(十二)

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(十二)

 それはたった一度交わされただけの小さな約束だった。  ***  じとっと重い空気に押し潰されているかのような背中。触れたら冷たく感じそうなほど白い肌。木漏れ日の中で揺れる細い髪。隙間に隠されていた色が自分へと向けられた、その瞬間――。  見つけてしまった光に心臓がトン、と跳ねた。  ランドセルの肩ひもを握る手に力が入る。辺りを漂っていた甘すぎる花の香りもいつの間にか遠くなり、「大丈夫?」と自分から声をかけたことすら彼方にいってしまった。言葉だけがその場に転がり落ちる。 「……そ、ら?」 「え?」  問い返されただけのその一音が跳ねた心臓にぶつかって弾ける。  ずっと遠くにあったのに。手を伸ばしても触れられなかったのに。憧れ続けた色が目の前にある。 「空、みたい」  丸く小さなカケラに自分の顔が映りこめば「どうして元気がないのか」とか「どこか痛いのか」とか、気になっていたはずのことは全部吹っ飛んでいた。ぎこちなく作られた笑顔にすら気づけず、惹きつけられるままに見つめていた。どんな表情をしていても変わることのない青から目を逸らすことができなくなる。 「え、ああ。この目のこと?」 「うん」  キレイとか、美しいとか言葉で表そうと思えば何か言えたのかもしれない。でも、そんな言葉に当てはめることすらしてはいけない気がした。小さな言葉で閉じ込めるのではなく、そのまま、ありのままに感じていたい。 「……いいなあ」 「いい、かな?」  ふっと小さく息を吐き出すように問われた声に、俺は大げさなほど大きく頷いた。 「うん。なんか、空を飛んでるみたい」 「空を……?」  頭の中に浮かぶのはピンチのときにかっこいい音楽とともに現れるヒーローだ。  変身するとヒーローは空を飛べる。普段の人間のときは走るのも遅くてどんくさいけど。誰かがピンチのときはそういうのが全部なくなる。自分のためではなく誰かのために強くなるヒーローは俺の憧れだった。 「うん。いいなあ。飛んでみたいなあ」  ヒーローが空を飛んでいるときに見える世界はきっとこんな色をしているのではないだろうか。 「飛ぶって……鳥みたいに?」  小さく笑った声に嫌な感じはしなかった。どう答えるべきか迷っている、父さんの声によく似た響きだ。俺は大げさに息を吐き出してから言ってやる。大人はいつも子供をちょっと甘く見ていると思う。ヒーローには憧れるけど『現実』を全く知らないわけじゃない。 「あのさ。俺もう小学生だから。人間が飛べないのなんてわかってるから」 「あ、うん」  ごめん、と素直に頭を下げられる。折りたたまれている体は相変わらずだけど、こちらを見上げてくる顔が少しだけ明るくなった気がする。 「鷹人(たかと)に聞いたんだ」 「たかと?」 「同じクラスのともだち」 「ともだち……」 「鷹人が言ってた。アレなら越えられるって」  フェンスの向こう側のグラウンドへと俺は顔を向ける。広々とした空間の奥。長方形に区切られた両端に設置されている白い枠。ここからだとそこまで大きくは見えないけれど、近づけばとても大きい。 「アレって、サッカーゴールのこと?」  視線を重ねるようにして問いかけられ、一度大きく息を吸い込んでから口を開く。 「うん。走高跳はあの高さも越えられるんだって」 「……そうだね。世界記録では越えているね」 「え、知ってるの?」  返ってきた言葉に驚き、思わず視線を向ける。目の前にあるのはベンチに座ったままグラウンドを振り返っている横顔。静かに遠くを見つめる目。湛えられた青色は小さく揺れ、眉も少しだけ歪んでいる。薄い唇はきゅっと噛みしめられていて何かに耐えるような表情に見えた。 「うん、まあ……」  驚くと思っていた。「そうなの?」と笑ってくれるのだと。母さんに言ったときはすごくビックリしてくれたし、父さんに教えたときも「それはすごいな」と笑ってくれた。