手記1

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手記1

 なだらかな丘にどこまでも続く桑の低木と、その間に不規則に点在する、石レンガを積み上げただけの質素な建物。  その石レンガ造りの建物は、今にも雑草に埋もれ朽ち果ててしまいそうな佇まいをしている反面、桑の低木は隅々まで手入れが行き届いているのが見て取れる。  広々と伸ばした枝葉からは瑞々しい新芽が我先にと太陽の恵みを求め背筋を伸ばし、どこか誇らしげに吹き抜ける風にその身を任せている。  木々が誇らしげに見えるのは、もしかしたら植物ながら自身が村人達から大切にされていると理解しているのかもしれない。  その理由は村の中にある施設。  例えば食料を確保する畑は趣味で設けた花壇と言ってもおかしくは無い程の、本当に些細な大きさの物がひっそりと一枚二枚あるのみで家畜なんかは見当たらない。  はたから見ても桑の低木を優先し村を造った、むしろ見方によっては桑の低木無い空いたスペースに無理矢理間家を建てた様にも見える、何とも不便な造りの村だ。  石を敷く訳でも舗装されている訳でもない、ただ土を踏み固めた雑草だらけの道を登り、村の一番奥に位置する馴染みの農家に向かいながら、毎度そんな事を思ってしまう。  その道すがら風に乗ってやってくるのは葉が擦れ合う乾いた音と幾つかの薬品の匂い、それとととんととんと規則的なリズムを刻む音。  この村では蚕の餌となる桑の低木がその葉を最も多く湛える初夏から秋口にかけて、集中して養蚕を行う。  見たところ今年も無事に初繭掻きを終えたようだ。  だが、毎年初物の糸を買い付けにこの村に訪れているが、今年は少しばかり来るのが早すぎただろうか。  家の軒先で作業をしている人達に何となく視線を向け進捗状況を確認すると、糸は染色をするどころかまだ生糸の状態にもなっていない繭の状態の物が多い。  今年は蚕を育て始めるのは遅かったのか、いつもと同じ時期に来たつもりだったが作業は全体的に遅れているように見える。  それ程規模の大きくないのどかな村なので顔見知りも多い。  その為いつもなら気持ち良い挨拶と世間話の一つや二つある物なのだが、今日は誰もその余裕が無いようだ。  汗で額に張り付いた髪をかき上げながら、今日はこのまま引き返しまた出直すべきかとも考えはしたが、結局そんな事を悩んでいるうちに目的の家までたどり着いてしまった。  そこは相変わらずこれで良いのかと疑いたくなる半開き状態の木製の扉に、自由奔放に伸びきった雑草に埋もれていた。  毎度の事ながらただでさえ蒸し暑い中丘の麓から歩いて来たせいで、革靴をはじめ下着の中までも不快な程大量の汗をかいていると言うのに、その上最後の最後に虫だらけで伸びきった雑草を掻き分けなくてはならない。  これさえなければ喜んで買い付けに来るものを。  その辺で拾った棒切れで草を掻き分け、爪先立ちで一歩一歩出来る限りの大股で道から扉まで歩み寄り、そのまま手にした棒切れで軽くノックをする。  程なくして中から返事は返って来たが、それから扉が開くまでの少しの間が恐ろしく長く感じられた。  扉の横の石レンガの間を這う、街では見た事の無い多足の虫が自分の足元から這い上がって来るのではないかと変な想像を一度始めてしまうと、限界まで爪先立ちをしていても不安で堪らなくなる。  周りの雑草を手にしていた棒切れで均しスペースを確保し、石レンガの壁には一切触れずに片足のみの爪先立ちのまま扉が開くのを今か今かと待つ。  片足でふらふらと立つこの姿は、部屋で習いたてのバレリーナを練習する少女だったら微笑ましいだろう。  だが現状は虫と雑草だらけの廃屋紛いの民家の前で汗にまみれた成人男性が、一人必死な顔でやっているのだから目も当てられたものじゃない。  ついでに拾った棒切れをまじまじと観察したところ、またくだらない想像が膨らんでしまい早々に遠くへ投げ捨てた。  一刻も早く扉を開けてくれ。 「大変お待たせしました、ヘイスター様」  そんな願いが通じたのか、木の軋む音と共に開いた扉の向こうから馴染みの男が顔を出した。 