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19.
自室に戻った俊輔は上着を脱ぎ、何度も布切れを換えながら、鼻血が付いた部分を丁寧に落とした。
作業を終えた後は熱いシャワーを頭から浴び、ぼんやりと色々な事を考えた。
( ユリウスさんは、何も出来ない俺を、本当はどう思っているんだろう。俺の面倒見るの仕事の一つだから、割り切ってるのかな… )
洗い終えた身体を拭き上げ、ガウンを羽織ってバスルームを出る。
窓の外はもう、夕闇に包まれていた。
( とにかく明日、もう一度。ユリウスさんに話そう。ちゃんと説明すれば… )
その時、コンコンとドアをノックをする音が聞こえた。
リディルが来たものと思い、扉を開けて息を詰める。
「…ユリウス、さん」
彼女は俊輔と同じく、白く丈の長いガウンを纏って立っていた。
紅い色の肩布を羽織り、結ばず下ろしている銀の髪が、仄暗い廊下でも燐光を放って見える。
リラックスしたその姿は、いつもより女性らしく、俊輔の瞳に映った。
「シュンスケ。少し、付き合え」
二人は蝋燭の灯りが落ちた廊下を真っ直ぐ歩き、一番西の部屋へ向かった。
ここは、ユリウスの寝室だ。
部屋の構造は俊輔の部屋と、余り変わらない。
ただ、南側に大人が数名座れる位、大きな出窓があった。
部屋に入るなり、ユリウスはグラスにワインを注いで俊輔に訊いた。
「お前も飲むか?」
「まだ、未成年なので」
「真面目だな」
軽く笑ってアルコールの無い、濃厚で新鮮な葡萄のジュースを注いでくれた。
「アリシアから聞いたんだが、お前、元の世界に帰りたいのか?」
「それは…」
言い淀んだが、彼女は構わず続けた。
「お前には親がいる。まだ子供なんだし、元の世界や家が恋しくなるのは、当たり前の事だ」
元の世界が、家が恋しいという気持ちは、確かにある。
透や学校の友達との、他愛もない会話。家で気ままに漫画を読んだり、新作のゲームを楽しんだり。
俊輔が当たり前に享受して来た日常生活は、こちらでは逆立ちしたって、手に入らない。
でも、それが理由で帰りたいのかと問われれば、違う気がした。
「元の世界が恋しくて、帰りたい訳では無いです」
しゅんと背を丸めた俊輔に、苦笑を浮かべる。
「せっかく立派な身体をしているんだから、もっと、堂々としたらどうだ」
「……」
ジュースを一口飲んでテーブルに置くと、俊輔は両手を、身体の前で重ねた。
アリシアに言われた言葉を胸に決心し、自分の想いを話し出した。
「ユリウスさん。俺、本当は、こんな立派な身体じゃ、無いんです」
俯きがちに話し出した彼を、じっと見つめる。
「もっと背は低いし、こんなマッチョじゃ無いし、これと言った取り柄もなくて。フラウディルを救う為に呼ばれたはずなのに、ユリウスさん達の世話になってばかりで、何も出来ない」
自分の駄目な所を告白するのは恥ずかしかったが、続けた。
「俺はこれまで、もし異世界に行けたら…。転生出来たら、凄い人物になれるんじゃないかって思ってました。馬鹿みたいだけど、ずっと、特別な能力が欲しかった」
ユリウスは俊輔の話を、遮る事なく聞いている。
緊張で震えていた手が、収まって来た。深く息を吸い込み、真っ直ぐに顔を上げる。
「折角、異世界に転生出来たって言うのに、俺は何も変わってません。相変わらず能力は無いし、気弱なままで、何も出来ない…」
しん。とした沈黙が降りた。
ユリウスはワインを一口飲み、薄紅に染まった口唇を開いた。
「シュンスケはなぜ、そこまで特別な能力が欲しいんだ?お前のいた世界は、それが無いと生きて行く事が出来ないのか?」
真面目に訊かれ、答えに窮した。
言われてみれば…。そんな事は、無い。
特別な能力を渇望する理由を、思い付く限り引っ張り出してみる。