だからきっと同じようになるのだと思ったのに。 「なんだ。知ってたのか」 「ごめんね」 「べつに謝らなくてもいいけど。じゃあさ、空を飛ぶのと同じだって思わない?」 「え?」 「道具も何も使わずにあの高さまでいけるなら、そんなの空を飛ぶのと同じじゃない?」  俺の言葉に目の前の空が広がっていき――何かが変わった気がした。  けれど、それを確かめる前にぶわっと強い風が吹き抜けた。思わず目を閉じてしまった俺の全身を足元から駆け上がる空気が撫でていく。頭の上で聞こえる葉っぱのざわめきが、フェンスのカタカタという音と混ざり合う。細かな砂は瞬間的に肌をかすめただけだった。  ほんの数秒にも満たない時間。ぎゅっと閉じた瞼の向こう。ふわりと空気が揺れながら戻っていく。甘い香りが鼻に触れ視界に光を戻せば、折りたたまれていた体は目の前にあった。細く頼りなく見えていた体は自分よりもずっと大きかった。 「大丈夫?」 「……うん」  触れていたわけではなかった。庇うように立ってくれただけで。それなのに不思議と手の先まで温かくなっていく。こちらを見下ろしていた顔は、どこか安心したように口の端を上げていた。丸い空が細められるのと同時に胸の奥が引っ張られ、目が離せなくなる。 「あ、ありが……」 「――同じ、か」  お礼を言えていないと気づいて俺が口を開くのと、青色の瞳が再び遠くを映したのはほぼ同時だった。白く細い顎はフェンスの先、グラウンドの奥へと向けられている。 「え?」 「跳ぶのは……空を飛ぶのと同じ、か」 「同じだよ。同じだけど、もっとすごいよ。だって鳥みたいに翼も何もないんだから」  ただ走って地面を蹴る。それだけであの高さまでいける。羽根も翼もない。それでも手を伸ばした先に――見上げることしかできない場所に――届くのだ。自分の力だけで空に近づけるのだ。それはきっと当たり前に飛ぶことができる生き物よりずっとずっとすごいはずだ。 「だから俺も絶対走高跳やるんだ」 「……怖くはないの?」  再び繋がった視線。笑いの含まない静かな声に感じるのは息苦しさ。どうしてそんな顔をしているのか、どうしてそんなことを聞くのか、俺にはわからない。わからないからまっすぐ問い返すことしかできない。 「こわい?」 「もし自分が思っているように跳べなかったらって」  返ってきた言葉を頭で理解するより早く、答えは勝手に飛び出していた。 「飛べるまでやればいいんじゃないの?」  息を吸い込み丸くなった瞳。青い水面に映る自分の顔。明るい空の中に自分の姿を見つけられて嬉しさが体を満たしていく。ずっと見ていたいような。ずっと覗き込んでいたいような。不思議な心地よさを感じる。 「だってそうでしょ? 算数の問題だって解けるまでやるしかないんだよ。最初はわからないし、できないのが当たり前なんだから。やり続けるしかないじゃん」 「算数……ふ、ふは、ふははは」  突然出された大きな笑い声にびっくりした俺は肩を軽く跳ねさせる。耳から入ってきた音が体の中で膨らみ、笑い声に合わせて揺れるように響く。内側から触れる振動にパチパチと弾けるようなくすぐったさが胸を転がっていく。 「ふ、ふふ、ふは……うん。確かにやるしかないよね」  最初に見たときよりは明らかに元気な顔を向けられホッとする。  ベンチで二つ折りになっていたときは大人を呼ばないといけないかと思ったけど。今の姿を見る限りケガや病気ではなさそうだし、じとっと重い空気も消えている。  分厚い灰色の雲から太陽が出てきて空が明るくなる。そんな景色が思い浮かぶ。 「ねえ、君の名前を聞いてもいい?」  先ほどまでの弾むような笑いが柔らかな空気へと変わる。向けられた笑顔にぎこちなさはもうなかった。  風が雲をさらっていく。光を取り戻した空が青く輝きだす。浮かぶ景色に色がついていく。 「遼平(りょうへい)瀬永遼平(せながりょうへい)」 「遼平、ね。僕は(りん)朝見凛(あさみりん)」 「り、ん……」  小さく弾いた舌の先で音が鳴る。