12.二人の距離と時間

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12.二人の距離と時間

会社に近づくにつれ、緊張の波が押し寄せてきていた。普通の人なら好きな人からプロポーズを受けたことで、うれしさやドキドキが押し寄せてくるのかもしれない。でも、私はプロポーズのうれしさより失うかもしれない不安で、頭の中がグルグルしていた。しかも、胃がキリキリする。 胃のあたりをさすっているのを見たのか、「大丈夫?」とゆうの声が降ってきた。身長差があるせいか、いつも頭の上から声が降ってくるように感じてしまう。ゆうの優しい声、安心する声。顔を上げるとゆうは「大丈夫だよ、きっとうまくいく」そう言って頭を撫でてくれた。 そのおかげで、いつも以上に緊張して硬くなっている自分。誰かが客観視してくれて声を掛けてくれることにてありがたさを感じるが、不安はそう簡単には消えてくれなかった。 出社が少し早かったせいか、会社のエントランスを通りエレベーターに乗っても同じ部署の人がいないことがせめてもの救いだった。 部内に入る扉の前に立つと、不安はより一層増し、深呼吸をした。 「理子」 「ちょっとドキドキしているだけ、大丈夫。」 「じゃあ行こうか」 「うん」 「手つなぐ?」 「ダメダメ!」 「なんだ、残念」 会社にいるのに、プライベートのやんちゃな笑顔がそこにあった。 ゆうの目はしっかりと未来が見えているのか、私を守ろうとしているのか、動じていない腹を決めたような視線をしている。 部署に入るとやはり出社している人は少なかった。私はゆうの後について部長の席へと向かった。何かの書類を読んでいる部長に「今ちょっとよろしいですか」とゆうが声をかけた。そして、ミーティングルームに三人で入っていくのを見ている他の社員たちのざわつきが聞こえてきた。 ミーティングルームの扉を閉め、それぞれ席に着いた。ゆうが私の隣に座り口火を切った。 「お忙しいところすみません」 「何か困ったことでもあったのか?」 「実は…」 ゆうは淡々と話を進めていった。 付き合っていて近々結婚する予定でいること、部長からいただいた話の件でお互いのキャリアのことをどうすべきか考えていること、もし、転勤を受け入れたら、同じ会社で勤務が可能なのかなど、自分たちが不安に思っていたことを部長に話した。 聞きに徹していた部長がゆうの話が終わると口を開いた。 「二人が付き合っているのは知っていたよ。休日に二人でいるのを見かけたことがあったからね。結婚することになったとは。本当におめでとう」 「ありがとうございます」 私はゆうの言葉に頭を下げるのが精一杯だった。 「しかし、仕事のこととなると、少し難しい。お互いのキャリアのことは十分理解している。どちらも会社に必要な人材だからな。ただ、転勤を伸ばすのは半年が限度だ」 「半年…ですか」 「それに、同時期に二人を転勤させられるかは正直わからない。向こうに聞いてみないといけない。それにこちらの人員不足にも関わる話になるからね。その辺は早急に確認するから、今日の夕方には話ができると思う」 「ありがとうございます。それではよろしくお願いいたします」 そう言って頭を下げたゆうに続いて自分も頭を下げた。 「じゃ、また後で」 「はい」 部長が席を立ってドアに手をかけてこちらを振り向いた。 「結婚おめでとう」 「ありがとうございます」 そう言うと、部長は少し微笑んでミーティングルームを出て行った。 姿が見えなくなると、急に力が抜けた。椅子にどさっと腰を下ろす。膝の力が抜けたのだ。そこまで緊張と不安が強かった。 「ごめん、膝の力が抜けちゃって」 「緊張してたよな。ごめんな」 「大丈夫、一緒に転勤できればいいけど、難しいよね」 「ま、その話は後にして、今日の業務に戻るぞ。10時には外回りがあるだろう。それまでに準備や書類仕事を終わらせておけよ」 「はい」 急に仕事モードに入った彼に続いて自分も切り替えた。ミーティングルームを出ると、何があったのかとまだヒソヒソと話しているのが聞えた。 席に着くと、雅からLINEが届いた。 「どうしたの?付き合ってるのがバレた?」 