「い、いえ。無くても、生きて行く事は出来ます。…ただ能力があると、就職に役立ったり、収入に差が出るとかは、あると思いますけど。あとは、皆が持っていない珍しい能力が自分にあるのは、単純に、気持ちがいいから、かな。特別な存在に、なれる気がするから…」
四苦八苦しながら説明すると、ユリウスは頷いた。
「では、なぜ特別な存在になりたいんだ?」
「なぜ、って」
難しい問いに、また頭を捻る。
もし、特別な能力があったら…。
有象無象の自分でも、必要としてくれる人が現れるかも知れない。
ー誰かに認められて、必要とされて、安心したい。
「……なるほどな」
たどたどしい上に拙い回答だったが、俊輔の考えを聞き終えたユリウスは、心得た様子だった。
「シュンスケはこちらの世界で、誰かに必要とされたいんだな。だから、いきなり使用人になりたいと言い出したのか」
「あ…」
自分にしかない能力を認められ、多くの人にちやほやされるのは、快感だ。
魔法もある異世界で、強大な力や特殊な能力を振りかざし、自己顕示欲を満たしたいと思う気持ちだって、ある。
でも、それよりずっと強い望みが、胸の奥で息衝いている。
それは、転生する前の俊輔にはまだ、存在しなかった。
「お前は、心からフラウディルの助けとなりたくて…。私達に受け入れられたくて、能力が欲しいのだな」
すとん。と、完全に腑に落ちた気がした。
俊輔は美しくて儚い、フラウ・エレンディルの木を見た時の衝動を、今のこの瞬間にも、感じ取っていた。
「そうだ、俺…。少しでも、この国の人達の役に立ちたいって、あの時、思って…」
「やはり、魔法書の選定は正しかったな」
ユリウスの蒼い瞳が確信を得て、細められた。
「シュンスケ。お前は、自分には何も出来ないと言うが、そうでは無いぞ。まだ、経験が足りなさすぎるだけだ」
「経験…」
彼女は背を向け、出窓へ向かった。
「お前はまだ、何も始まっていない。自分に何の能力も無いと決めつけるのは、逃げている事と同じだ。そう思い込んでいた方が、楽だからな」
胸に刺さる物を感じ、息を呑む。
「シュンスケ。逃げずに、自分に何が出来るのかを探せ。焦って早合点して、自分の可能性を潰すな。私も、協力する」
背を向けた彼女の表情は、俊輔には分からない。
「…だから、まだ帰るな」
「はい…」
何だか泣きそうになって、また俯いてしまった。
「一時的とは言え、お前もフラウディルの国民だ。困っている国民を助けるのは、貴族の役目だからな」
第一、と付け加えた。
「こちらの勝手な都合で、異世界からお前を呼び出しているんだ。面倒を見るのは、当然の事だろう。細かい事は気にしなくていい」
ユリウスらしい考え方だった。
「それに」
くるりと振り返る。
「シュンスケには、すでに特別な能力がある」
「えっ」
ドキリと顔を上げ、俊輔は続く言葉を、待った。
「シュンスケは、素直だ」
「…へっ?」
からかっているのかと思ったが、彼女の表情は、至って真剣そのものだ。
「あの、素直って。それ、能力ではないですよね」
面食らった俊輔に、ユリウスは、ふふっと含み笑う。
「いいや。元から素直な人間というのは、ある意味最強だぞ。困った事があると、周りがこぞって、手を差し伸べようとするからな。放っておけないんだ」
「素直さなんて、誰にでも持てるんじゃ…」
「真に素直な心は、持とうと思って持てるものでは無いし、購えるものでも無いだろう。だからそれは、シュンスケの特別な能力だ」
ハッキリ断言され、赤面してしまう。
「で、でも。俺の事、バカ正直とか、空気読めないとか、アホとか言う人、結構いますけど…」
「それは、相手の受け取り方の問題だな。私はシュンスケに対して、そうは思わない」
「あ、ありがとう、ございます…」
与えられた言葉の処理が追い付かず、ますます、俊輔は混乱していた。
でも、頭の中がぐちゃぐちゃなのに、不思議と心は鎮まっている。
ユリウスは出窓に座り、俊輔を呼んだ。
隣に座るよう促され、大人しく腰を降ろす。
「…さっきは偉そうな事を言ったが、私も、特別な能力が欲しいと思った事がある」