自分で発したのに耳へと飛び込んだ声は不思議な震えをともなって胸の奥へと落ちてくる。 「遼平は僕のヒーローだ」  目の前で自然と発せられた言葉に息が止まった。 「ヒーロー……」 「うん」  誰にも届かない、誰にも触れられない奥へと優しく差し込む光。りんの言葉がまっすぐに俺の中を照らし出す。 「俺が……」  見上げた先、すっと薄い唇が弧を描き、細められた目の端が緩く落とされる。傾きだした太陽の光が柔らかな髪を同じ色に染めていく。 「遼平が僕を救ってくれたんだ。ありがとう」  ――助けてくれて、ありがとうございます。  耳に届いた言葉がパッと別の声を引っ張り出す。繰り返し見てきたお気に入りの場面。目の前の現実の景色と頭に流れ出した映像が重なる。  いつも自分はただ真似をしているだけだった。どんな相手でも変わらないアニメの主人公と同じで。応えてくれる相手もそれをわかった上で接してくれた。  でも、今は違う。  今の言葉は真似をしているとわかって言われたわけではない。本物の言葉だった。空を飛んではいないけれど。悪の手先も倒してはいないけれど。フェンスひとつ越えられない小さな体だけど。りんは俺に本物の言葉をくれた。 「遼平?」  何度も見たから覚えている。ヒーローが何をするのかも、何を言うべきなのかも。  これは真似だけど――真似じゃない。  目線と同じ高さにある大きな手へと指を持っていく。いつもは何も感じないのに、今だけはひやりと心地よい冷たさに胸がきゅっとなる。白く柔らかな肌が握った手の中でピクッと動いたけれど振り払われはしなかった。そっと地面に膝をつけば、見えていたふたつの青空が少しだけ遠くなる。 「えっと……?」  りんが不思議そうに俺を見つめたまま顔を傾ける。 「りん」  自分をヒーローと呼んだ相手に答えるにはこれしかない。 「お迎えにあがりました。マイプリンセス」 「え、遼平……?」  パチパチと瞬きを繰り返してはいたけれど。驚いてはいたけれど。りんは笑わなかった。ほかの大人がするようにクスクスとおかしそうには笑わなかった。「ヒーローの真似をしている子供」としてではなく、ちゃんと俺のことを見てくれていた。「本物のヒーロー」として。  だからこそ言葉はしっかりと出てきた。真似をしたいからではなく伝えたいから。心からの言葉を届けたくて。 「あなたがピンチのときは必ず駆けつけます」  りんの顔から戸惑っていた色が消えていく。大きく見開かれた瞳はどこまでも澄んでいて、ちゃんと受け止めてくれているのだと伝わってきた。まっすぐな視線に胸が温かくなる。これは大人が子供用にと作る表情ではない。 「……」  静かな風が吹く。カタカタと揺れるフェンスの音にジャスミンの甘い香りが浮かぶ。繋いでいる手から伸びる腕を覆う白いシャツには木漏れ日が落ち、ふたつの体温が指先で混ざり合う。  この先まで言うつもりはなかった。  さすがにりんも笑ってしまうだろうし、何よりその言葉はやっぱり真似になってしまう気がしたから。今ならわかる。どうして笑われてしまうのか。どうして本物になれなかったのか。自分が本当になりたかったものが何なのか。  ヒーローがかっこいいのは誰かを助けるから。自分の弱さを乗り越えていくから。何もしていない自分がなれるわけはなかった。言葉だけ、その瞬間だけを真似ても意味がなかった。  だからここまでにしようと思っていたのだけど――体は自然と動いてしまっていた。  何度も真似をしてきたから、ではなく。  今この瞬間に動かなくてはいけないのだと頭よりも心が、心よりも体が訴えた。  吸い込んだ空気に優しい甘さが広がっていく。 「私のお嫁さんになってください」  握っていた手を顔の前へと持っていく。白い肌に口の先で触れれば、自分の唇がふにゃりと潰れた。ほんの一瞬閉じていた目を開ければ、細く長い指が小さく揺れた。  このあと決まってヒーローは言われる。  ――助けていただいて大変申し訳ないのですが。それはできません。  