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21.
俊輔がフラウディル国に異世界転生し、二週間近く経った。
その頃から、新しく始めた事がいくつかある。
一つは、フラウディルの文字を学び始めた事。
ユリウスと時々訪ねてくれるノアにも教えて貰いながら、簡単な単語なら、大体読み書き出来る様になった。
そして、毎朝の鍛練に俊輔が慣れ始めた頃。
ユリウスは当初、例の木材を使って指導してくれていたが、お互いに、本物の剣を使う事になった。
「…剣の中程から、切っ先までの部分は、剣にとって一番弱い場所だ。下手すると、折れるからな」
ギチィ…、と、剣同士が押し合う金属音に、俊輔の体に細かな戦慄が走った。
ー現在ユリウスと、鍔迫り合いの真っ最中だ。
均衡したこの状態を、バインドと言った。
「バインド状態の時は、剣の中程から少し下の、そう…。この部分で押す様に。一番力がかかるし、反撃もされにくくなる」
「く……ッ!」
噛み締めた奥歯が、嫌な音を立てた。
渾身の力で押しているのに、びくともしない。
対するユリウスは息も切らさず、片手で俊輔の攻撃を封じながら、説明を続けた。
「バインドは長引かせるな。長引けば、余計な体力を消耗する。押し合った時点で相手の力量を量り、意図する先は何なのか、考えろ」
剣を弾かれ、互いに間合いを取った。
呼吸を整え、再び構える。
彼女の構えを見るなり、柄を握る手に汗が滲んだ。
ユリウスは、剣の切っ先を下に向けた状態の、愚者の構えを好んで使う。
例の木材の時からそうだった。
パッと見、がら空きで隙だらけの構えだが、そうではない事を、既に身をもって知っている。
ほぼ同時に踏み出し、互いの攻撃を何度も制し合う。
耳をつんざく激しい剣のぶつかり合う音に、二人の荒い呼吸の音が混じった。
「うう、ッぐぅ…!」
再びバインド状態になり、ユリウスと間近に、目が合う。
深く蒼い瞳の奥に獰猛な光を見付け、ゾクリと俊輔の背筋が震えた。
「…あッ!」
俊輔は押し負け、素早く刀身を滑らせたユリウスは剣を巻き、ピタリと彼の喉元に、刃を当てた。
「良し。今日はここまで」
刃が離れ、剣が鞘に納められると、ドッと汗が吹き出した。
「ありがとう、ございました」
自分も鞘に剣を納め、一礼する。
「武器によって構え方は様々だ。これと決めずに、色々試すといい。構えを知れば、相手の次の動きが読みやすくなる」
「はい。分かりました」
ユリウスは額の汗を拭き、髪を結んでいた紐をほどいた。
サラッと銀の髪が広がり、朝日に透けながら、金色に波打つ。
「シュンスケと鍛練するのは、楽しいな」
そう言うとユリウスは珍しく、にっこりと素直な笑顔を見せた。
少女の様に純粋な笑顔を向けられ、油断していた俊輔は赤面してしまう。
( この人は、全く… )
屋敷に向け、歩き出したユリウスの後を追いかけつつ、深く息を吸い込んだ。
木々の緑は日ごとに濃く艶めきだし、立ち上る土の香りを強く感じた。
ー季節は、初夏に変わりつつある。
ダイニングで、ユリウスと一緒に朝食をとる。
真っ白なテーブルクロスの上に並んだ数々の料理は、どれもこの家の料理人が用意してくれる物だ。
香りの良い野菜と一緒に煮込んだ、柔らかいテールスープに舌鼓を鳴らしていると、給仕をしているリディルが微笑んだ。
「シュンスケさん、最近食べる量が、また増えましたね」
「そうかも。でも、出される料理の量も、どんどん増えてませんか?」
品数もそうだが、最近はびっくりする位の量が、テーブルに準備されている。
「シュンスケは育ち盛りなんだから、沢山食べなさい」
母親みたいな事を言って、ユリウスは紅茶を飲んだ。
彼女が仕事で中央に行っている間、俊輔はリディル達の手伝いをさせて貰える事になった。
使用人としてでは無く、あくまで、お手伝いだが。