「バレたというか結婚することになった」 「は?!ちょっとトイレまで来なさい!」 「は~い」の文字と笑っている猫のスタンプを押して、席を立つ。女子トイレに着くと、雅が腕組みして待っていた。 「結婚ってどういうこと?」 「昨日ちょっといろいろあってさ、その流れで結婚しようって言われたの」 「ちょっとそれ本当!良かったじゃん!!」 「でも困ったことがいっぱいでさ」 「結婚するのに困ったことって?」 「雅、夜話そう。私これから外回りだからさ」 「わかった。私も残業にならないように終わらせるから。絶対だよ!」 「うん、絶対!」 そう言ってサッと女子トイレから出た。どこで聞かれているかわからないし、はっきりするまでは雅以外には知られたくなかった。 ゆうは、人気がある。トレーニングをしているから体は絞まっているし、仕事もできる。それに鼻筋が通っていてぽってりとしたくちびるがとてもセクシーだ。それに身長も177センチとまあまあ高身長。150センチの私からすれば十分高い。 他部署の子からバレンタインデーにチョコレートを毎年もらっているし、飲み会で隣の席の争奪戦を見かけるのもいつものことだ。 私が言うのもなんだけど、どうして「私と一緒にいたい」って思ったのかわからないくらい。彼にはもっといい人が彼女でもおかしくないのに…。 それにしても部長にどこかで見られていたなんて…。どこでだろう?と不思議に思っていた。席に着いてからもメールの返信や外回りの準備をしながら気になっていた。 「おい、水野!準備できたのか?」 「はい、できています」 ぼーっとしていたのを見られたのだろうか?ゆうに注意されてしまった。これもいつものことなのに、なぜかヒヤッとしてしまう。 段ボールに会社のノベルティやパンフレットなど、補充しなければならないものはしっかり用意していた。その箱を覗き込んだゆうは、「この間、北川先生に頼まれた論文は持ったか?」と。 「こちらに用意してあります」 「じゃ、行くぞ」 「はい」 私は荷物を持ってゆうの後を追いかける、といういつもの一日が始まった。 私たちが帰社したのは、5時を過ぎていた。途中で高速道路が渋滞しており、いつもより戻りが遅くなってしまった。部内に入ると、すぐ部長に呼ばれた。私は荷物を自席に置くと、慌ててミーティングルームに入った。 ゆうの転勤先になっている支社からの返答は、部長が朝に言っていたこと同じだった。転勤は半年まで伸ばせるが、二人一緒の転勤は無理だという。 話を黙って聞いていたゆうは、「わかりました、部長お忙しいところありがとうございました」と言って頭を下げた。 「これからどうするのか話し合った方がいい」 「はい」 「まだ半年あると思うか、半年しかないと思うかは君たち次第で大きく変わるぞ」 「その辺を踏まえて二人で話し合います」 「吉住、水野。力になれなくて済まない」 「いえ、聞いていただけただけで十分です。なんとかしてみます」 「……」 わかってはいたことだけど、これからどうしようという気持ちでいっぱいだ。 朝は、何とかひねり出した答えにすごく満足していたけど、今は現実を叩きつけられたみたいで心が折れそうだ。 部長が出て行ったタイミングでゆうが声を掛けてきた。 「理子、今日早く帰れる?」 「ごめん、雅と約束があって…」 「わかった。終わったら電話して。ちょっと二人で出かけたくてさ」 「それなら雅の方、今度にするよ」 「いや、それからでも大丈夫だから行ってきなよ」 「いいの?」 「うん、大丈夫。楽しんできて」 「ありがとう、遅くならないようにするね。こんな時にごめん」 「なんで?大丈夫だよ」 そう言うと頭をポンポンと撫でてくれた。ゆうの顔は何かとてもスッキリとしたような何かを決心したような…そんな顔をしていた。 「ねえ、どこ行くのか今聞いてもいい?」 「オレさ、半年しかないって思ったら一日も無駄にしたくなくて。だから今日中に籍を入れようって思ったんだ」 「え!今日?」 ゆうは部長が言ったことを十分理解し、実行しようとしているけど、さすがに決断の速さに驚いてしまった。
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