自分が襲われているときは遠慮なく助けを求めるのに。助けたヒーローの願いは聞いてあげない。それがヒロインの鉄則。だからこそヒーローはまたべつの誰かを助けにいく。そういうお話だった。いつも当たり前に見ていたけれど、今は泣きながら空を飛んで帰るヒーローの気持ちが少しだけわかってしまった。  お決まりの言葉でよかったはずなのに。  どうしてだろうか。りんからは違う言葉が聞きたいような気がしてしまう。 「……」  返ってくるはずの言葉はいくら待っても聞こえなかった。 「りん?」  何も言ってくれないのでこちらから名前を呼び、顔を上げる。 「……え、りん?」  思わず声が跳ねる。  見上げた先の顔は赤かった。夕陽のせいかとも思ったけれど。繋いだままの手からじわりと熱が流れてきて。こちらへと向けられた澄んだ青色の瞳は丸く揺れていて。こんな顔をされるとは思っていなかったからか、心臓がきゅっと引っ張られた。 「――いいよ」  小さく落とされた言葉を理解するより早く、握り返された手がぐっと引かれる。ふわっと一瞬にして体が持ち上がり、足の裏が地面に触れる。軽く屈んでこちらを覗き込むりんと、立ち上がった俺の視線がピタリと重なる。頬に赤みを残したままりんは言った。 「なってあげる」 「え」  視界は柔らかく微笑むりんの顔でいっぱいになった。 「必ず迎えにいくね」 「え、りんが来るの?」  迎えにいくのはヒーローの役目だから、行くなら俺の方なんだけど。いや、そもそもヒーローはフラれるはずで。あれ? この場合どうすればいいんだ?  今まで見てきたシーンを思い返してみるが、毎回フラれて終わるのがお決まりだからそれ以外のパターンがあるはずもない。 「うん。僕も遼平のヒーローになりたいから」  続けられた言葉がトン、と胸に落ちてきて、戸惑いは消えていった。 「なんだ。りんもなりたかったのか」 「うん。それと……。アレは僕が先に越えておくね」  すっと伸ばされた指の先には夕陽に影を落とすサッカーゴールがあった。 「僕も遼平と空を見てみたいから。跳べるまでやってみるよ」  ――春、みたいだと思った。  ふわりと柔らかく笑った顔が温かくて優しくて、春が来たみたいに感じた。  けれど細められた目の奥には夏の空があった。夕陽に透けて揺れる髪は秋の葉の色を思い出させた。白く透き通る肌は空から落ちる雪と同じで。りんには、すべての季節があった。どうしてそんなことを思ったのか自分でもわからない。ただ、どの瞬間にいてもりんを見つけられるのは、りんを感じられるのは、とても嬉しい気がする。 「だから、僕にも言わせて――あなたがピンチのときは必ず駆けつけます」  聞こえた声は緩やかな風に乗る。柔らかな冷たさと一緒に花の香りが運ばれてくる。吸い込んだ甘さは丸みを帯び、胸の奥が苦しくなることはもうなかった。  それはたった一度交わされただけの小さな約束だった。  ***  夏休みに入ったからだろうか。  朝の番組もどこか緩んだ空気を放ち、珍しいコーナーが設けられていた。  懐かしのアニメ特集。耳に届いた曲に思わず視線を向ける。  俺の部屋にある目覚まし時計のキャラクターが出ていたものではなく、その前のシリーズ。俺が一番好きだったヒーローアニメのオープニングが流れている。放映期間は短かったが「印象に残るアニメ」の代表として紹介されていた。あの頃はとくに不思議に思わなかったけれど、今改めて見せられると「印象」の意味がいいものではないと気づかされる。どうして一周年を待たずして終わったのか、その理由が人気の問題だけではなかったのだとわかってしまう。  ――お迎えにあがりました。マイプリンセス。 「こんなヒーローでいいのかしらね」  俺と同じように思ったのだろう、母さんが桃を載せた皿を置きながら小さなため息を落とす。  ――あなたがピンチのときは必ず駆けつけます。  聞こえた声にわずかに体を強張らせた俺は、左隣を視界に入れないように皿へと手を伸ばす。このまま何事もなく話題が過ぎ去るのを祈りながら。  ――私のお嫁さんになってください。  おそらくこのアニメの一番の問題である印象的なシーン。  悪者を倒すヒーローでありながら、助けたヒロインにプロポーズをするのがお決まりだった。ヒロインが一人だったならそんなに問題にはならなかったかもしれない。毎回フラれてかわいそうなやつだけど、いつかは報われるのかなと応援できたかもしれない。でも、このシリーズのヒロインは毎回変わるのだ。つまりヒーローはとんでもなく惚れっぽくて戦闘能力以外はダメダメなやつとして描かれていた。  今ならわかる。こいつがとんでもないやつだと。でも、子供の頃の俺にとっては悪役を倒すかっこいいヒーローで……。 「そういえば遼平もよく真似してたわね」  カチャン、とフォークが手の中から滑り落ちた。隣から視線を向けられたのを感じるが、振り返ることなく落とした銀色へと指を伸ばす。 「そ、そうだっけ……?」  とぼけながら母さんに「これ以上余計なこと言うなよ」と念を送る――が、何も感じ取ってはくれなかったらしい。 「あの時期の子供は何でも真似したがるものだけど、あれはさすがにおかしかったわね」  思い出したくもない過去。厳重に鍵をかけてしまい込んだ記憶。そのうち本当に忘れたのだ。忘れることで自分を守っていた。  当時はそれがかっこいいのだと本気で思っていた。真似していれば自分も同じようになれる気がしたのだ。繰り返しアニメを見続けるうちにセリフは自然と頭に入り、息をするように言葉が口をついて出た。  母さんが「このヒーロー、最低ね」と言っていたのを聞いてショックを受けるまで、俺は本気で憧れていたし、本当になりたいと思っていた。急に真似をやめてしまった俺を不思議そうに見つめながら母さんは言った。  本当に特別なひとにだけは言ってもいいのよ、と。  柔らかく笑われたのにその前に受けたショックが大きすぎて、俺はすべての思い出に鍵をかけた。  ――あのとき真似をやめたのは母さんの言葉だけが理由ではなかったのだけど、鍵をかけてしまったのは母さんのせいだった。  朝見に会ってもすぐに思い出せなかったのは、それが自分の恥ずかしい過去に繋がるから。ショックを受けた言葉を思い出すから。苦い記憶に触れることを体が拒否したのだ。 「遼平、誰にでもプロポーズしちゃうんだもん」 「え?」  笑いを含めた母さんの言葉に、驚いたような声が隣から発せられる。  俺の正面では余計なことどころか爆弾を落とした母さんが、懐かしさにニコニコと微笑んでいる。そろりと視線だけを斜めに向ければ、朝見の表情が見えているのであろう父さんは桃へと向かうフォークの先を空中で止めている。  ――これ、絶対やばいやつ……!  隣を振り向かないことを心に決め、何も気にしていないかのようにフォークの先を瑞々しく輝く果実へと突き刺す。だってもうあんな昔のこと時効だろう。今さら何を言われてもどうにもならないのだから。 「遼平」  カタ、と椅子を引いて体の向きまで変えたのがわかる。わかるけど……振り向けない。 「……なに?」  フォークの先を口へと運びながら答える。  香りとともに溢れる甘い果汁。歯で潰す必要のないほど柔らかな果肉。桃は俺の大好物で、その見た目だけですでに美味しいことは確信していた。それなのに……噛んでも味はよくわからなかった。もう十分に細かくなっていたが咀嚼をやめることさえできない。 「僕だけじゃないの?」  笑いを含んだ柔らかな声――ではなかった。明らかにショックを受けているのだと分かる声の響き。潤んだ瞳で見上げる子犬の顔が浮かぶ。 「……」 「遼平がプロポーズしたのって」  ただの真似。ごっこ遊び。それとは違うと感じて口にしたのはただ一度だけ。凛にだけだ。  それでも口にしてきたセリフの数を数えるならうまく否定はできない。 「覚えてない」  そう答えるのが精一杯だった。  過去は変えられないのだから。今さらそこを責められても、ショックを受けられてもどうしようもない。どうにもできない。