「ユリウスさんも?」
意外な言葉に目を丸くした。
彼女は十分、特別な能力に恵まれていると思うのだが。
「私は、ノアの父君に良く思われていない。キルシュタインは武官の家である上に、ノアの家より格が低い。それなのに、ノアをキルシュタイン家に迎え入れるのだからな」
キルシュタインは、ユリウスしかいない。
ノアのオルティニア家には、もう一人令嬢がいた。
「大尉を任命した際、ノアに正式に婚約を申し込んだが、父君に断られた。五将に入れたら、認めると言われてな」
オルデールに言われた事は、やはり本当だったのだ。
「その時に、なぜ自分の家は、導官では無いのだろうと思った。私にも魔力があって、優秀な導官だったら、もっと早く…父君に認めて貰えたかもしれないのにと」
自嘲し、グラスを傾ける。
「まあ結局、意地になって、何とか五将の座に着いた訳だが」
「そうだったんですね…」
これまでどれ程の、懊悩があったのだろうか。
周りから結婚を反対され、ライアから厳しい条件を付けられても、それでも、ユリウスはノアと結ばれる事を望んだ。
俯けた、白い横顔を見遣る。
「貴族が、恋愛感情だけで結婚するものじゃないって言うのは…。何となく、分かりますけど」
優しい声音に、顔を上げた。
黒く縁取りされた、綺麗な金の瞳がユリウスを間近に見つめて、笑みの形に細められた。
「それでも、ユリウスさんとノアさん、凄くお似合いだと思います」
ユリウスの白い頬が、ワインのせいか、うっすらと染まっている。
「…ありがとう」
囁く様に礼を言い、彼女はグラスに残ったワインを飲み干した。
それから暫く、二人の間には心地よい沈黙が続いた。
会話の切っ掛けを探していた俊輔は、ずっと、疑問に思っていた事を訊いてみた。
「…そういえば、俺に似てるグアド族って、どんな種族なんですか?」
俊輔をグアド族だと勘違いし、絶叫する人もいる位だから、マッチョな男性が多い種族なのだろうか。
ユリウスは二本目の栓を開け、ちょっと首を傾げた。
「そうだな…。皮膚は赤茶色をしていて、光沢と滑りのある緑色の鱗が、体の弱い所に鎧の様に付いている。口は耳まで裂けていて、鋭い牙が並んでいてな…」
「ちょっと、待って下さい」
聞き捨てならない展開を手で遮り、ユリウスを止めた。
「今の話だと、どう聞いても人外と言うか、妖怪なんですけど…」
「そうだ。良いのがある」
彼女はポンと手を叩き、続き部屋にある書斎に向かった。
机の引き出しからガサガサと羊皮紙を引っ張り出し、再び出窓に戻って来た。
「これが、グアド族だ」
羊皮紙を広げ、丁寧に描かれた絵姿を凝視した。
「…これ、河童、ですね」
「そうか」
「でも、皿と甲羅が無いな。手は人と似てるけど、鋭くて長い爪がある。舌も、異様に細長いし…。グアド族って、河童と半魚人足して、チュパカブラで割った様な外見なんですね!これに俺が似てるとか、本気であり得ないです」
笑い飛ばした俊輔に、ユリウスは真剣に頷いた。
「正直、シュンスケが何を言っているのか良く分からないが。お前がそこまで言うなら、やはり、グアド族に似ているのだろうな」
「はあぁぁあ!?どこから見ても、俺とは似て無いって言ってるんですよ!どこをどう聞いたら、そう捉えられるんですかっ!」
男が全員、案山子に見えると言ったり、この国の人達、絶対に目おかしい…!!
怒髪天を衝く鬼の形相の俊輔に対し、悪いと思いつつも、吹き出してしまう。
「すまない。お前の、怒っている顔が、珍しいやら、可笑しいやらで…」
ユリウスは小刻みに肩を震わせ、笑いを堪えている。
「…俺は本気で、怒ってるんですからね」
全くもって理解不能な状況に、怒りより呆れが勝ち、俊輔までつい、つられて笑ってしまった。
穏やかな春の夜空で、宝石の様な星が瞬いていた。
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