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「準備は?」
「いつでも」
学ランの上着は脱いでワイシャツの袖は肘まで捲くってある。
手首にはいつもつけている、高校生には分相応なハミルトンのジャズマスターの腕時計のみ。
最初の音の上にフォームポジションで指を置く。
言葉は発しない。
勝負は4分2秒の短い間しかないのだから。
深呼吸。
音楽室にあるグランドピアノの硬質さにはいつも慣れない。
グランドピアノで弾いた方がいいと言ったのは秀仁だ。
オレは別に家にある電子ピアノでも十分だと思ったが、首を振られ、あっという間に音楽室の使用権をとってきやがった。
木曜日の放課後の三十分間。
軽音部のやつらに代わってもらったらしい。
一体何を言ったのか分からないが、別に関係ない。
秀二には秀二のオレが知らない交遊関係があるのだろう。
本番のために10分間無茶をするかのように指を虐めてやった。
そうでもしないと言うことを聞かない難儀な指に笑ってしまいそうになる。
三十分しか自由な時間はないというのに、わざわざ時間を割く。
取り直しなしの一回勝負。
余計な事を考えている内に心は静かになった。
目の前にあるのは秩序と自由への扉。
秀仁が持ってきたデジカメはオレの指と鍵盤を見つめている。
後ろに体を捻り合図を確認する。
3本で止まっていた指が一本ずつ折られ、全てが折られてから向き直り、最初の1音を押さえる。
始まりの音に支配される。
あとは練習通りに指を動かす。
鍵盤にだけ集中できる環境を作ってくれた秀仁は本当に良いやつだ。
たまたま落とした楽譜を後ろの席の秀仁が拾ってくれたのが始まりだった。
その頃のオレは趣味で弾いていたピアノを、動画サイトにアップし始めたばかりだった。
アレンジも何を弾くかも自分勝手やって、感想を貰えたり視聴数が僅かでも伸びる事に一喜一憂していた。
認められてる? みたいな。
別にほぼ自己満足みたいなものだから視聴者数が伸びようがどっちでもいい。
流行りの曲からアニメやゲームのBGMまで弾き狂っていた。
落ちたのはその中の一枚で、最近バズってるって噂のCM曲。
歌番組を録画してフルコーラス耳コピした一枚。
それでも何かしっくり来なくて、オレの睡眠時間をゴリゴリと削っていた曲の譜面だ。
譜面を拾った秀仁は不思議そうに楽譜を眺めてから、今気がついたかのようにオレを見た。
「ピアノ弾くの?」
言われた言葉に一瞬反応が遅れた。
「……なんでわかったんだ?」
「え、見ればわかるじゃないか。これあれだろ? 車のCMで今使われてるやつ」
見ただけで分かるって事はこいつも音楽をやってるって事だ。
でも聞いた事ないな。
こんなイケメンが音楽とかバンドやってたら、もっと騒がれてもおかしくないと思うけど。
「よく分かったな」
「耳には自信あるんだ。でも、ここ間違ってるよ」
「うお、マジか」
指された場所を忘れない内に訂正しようとペンケースからボールペンを取り出す。
「ありがとな」
そのまま眺めているから「なんだ?」とつい不機嫌そうに言ってしまった。
「いや、意外だと思って。えっと、名前なんだっけ?」
「江口。江口音也」
「ああ、ごめんね。僕人の名前覚えるの苦手で」
「オレは知ってるぜ。岡崎だろ?」
言うと困ったように眉をよせられた。
こいつも自分の噂は知っているみたいだ。
「それより、これって全部江口が書いてるの?」
いつの間にか机に置いていたクリアファイルに入っていた他の楽譜まで、岡崎は眺めていた。
「一応」
「江口って軽音部とか入ってたっけ?」
「いいや。これは趣味でやってるだけ。岡崎こそなんか楽器やってるのか?」
「昔少しね。今はほとんど。それこそクラシックしかやった事ないよ。J-POPをこんなアレンジにするのなんて初めてみた」
ふふん、凄いだろ。
今までコメントでは褒められた事はあるけど、実際に言われるとまた違う。
「これってどこかに発表しないの?」
「一応ネットにこっそりあげてるんだ。恥ずかしいから他の奴にはあまり言うなよ」
「ねえ、ちょっと聞いてみたいんだけど」
オレは慣れたように自分のチャンネルへとネットを繋ぎ、イヤホンを差してから片方を渡す。
丁度一週間前にアップしたドラマの主題歌。
再生数はやっぱり伸びてないけど、結構気に入っている。
岡崎は楽しそうに聞いたあと言った。
「ねえ、僕にも手伝わせてよ」
戸惑ったのは一瞬だった。
譜面を一瞬で訂正出来る耳をもつ、こいつを引き入れたら、もっといいものが弾けるかもしれない。
それに、ちょっと一人でやっているのに疲れたのかもしれない。
こいつはオレがピアノを弾くと言っても笑わなかったし。
「いいぜ」
「僕の事は秀仁でいいよ」
「じゃあ、オレの事も音也で」
これがクラス替えがあって、すぐの出来事だった。
それから一ヶ月しか経っていないが、結構仲良くなっている。
最後の1音を弾き終わる。
その後、ひと呼吸置いてから秀仁の方を見ると、片手で丸を作ってみせた。
「見る?」
「見る」
オレは立ち上がり撮ったばかりの映像を眺める。
自分で撮った映像から比べると雲泥の差だ。
なんせ、家にある電子ピアノにスマホを固定してとってたからな。
勝手も分からないしブレブレでほんと、よく感想がついたというレベルだった。
あ、今日譜面変えた所上手くいってるな。
やっぱオレって天才かも。
いつ見ても自分の手だけっていうのは変な感じだ。
だけど絶対顔なんか出したくない。
オレは自分の顔は並み程度だと理解している。
「OKじゃない?」
「完璧完璧」
「じゃあ明日までに編集してくるよ」
「おう、悪いな」
イケメンでパソコンにも明るいなんて、完璧超人すぎるだろう。
しかも無償でだなんて。
あの時ためらわなかった自分に拍手を送りたい。
「それにしても、もったいないよね。歌もついたらもっと再生数伸びそうなのに」
「誰が歌うんだよ? 秀仁か?」
「それは嫌だな。軽音部の人とか? 誰か紹介しようか?」
少し考える。
でも、まだ決心はつかない。
「別にいいよ」
「そう」
秀仁はあっさりと諦めて、デジカメをカバンの中に閉まった。
「まだ十五分あるよ」
「リクエスト受け付けますよ、お客様」
オレは椅子に座り直す。
グランドピアノを弾く機会なんてそうそうないからな。
時間いっぱい使ってやるって決めている。
「じゃあ、子犬のワルツ」
「いいぜ」
オレは慣れたように指をすべらせる。
秀仁は楽しそうに聞いている。
「ねえ、何で音也の弾くクラシックってそんな風になるの?」
「知らねぇ、性格だろ」
「それじゃワルツじゃなくてブレイクダンスじゃん」
「おう、格好いいだろ」
テンポもメチャクチャ速く、速く、限界まで、飛び跳ねるように。
空いた隙間に別のメロディを差し込む。
さっきまで弾いてた曲の合いそうなフレーズを左手だけいれる。
「音也の弾くピアノ好きだよ」
「そりゃ光栄だな」
「バカっぽくて」
「褒めてるのか?」
「もちろん」
その後も喋りながら好きな曲を弾いていく。
秀二のあまり知らないアニソンからゲームのオープニングとか。
次の曲は何にするだとか、この前聞いた映画のサントラが良かっただとか、くだらない話をしながら。
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