母さんみたいに「おかしかったわね」で笑って終わらせてほしい。  振り向くことなく素っ気なく答える俺に朝見が静かに息を吐き出す。感じ取れてしまった空気の揺れにキュッと胸が締め付けられる。 「……そう」  落とされたのは先ほどよりも明らかに落ち込んでいるとわかる声だった。 「あ、あのさ」  思わず振り向いてしまった俺は向けられていた視線に捕まった。まっすぐ揺れることのない水面に自分の顔が映りこむ。 「遼平」  声が触れた瞬間に伝わってきたのは、先ほどまでとは明らかに違う感情だった。鼓膜の震えがそのまま全身へと広がっていき、呼吸ひとつさえうまくできなくなる。カタン、と静かに立ち上がった朝見が俺の手をとり、ゆっくりと跪く。指先から伝わってくる熱に、繋げたままの視線にドクドクと心臓が音を立て始める。白く長い指に引き寄せられるのを止めることはできなかった。  丸く青い瞳がゆっくりと薄い瞼の奥に消え、小さな熱が手の甲に落とされる。柔らかな感触とは裏腹に肌から心臓まで一瞬で強い光が突き抜ける。痛みとは違う苦しさが胸の奥に生まれる。肌に触れていた唇は、離れると同時に言葉を紡ぎ出した。 「私のお嫁さんになってください」  再び現れた空は一瞬にして細められる。 「僕だけのプリンセスになってくれる?」  ふわりと上がった口角に丸くなった頬が薄く染まる。 「……り」  ――凛、と呼びかけそうになって気づく。  キラキラと揺れる朝の光。柔らかな視線。手の先から流れ込む温かさ――以外にもあるまなざしに。 「あのさ……」  ため息に混ぜて声を落とせば、視界はいつもの景色を広げた。 「ん?」  いくら朝の爽やかな輝きを纏おうが、ここはうちのダイニングで、正面には父さんと母さんがいる。どんなに朝見が王子様みたいな笑顔をしようがそれは変えられない。 「なんで、こんなとこで言うんだよ!」  握られていた手を振り解き、前に向き直れば楽しそうに微笑むふたつの顔が並んでいる。 「あら、私たちのことは気にしなくていいわよ」 「そうだよ。大事な話にはちゃんと答えてあげなさい」 「……っ」  自分の体温が一気に上昇したのを自覚し、いたたまれなくなる。 「遼平」  ダイニングテーブルの横で跪いたままの朝見が俺を見上げてくる。 「何?」 「好きだよ」 「だから、なんでお前は……っ」  耐えきれず立ち上がりかけた俺の手首を大きな白い手が掴む。  え、と戸惑う間もなく引き寄せられバランスを崩す。 「ねえ、――いいの?」  それは一瞬のことだった。  吐息とともに肌に触れた感触がぶわりと全身に熱を広げる。ガタガタ、と派手な音を立てて椅子をひっくり返した俺に、朝見は「大丈夫?」とまるで何事もなかったかのように今触れたであろう唇で弧を描く。熱の残る耳を思わず押さえるが、鼓膜だけでなく全身を内側から震わせた言葉は簡単には消えてくれない。 「ちょっと大丈夫?」  驚き立ち上がった母さんを振り返ることもできず、一瞬触れられただけの耳から色が変わっていくのが自分でもわかる。 「――っ、俺さきに出るから!」  俺はそう言ってすべての視線を振り切り、逃げ出すように家を飛び出した。  眩しすぎる日差しが景色を鮮やかに染める中、耳の奥で響いたままの声を必死に振り払う。  ――ねえ、ここじゃなかったらいいの?  そういうことじゃ、ない……っ! 「遼平!」  追いかけてきたのは車ではなく声だった。 「明後日、待ってるね」 「……」  振り返れば朝見が家の前の門扉から体を乗り出し、大きく手を振っていた。  今日と明日は一緒にいられないのだと改めて実感して、熱くなる前の空気を吸い込む。  じわじわと膨らんでいく蝉の声に掻き消されないよう俺は声を響かせた。 「明後日な!」  夏休み初日を迎えた学校はいつもより静かだった。吹奏楽部の奏でる音色が空っぽに近い校舎内で反響し、グラウンドまで漏れ聞こえる。まだ午前中とはいえ気温はすでに三十度を超えている。ただじっと立っているだけでも汗が流れていき、膨らみ続ける白い雲から時折覗く強い日差しに肌は焼かれていった。  