13.言えなかった理由

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13.言えなかった理由

「本気?で言ってる?」 彼はスッキリとした表情をしては、いる…。しかし、目に焦りみたいないつもとは違う、強ばりのような何とも言えない顔つきに違和感を覚えた。それに普段から冷静な彼が後先考えないで発した言葉にも焦り以上の何かを感じた。 彼は精神的に追い詰められているのかもしれない、そう考えずにはいられなかった。 「ゆう、ちょっと落ち着こう。私、結婚したい気持ちは変わってない。でも、こんな形で急いで入籍するのって何か違う気がする。手続きとかいろいろあるし、私たちが望んでいる生活じゃないんじゃないかな?」 本心をぶつけるように言葉を放った。少し強い口調に彼は一瞬だけ目を大きく見開いた。自分が一方的になっていることに気がついたようだ。 いつもの優しい笑顔を見せる。瞳の状態もさっきとはまるで違う。いつものゆうだ。 「理子の言うとおりだね。オレ、変に焦ってしまって自分のことしか考えてなかった、急に変なこと言い出してごめん」 「ううん、もう一度二人で考えよう」 「そうだな、その辺のことも理子が帰ってきたら話そう。困らせてごめんな」 「ちょっとびっくりしただけ、だから大丈夫!」 ゆうは、私の髪を軽く撫でて、くちびるを合わせてきた。彼の体温がくちびる越しに伝わる。会社ではこんなことしたことがなかったから、気持ちが入り込んでしまった。 長い時間二人きりでいることに気がついたのだろうか。彼はサッとくちびるを離す。先にミーティングルームを出て行こうとしたので、「口紅付いてる」と声をかけた。彼はニヤッと笑ってハンカチで自分のくちびるを拭いていった。 私も身支度を整えて、ミーティングルームを出た。だけど、心の中のモヤモヤというか、ザワザワというか、変な揺らぎを感じて精神的に重かった。 パソコンの前に座ってはみたものの、仕事に集中できる状態ではないことは私が良く知っていた。 正直、彼が我を忘れてしまうような言動をするとは思ってもみなかった。仕事でもプライベートでも冷静でいつも落ち着いている。いつも私の方が冷静さを欠くことが多いのだ。彼のこんな状態を目の当たりにしたのに、私はまだ「自分が仕事を辞めてついていく」とは言えなかった。それがなぜだかはわからない。 後ろからリズム感のいいカツカツという足音が聞えた。この足音は雅だ。彼女はいつも7センチヒールで歩いているのに、心地いいリズム感のある歩き方をする。癖なのだろう。 椅子を回転させ振り返ると、雅がこちらに向かっていた。親指を立て、ドアの方を指している。「行くぞ!」の合図なのである。 私は目を合わせて軽くうなずくと、書きかけの報告書を保存して持ち帰ることにした。明日の朝一で提出すれば間に合う。雅との約束を優先させるためにデスクの上を片付け、パソコンの電気を落として帰宅準備をした。細々したものは「そのままでいいか」っと、そのままジャケットとバッグを持って「お先に失礼します」と残っている人に軽く会釈をして部署を出ようとした。ドアのところで振り返って彼を見ると、キーボードをたたいている姿が目に入った。その姿を横目に見ながらゆっくりと雅を追いかけた。 雅と合流した店は、海鮮物がおいしいと評判の居酒屋だ。この店は創作料理が豊富で、刺身から鍋料理までどれもおいしい。特にホタテの炊き込みご飯にいたっては何杯でも食べてしまう。小さな丼によそられた炊き込みご飯の上に、ホタテの刺身と生ウニが乗り、その上に季節の薬味が乗っている。それなりの値段がしそうなものだが、意外とリーズナブルなので来店するたび2~3杯は食べてしまう。 料理もさることながら、個室が多いというのも魅力の1つで、知られたくない話をするときにはもってこいの店でもある。 ひとしきり注文を終えたところで、雅が聞いてきた。 「さあ、朝の続きを話してよ」 私は、彼が転勤になってしまうこと、同時期に私がチームリーダーに抜擢されたこと、彼からプロポーズをされてOKの返事をしたこと、部長に話をして転勤を伸ばせないかと直談判したことなど洗いざらい話した。 「ねえ理子はさ、どうしたいの?」 「はっきり言ってわからない。彼と一緒にいたいと思う気持ちとキャリアと…」 「恋と仕事、どちらかを選ぶことができないってこと?」 「たぶんそう」 私はハイボールを一口飲んだ。 「私、言えなかったんだ。ついていくって」 「どうして?」 「わかんない」 「多分、怖いんだと思う。」 「怖い?」 「これからの人生を丸ごと彼に預けるとか、私が選ぶことでこれからのことが大きく変わってしまうから…?かな」 私はこれまで自分の力で切り進んできた。大学も前の会社のことも、転職して今の会社に入ってからも自分で努力してきた。そういった自ら積み上げてきたことを今さら人に預けるなんてできない。 もし、ゆうについていったとして、私は専業主婦になって子どもを産み育てて、転勤になったらまたついて歩く。そんな未知の世界に踏み込めない。これまで頑張ってきたことがすべてなくなってしまう。そんな気持ちが大きいことは確かだ。 でも、仕事を選んだら今まで通り努力してこれまで通り生活していける。今までやってきた経験と自信がある。しかし、ゆうのいない生活など考えられないのも事実。彼を知らなかった頃の私には戻れない。そこだけが引っかかりになっている。 「別にいいんじゃない。彼のことが好きで一緒にいたい、相手も同じ気持ちでいてくれる。それってとても幸せなことでしょ。今どうしたいか、誰といたいかが大切なんじゃないかなって思うんだよね、私は」 炊き込みご飯を飲み込んだ雅がそう言った。 「えっ?」 どうしたいか…。 誰と一緒にいたいか…。 ……。 私は新しい道を選ぶことを怖がっていただけ? 自分のキャリアがどうとか思っていたけど、ゆうと一緒に歩く人生が怖かっただけっていうことか…。 そのことに気がついた途端、雅の言葉がストンと落ちてきた。 「ねえ、答えが出たんじゃない」 雅がニコニコしながら私の方を見ている。顔に出ていたのだろうか? 「え?」 「さっきよりずっといい顔してるから」 「私、雅の言う通り変なところに変なこだわりを持っていたのかも。確かにチームリーダーは昇進のチャンス。でも、彼との生活がなくなることを考えたらそっちの方が嫌だって気づいた」 「そうなんだ」 梅サワーのグラスを傾けながら、ニヤッと冷やかすように雅が言う。 「きっと、彼も理子を失いたくなくて必死なんだよ。それってさ、すごく素敵なことじゃない」 「うん」 私は帰ったら一番に今の気持ちを話そうと決めた。 それに彼の甘いくちびるに甘えようということも。
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