地下街、25時。

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地下街、25時。

9月も終わりだというのに、季節を忘れたような暑さで肌がじんわりと汗ばんでいる。 『はぁ…あっつい…。早く帰ろ…』 ブラウスがぺたりと背中にまとわりつく不快な状況から一刻も早く抜け出したくて、真夏の設定温度を引きずったままの冷房が効いた事務所に向かって大股で歩き出す。 『お疲れ様です。戻りました』 「おー大森、お疲れさん。どうだった取材。今日はたしか…」 『”女子のSNS顔出し問題”についてです。なかなか面白い話が聞けましたよ。すぐにまとめて記事アップしちゃいます』 鞄から取り出したパソコンをデスクの上で開きながら編集長の蓑山(みのやま)(つよし)に報告すると、「オッケー、オッケー」と軽口を叩きながら隣の席までやってきた。その手には、どこかの花火大会の名がプリントされたうちわが握られている。 仮にも女性向けのWEBコンテンツの編集長だろう。センスのカケラもない。それにスーツの着こなしだってオジサンそのもの。面白い記事が書けるわけでもないのに、なぜこの男に編集長というポストが与えられているのか理解できない。適任者はもっと他にいるはず。 そんな不満を滲ませながらチラリと横目で見ると、ニコニコしながらこちらを見ていた。 『ど、どうしました?』 引きつらないように細心の注意を払いながら微笑み返す。うちわの風で揺れる編集長の前髪が何とも寂しげで、今度は吹き出さないように頬に力を入れた。 「”美しき地下街の男たち””お金で買える運命の男””ミステリアス女子の生態”。最近アクセスの多い記事なんだけど、これに共通してるのは?」 『…私が書いた記事ですね』 「そうなんだよ。上手いよなぁ、若い女の子とかが好きそうなネーミング。タイトル付けが上手いのかねぇ?」 『…しっかりと取材もしてますけど』 「分かってるよ。まぁまぁそう怒りなさんな。褒めてるんだからさ。ま、この調子で次もアクセス数稼いじゃってよ。よろしく頼むね」 冷房の効きすぎた部屋でうちわを扇ぎながら去っていく後ろ姿に『…チッ』と小さく舌打ちをする。 「四季(しき)ちゃんまた絡まれてたね、大丈夫?」 逆サイドの隣の席から声を掛けてきたのは、同期の柴田絵美。私が皮肉めいた記事や危険な好奇心をくすぐられるような記事を得意とすると、彼女は正反対に位置するレシピとかヘルス系を得意とする。 『大丈夫、大丈夫。でもさぁ、ほんとうるさい。ハゲ山のくせに。ウロチョロするなら記事の一本でも書いて欲しいわ』 「ハゲ山…ダメよ四季ちゃん…そんな…ピッタリのネーミング…っ」 『だってさぁ、あんなに頭寒そうなのに冷房効かせ過ぎだし、うちわまで。寒いって泣いてるよ…頭が』 2人して下を向き、肩を震わせながら笑いを堪える。 「そういえば会った?今日付けで中途が入ったらしいの」 『そうなの?朝から出ずっぱりだったから会ってないけど。どの媒体からの転職?』 「私もまだ会ってないから詳細は分からないけど、噂によると△△NEWSかららしいよ」 『△△って他社の焼き直しばっかり扱ってるところだったよね?それに嫌気が差したとか?』 「どうなんだろうね?」 『まぁいいけど。フットワーク軽ければいいよね…ってあの彼?』 視線を上げた先に、挨拶回りから戻ってきたのか、見慣れない顔がこちらをじっと見つめていた。目が合ったと思うと同時に、その彼は小走りで私たちのデスクまで駆け寄って来た。 「はじめまして!今日からお世話になります。野中(おさむ)です!」 『よろしくお願いします。大森四季です』 「柴田絵美です」 中途ではなくて新卒の間違いだろうかと思うほど、元気の良い挨拶だった。”お手”と言えば”ワン”とでも言いそうな犬系男子。誰かに飼われてたりしたら、いいネタになるのに。あぁ、でもそんなの今の時代ありがちか。 そんな妄想を膨らませるよりも、今私がやるべきなのは、SNS上だけて生き続ける女の子たちの”顔”にフォーカスすること。これから組み立てなくてはいけない記事の構成を考えながら、私はもう一度彼に向かって微笑んだ。
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