吐き出した息と湿気を含んだ重く生ぬるい空気が混ざり合う。校舎の巨大な影が遠くなり、ハードルの影が地面に現れる。グラウンド手前を練習場所にしている俺たちは消えていく涼しさを視界に入れながら、朝見が作ってくれた練習メニューをこなしていた。 「十分休憩」  古賀部長の声がグラウンド内に響き渡り、俺と平井も木陰へと移動する。持参している二本のペットボトルのうち一本はもうなくなりそうだった。  緩やかな風がグラウンドの奥へと砂を運んでいく。自然と向けた視線の先ではサッカー部が試合(ゲーム)を行っていた。両端に設置されたゴールが視界に入り、無意識のうちに息が零れた。 「……」 「どした?」  遠くを見つめたまま静かになっていた俺の耳に平井の声が触れる。 「あ、いや。サッカーゴールって二メートル四十四センチだったなって」  それだけで平井には何が言いたいのか伝わったらしい。 「あー。あれ、越せるんだよな」  朝見が選手として最後に跳んだ高さは二メートル四十九センチだ。  棒も踏切版もない。道具など一切使わず助走とジャンプだけで跳んだ。人間の持っている力だけであそこまで跳べるのだとサッカーゴールを目にするたび思う。それを最初に教えてくれたのが鷹人だということも。言葉は自然と口の先に出ていた。 「いつか跳んでみたいな」 「俺はさすがにあの高さまでいったら怖いかも」  聞こえた言葉に思わず隣を振り返る。  走高跳は高さを求めていく競技であったけれど、平井は高所恐怖症だった。教室の中でも窓際の席にはできるだけなりたくないと言っている。外の景色や心地よい風よりも地面が見えてしまう恐怖の方が大きいのだと。  だからこそ、この種目を選んだのだとも言う。自分で跳べる高さなら克服できそうだから、と。 「自分で跳んで怖いってことはないだろ」 「そうかなあ」  真上から降り注ぐ蝉の声に自分たちの笑い声が重なる。  足元で揺れる木漏れ日から静かに視線を巡らす。グラウンドを取り囲む木々の下で休憩をとる部員たちの中に、いつも見守ってくれていた柔らかな微笑みはなかった。今ごろ朝見は鷹人の父さんが監督をする陸上部で特別コーチをしているはずだ。二日後に行われる競技会まで陸上部の選手たちがいる寮に泊まるとのことだった。鷹人の父さんへの「借り」を返すために。詳しい内容までは教えてくれなかったけれど、あの事故が報道されることなく体育祭が無事に行われたのは、鷹人の父さんの力があったかららしい。  朝見がくれたもの。朝見が守ってくれたもの。この手には抱えきれないほどたくさんある。俺は朝見から受け取ったものを少しでも返したい。俺だって朝見を守れるようになりたい。そのためには――。 「……あの『朝見凛』がコーチをするほどの選手ってどんなだと思う?」  ――なってみせます、と言ったものの。  どうすれば認めてもらえるのか。今の俺にできることは何なのか。ずっと考えていた。  一番は記録を出すことだろう。誰もが納得できる成績を残せば認めてもらえると思う。だけど参加するように言われている試合はもう目の前だ。顔を合わせることになる全国レベルの選手たちに追いつくにはどう考えても時間が足りない。彼らは俺が休んでいる間もずっと努力をし続け、もっと広い世界を見ているに違いないのだから。練習量も競技に向き合う姿勢も今の俺が敵うとは思えない。思えないけれど……それでも諦めるわけにはいかなかった。 「何それ?」  平井に不思議そうな顔で見上げられ「あ、いや」と俺は言葉を濁す。  朝見の不在の理由を顧問の佐々木先生は知っていたが、みんなには「用事」とだけ告げられている。あくまで今回のことは一時的なものだからみんなには伝えないでほしいという朝見の希望だった。変にみんなを不安にさせたくはないから、と。僕はここに必ず戻ってくるのだから、と言って。 「うーん。朝見コーチのレベルから考えると、やっぱりオリンピック目指しちゃうような選手とか?」 