……っと。あー、しかし、薔薇の花も落としちゃったし葉っぱを掠っちゃったか。こりゃあ、あいつに絞られるなぁ」
私も腕が落ちたもんだな。
そう、レミィ・プルルスはつぶやいた。
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