他のメイド達と共に、二階の客間の掃除をする。この屋敷に客人が泊まる事は滅多に無いらしいが、定期的に調度品の埃を払い、綺麗に拭き上げねばならなかった。
順番に掃除を済ませ、一番西側の客間の扉を開けて、目を丸くした。
「うわっ…。何だ、この部屋」
その部屋だけ、呆気に取られる程、贅沢な内装をしていた。
毛足の長い、緋色の絨毯が隅まで敷き詰められており、大きな暖炉は、切り出した大理石で造られている。
そして、テーブルや椅子、ベッド等の大きな家具だけでなく、燭台やペン立て等の小物に至るまで、全てが金や宝石で装飾されてあった。
他の部屋はシンプルで上品に纏められているのに、この部屋だけが、異様な雰囲気を醸し出している。
「ああ、この部屋はね…」
後から入ってきたリディルが、俊輔の何とも言えない表情を見て、説明してくれた。
「信用出来ない人を、泊める部屋なの」
「どういう事ですか?」
リディルは天井を見上げた。
天井には、美しい草花の絵が描かれ、絵柄に合わせ、埋め込まれた宝石の煌めきが随所に見えた。
「この部屋の真上、丁度、ユリウス様のお部屋でしょ?」
俊輔も同じように見上げ、こくりと頷く。
「キルシュタインの当主は、信用ならない相手をここに泊める。会話も行動も、実は全部、筒抜けなの。相手が、もし悪巧みでもしようものなら…」
声を潜めたリディルと、目が合った。
「気が付いた時には、喉元に刃が突き付けられているかもね」
今朝の鍛練を思い出し、ごくりと生唾を呑んだ。
「俺が使っている部屋、は」
リディルは俊輔を安心させる様に、一転しておどけた表情で笑った。
「シュンスケさんのお部屋は、ユリウス様が、子供の頃に使っていたお部屋よ。だから、大丈夫」
少し…。いや、かなりの所、ホッとした。
自分のアレコレを今まで見られていたのなら、恥ずかしくてもう、彼女の前に立てないだろう。
( それにしても、信用ならない相手を、こんな贅をこらした部屋に、わざと泊めるなんて… )
もう一度、部屋を見渡した。
惜し気もなく、高価な毛皮や金銀宝石で隅々まで飾り立て、趣向を凝らした部屋は、目が眩む程の輝きと欺瞞に満ちている。
人間の欲望を増幅させるかの様な部屋に、背筋が寒くなった。
客間の掃除を終えてエントランスまで戻ると、メイドが一人で、重たそうな調度品を運んでいた。
運びきれず床に降ろし、痛む腰を擦る姿を見て、思わず声を掛けた。
「大丈夫ですか?これ、凄く重そうですけど…」
「ああ、シュンスケさん。これね、晩餐会の日に使う花瓶なのよ。二階の宝物庫から持ってきたんだけど。一人じゃ、重いわね」
ユリウスとノアの結婚式を二週間後に控え、キルシュタイン家は何かと慌ただしくなった。
普段全く使う事の無い、晩餐会用の豪奢な大広間と、併設されたダンスホール、貴賓室等が次々と開放され、調度品の設置と、飾り付けが始まっていた。
「俺、運びます」
「でもこれ、本当に重いのよ」
「いえいえ、大丈夫ですよ。俺にはこの、マッスルがありますから。フフフ」
余裕たっぷりに微笑み、子供ほど背丈のある豪華な花瓶に、手を掛けた。
「よいしょっ……。えええぇぇナニコレ重いいぃぃいッ!?」
陶器だと思って油断していたら、全てが厚みのある金属で造られていた。
持ち上げた腕が、今にも引きちぎれんばかりに激痛を訴え、太い血管が生き物の如く、大きく脈打った。
あまりの重さに、進む事も出来ずにブルブル硬直している俊輔を見て、メイドは花瓶の底に、手を添えた。
「やっぱり、半分持つわ」
「!?」
彼女が底をひょいっと持ち上げた途端、花瓶は、半分以上軽くなっていた。
狐につままれた表情で大広間まで花瓶を運び、傷付けないよう注意を払いながら、床に降ろした。
痺れた手や腕を擦り、がらんとした大広間を見渡す。
同じ花瓶がすでに七つ程、壁際に等間隔で並べられている。
「ここにある花瓶は、誰が運んだんですか?」