「オリンピックか……」  選手としてでなくても大きな舞台にいる朝見は容易に想像できる。自分がコーチをした選手とともにインタビューに答える姿は自然なほどあっさりと浮かんだ。 「でも」 「でも?」 「うちみたいに落ちこぼれの部を救っちゃうのもドラマだよね」  平井の言葉に「休憩終わり」と古賀部長の声が重なった。  影から足を踏み出せば、途端に涼しさは掻き消える。真上へと向かう太陽が光を強め、地上へと熱を送り込む。暑くて、息苦しい。こんな気温の中、わずかな日陰さえ見つけられないようなグラウンドへとみんな戻っていく。朝見がこの場にいなくても。それぞれがやるべきことへと向かっていく。 「まあ、もう落ちこぼれ、なんて言える雰囲気じゃないけど」  次の練習に使うコーンを並べながら平井の声に視線を巡らす。グラウンドのあちこちで声をかけ合い、アドバイスをし合う姿が見える。  陸上は個人競技であると同時にチーム競技でもあった。  その場所に立つのはひとりであっても、それまでの練習、準備、大会当日のサポートや応援。それらすべてをひとりではこなせない。タイムひとつ、ひとりでは正確に計れない。 「初めから才能があるわけでも、恵まれた環境にいるわけでもない。でも、そんな人でも輝かせてあげられるっていうのが朝見コーチのすごさなのかなって」  真剣に向き合うことの辛さや苦しさから逃げてきたみんなに、その先にある光を見せてくれたのは朝見だった。辛いからこそ喜びは大きくなり、苦しさがあるからこそ得られるものは大きいのだと、自ら歩んできた姿を惜しみなく晒して伝えてくれた。たとえ記録には残らなくとも。ここで走り続けた、跳び続けた、投げ続けた、誰かと一緒に真剣になれた自分が消えることはないのだと。それはこの先の自分を必ず支えてくれる。未来を自らの手で切り拓くための糧になると。  光をもらったからこそわかる。  変わった空気を肌で感じたからこそ言える。  見てもらえたから、言葉を交わしたから、直接触れ合えたからこそわかる。  テレビ越しではない、憧れとして崇めるだけではない、実在する、触れられる、生身の朝見と接してきた俺たちだからわかる。  朝見の光は誰もが前を向きたくなる、そんな強さがあるのだと。  もっと強く輝いてほしい。  もっと広く届いてほしい。  俺は朝見と一緒にいたいし、朝見のすべてが欲しいと思ってはいるけれど。その光まで独り占めしたいわけではない。覆い隠したいわけではない。一緒にいることで失わせるのではなく、もっと……朝見ひとりでは届かない誰かまで。朝見が望む場所から一緒に届けたい。そのために俺ができること、それは……。 「……いいのかな」  答えはずっとそばにあった。 「ん?」  朝見が見せてくれた背中こそが――その答えだった。 「ここから目指す、でも」  ――何を、とはまだ言えなくても。  自分が望む未来に向かって踏み出す一歩。どんなに周りが反対しようと、冷たい言葉を向けられようと、それでも進みたいと歩いていくことこそが、その姿こそがどんな言葉よりもどんな記録よりも届く。そのことを俺たちはもう知っている。そうやって歩み続けてきた人物こそが『朝見凛』なのだから。 「いいんじゃない。瀬永ならなれると思うよ。あの『朝見凛』がコーチをするほどの選手にさ」  さらりと付け足された言葉に胸が熱くなる。 「……ありがと」  ここに来れてよかった。  この仲間たちに出会えてよかった。  全部が無駄ではなかったのだと、今は思える。  遠回りしても。途中で転んでも。立ち止まっても。目指す場所さえ見失わなければ進んでいける。歩いていける。どんなに長くても。時間がかかっても。そこにたどり着くことを諦めさえしなければ。  それを伝えられるのは、朝見ではない。まっすぐに走り続けてきた朝見ではない。  それを伝えられるのは、伝えていくべきなのは、きっと――。
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