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野中くんが予約した店は、事務所から徒歩10分のところにある雑居ビルの2階にあった。約束の時間の15分前にパソコンの電源を落とし、ぐう〜と背伸びをしてから立ち上がる。腕時計を確認し、鞄を持つ。
『お先に失礼しまーす』
「お疲れ様でしたー」
「おつかれー。ゆっくり休めよー」
方々から返事が返ってくる。不規則な仕事ならではだからか、この時間になってもまだまだ事務所内には大勢が残る。仕事をしている者もいれば、お喋りしている者、寝ている者もいる。就業時間はあってないようなもの。個人の裁量で決めることができるので、楽といえば楽だったりする。
秋の深まりを感じられる11月下旬。紅葉した街路樹を眺めながらストールを首元に巻きつける。週末のせいか、辺りは陽気な酔っ払いだらけ。
「あら〜お姉さん仕事帰り?一緒にこれからど〜ですか〜」
『いいですねー、また来週!』
適当にあしらい待ち合わせの店へ急ぐ。仕事でもプライベートでも、遅刻は好まない。ゆったりとした時間が流れる南国には住めないだろうなと、全く予定のない未来を想像して少し楽しくなった。
店にはすでに2人が揃っていた。
『ごめんっ、遅れた?!』
「ううん、時間前。ちょっと早くついちゃって、先に2人で始めちゃった」
4人掛けテーブルで対面に座る絵美と野中くんの目の前には半分以下に減ったビールジョッキが置かれていた。同じようにビールを注文し、絵美の隣に腰を下ろす。
「すみません、先に頂いてます」
『どうぞどうぞ、それで、どうしたの?』
「いや、もう少し飲んでからでいいですか?」
酔わないと言い出しづらいことなのか。まぁ彼のタイミングでいいかと思い、改めて乾杯してからお互いの仕事の話で盛り上がった。
「本当に四季さんの記事って面白いですよね。女性向けですけど、男の僕でも思わず読んでみたくなりますもん」
『ありがとう』
「ネタの収集ってどうしてるんですか?僕まだコアなネタ元が見つかってなくて」
面白いネタを提供してくれるネタ元を確保していないと連日記事をアップするのは難しい。彼はまだネタ元を見つけられていないという。これは、1日や2日で見つかるものじゃない。毎日好奇心を持って街に出て、臆することなく声を掛け、話を聞き、紹介してもらう。そのうちどんどん人脈が広がり、あちらからネタが飛び込んでくるようになる。
『私たちはライターだけど、営業マンみたいにたくさんの人に会って雑談するの。心を開いてもらわないとネタなんて貰えないから、まずは人と会う。とりあえず会う。絵美の人脈だってすごいのよ。料理教室からグルメ系のインスタグラマー、ジムまで網羅してるから』
「そうですよね。やっぱり足で稼がないとダメですね。四季さんは、どの辺りから引っ張ってきてるんでしょうか?」
『それはダメ、教えられない』
「…ですよね。ネタ元って貴重ですもんね」
『分かってるなら聞かないの』
こんな話をしているうちに、あっと言う間に1時間が過ぎた。結局、彼の相談というのは何だったのだろう?ネタ元のことなら、わざわざ外で話すことでもないのに。
『ねぇ野中くん。相談って』
「え〜っと…そう…だん…」
ダメだ。どうやらそこまでお酒が強いわけじゃなさそう。1時間でそこそこ酔っ払っている。
『ごめんね、私時間だから帰るよ。野中くん、相談はまた今度ゆっくりと。絵美どうする?』
「う〜ん、私もう少し飲みたいから残ろっかな。野中くんまだ飲める?」
「はいっ!野中修、絵美さんにお供します」
「あはは、可愛い〜」
『じゃあお先。2人とも深酒には気をつけて』
「ありがとう。四季ちゃんも調べ物頑張ってね」
「おっ疲れ様でしゅ!今日はありがとござました!」
ひらひらと手を振る絵美と、立ち上がって酔っ払っているわりには礼儀正しくお辞儀をした野中くんに手を振り返し、ビルの外に出る。
23時。これから私が向かうのは自宅ではない。数分歩き、先程とは違う雑居ビルの前までやってきた。今度は地下へ降りて行く。スナックや飲食店、世界のスパイスなんかを扱う店など、狭い通路の両側に”一見さんお断り”の雰囲気を醸し出す小さな店舗が連なっている。
実際には”一見さんお断り”のような人を寄せ付けない店はない。私は左右を確認し、看板も何も出ていない無機質な扉を開けた。
そこは、華やかで幻想的な色彩を放つトルコランプで彩られた私設図書館。赤やブルー、オレンジにグリーン…様々な本が怪しく照らされ、異国に迷い込んだような錯覚を起こした。
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