「リディルが五つ、運んでくれたの。私はあまり力が無くて、運ぶのに時間がかかってしまったのよ。恥ずかしいわ」
俊輔は、素っ頓狂な声を上げた。
「ええっ?!リ、リディルさん一人で、コレを運んだんですか?!」
小柄で華奢なリディルが、殺人的な重さの花瓶を五つも運んだなんて、到底信じられない。
俊輔一人の力では、一歩も進めなかったと言うのに…。
しかし、それが普通だとあっさり肯定され、サーッと血の気が引いた。
「ユリウス様は以前、片腕で二つずつ抱えて、同時に四つ運んでおられましたが、流石に誰も真似出来ませんね…。一緒に運んでくれて、ありがとう。助かったわ」
最早、どこから突っ込んだら良いのか分からない言葉と、にこやかなお礼を残し、メイドは大広間から立ち去った。
「女性だけで成り立つ国、って、こういう事、だったのか…」
その場に一人残された俊輔は、力無く膝から崩れ落ちた。
ー決して、自分は非力な方では無い。
転生後の、このマッチョな素晴らしい肉体は、元の世界ならば敵無しの、最強の存在になれるだろうという揺るぎ無い自信があった。
だがこの国の女性達は、そんな彼の驕りをひっくり返し、粉々に打ち砕いてしまう程の、怪力の持ち主だった。
( そんなの嫌だッ!このままじゃ俺はただの、無駄マッチョになってしまう…! )
ユリウスとの鍛練以外でも、限界まで自身の筋肉を鍛え上げる事を、堅く誓った瞬間だった。
ユリウスは、夕方前に屋敷に帰ってきた。
もう一つ、新しく始まった事。
それは乗馬の練習だった。
「そう。馬の反撞を利用して腰を浮かせ、鞍にまた乗るを繰り返すんだ。座るときは優しく。その方が、馬と乗り手の負担が減るからな」
キルシュタイン家の西側には厩舎があり、二頭の馬が飼われている。
俊輔が今乗っているのは、栗毛の雄馬で、ルーンという名前が付けられていた。
手綱を引いてルーンを止まらせ、のろのろと鐙から両足を外し、ぺたりと着地した。
「あの…。自分の足で王都を横断するか、馬に乗るか選べって言われたら…。俺は自分の足で、全力疾走する方を選びます」
普段全く使わない筋肉を、これでもかと酷使した気がする。
内腿の辺りが、生まれたての小鹿の様にプルプル痙攣していた。
この感じだと、明日は酷い筋肉痛になっていると思う。
ユリウスは笑い、ルーンの首の辺りを労る様に撫でた。
「その内鍛えられて、慣れてくるから大丈夫だ」
ルーンの乗馬用装具を外し、厩舎を出ると、空はもう夕焼けに染まっていた。
紺青と橙色のグラデーションが、凄く綺麗だ。
その中に数々の星の煌めきが見え始め、二人で並んで歩きながら、空を仰いだ。
「いつも、星が綺麗だなって思ってたけど、そうか…。月が出てないからか」
何気無い言葉に、ユリウスが怪訝そうに首を傾げた。
「…ツキ?」
「…あれ?もしかして、ここって、月が無い?」
よくよく思い返してみれば、この世界に来てから、月の姿をまだ見た事が無い。
ユリウスに、大まかに月の説明をした。
「それがあると、夜でも昼間みたいに明るいのか?」
「いや、そこまでは。月が満ちていれば、辺りがぼんやりとした明るさになって、綺麗です」
「形を変えながら夜を照らすなんて、ツキって不思議だな」
「そうですね…」
零れ落ちそうな星空を見上げ、俊輔は自分の生まれ育った世界に、思いを馳せた。
( ここは異世界だけど、もしかしたら…、この星の中のどれかが、地球だったりするのかな )
仰ぎ見る内に、自分の両親や、透、クラスの友達の顔が浮かんだ。
「シュンスケ。明日はノアと、なぜかオルデールまで屋敷に来るらしいから、悪いが、相手をしてやってくれ」
「はい。わかりました」
星の瞬きに、二つの世界の繋がりを感じ、励まされた気がした。
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