「いや、こちらこそいつもより早く来てしまったかな」  挨拶もそこそこに大きく一歩踏み出し家の中に着地。  これでようやく爪先立ちの行から解放された。  人心地ついた所で改めて馴染みの男、養蚕農家のレネの顔を見れば、相当立て込んでいるのか土気色の顔中玉の汗をかき、荒い呼吸音に合わせ肩を上下に揺らしていた。  まだ夏も本番前とは言え、自分自身不慣れな土の道をせっせと登って来たせいで汗まみれであったが、目の前のレネはまるで風呂上りかと思う程全身ずぶ濡れに近い状態だった。 「これは……本当に間の悪い時に来てしまったみたいだな」 「いえそんな事は……。ですが、急ぎ作業を行ってますが、お渡し出来る数が例年の半分程になってしまうかと……」  そう何とも歯切れの悪い物言いのまま、レネは実際にご覧下さいと奥の作業部屋へと案内をはじめた。  何となく道すがら他の農家を見て来たから察しはつくが、例年なら扉を開ければすぐに染色用の薬品の匂いが香って来ていた。  が、今年はまだ仄かに香るのみだ。  染色の準備はしたが作業は始めていないか、少量しか使用していないのだろう。  レネの後をついて作業部屋に入ると、案の定レネの娘二人が板の間に座り込み、汗まみれになりながら一心に糸紬を行っていた。  ととんととんと糸車の回る音と共に、数本の糸が縒り合い一本の見事な生糸となっていく。  だが、糸車の側に置かれた繭の量は想像していたのを遙かに下回り、例年の半分どころの騒ぎではない。  近くの作業場で糸紬の前工程、煮繭をしているのはこの一切の食欲を削がれる強烈な匂いから分かるが、一回の煮繭でこれだけの量となると、それを合わせたとしても随分と少ないだろう。  服の袖を捲くりながら説明を請う視線をレネに向けると、レネは無言のまま近くの棚から真新しい布を二枚取り出し、その一枚を私に手渡して来た。 「見ての通りの状況です。今隣で煮ているのも含めてもこれの倍あるかないか」 「村中こんな様子だったが、先約に大量に買い占められたのか?」 「まさか」  手にした布に顔を沈め汗を拭っていたレネは、勢い良く顔を上げ私のその質問を過剰とも言える程首を振って否定した。  ではなぜ。そう質問しようと口を開きかけた時、レネの妻、パメラが水の入った洗い桶と濡らした布、それと小さな木製の椅子を私のすぐ横に置き、軽く会釈をすると忙しそうにまた隣の部屋に戻って行った。  糸の数が少ない理由も気になるが、今はこの不快な汗をどうにかしたかったので、この気遣いは素直に喜ばしい。  早速ソックスガーターを外し靴下を脱ぎ、そのままズボンの裾を捲り上げるとなんの躊躇いも無く洗い桶の中に両足をつけ、濡らした布で顔を拭った。 「今日はこんな日和ですが、昨今の冷害にはほとほと悩まされるものです」  洗い桶の横にしゃがみ込んだかと思うと、レネは何ともか細い声でこれまでの経緯を語り出した。  話によるとこの辺りの農村は冷害で致命的な被害を被っており、養蚕・紬・刺繍を主な収入源とするここ、イヌプス村も壊滅的な状況らしい。  特に一昨年から三年続けて冷害は酷く、蚕の餌となる桑の葉が育た無い上に、生育温度に左右されやすい蚕は死滅。  その結果思うように糸を作る事も出来ず村の存続も危うい状態となっているらしい。  レネはそんな状況と悲痛な心境を織り交ぜ語ったかと思うと、しゃがんでいた状態からそのまま崩れ落ちる様に板の間に腰掛け、側に置いてあった繭とスピンドルを手で転がし始めた。  レネによって意味も無く転がされている繭は、煮繭をし井戸水で水洗いされただけの状態にも関わらず、太陽の光を浴び既に紡いだ後のような一級品の輝きを放っている。  別に糸を買うだけならこの村でなくとも良い話だが、どうしても作品に使用するのはこの村の糸でなくてはならない。  蚕の品種なのか餌の具合なのか、いまいち他の村と比べ違いがあるとは思えないが、この村で作られる糸の輝きと発色は他の物より頭一つ抜きん出ている。  以前仕入れの量を間違えた時、急遽街中で買える糸で代替をした事があるが、やはり普段の私の作品を知っている貴族には違いが分かったのだろう、納品したその日の内に嫌味ったらしい手紙と一緒に送り返されて来た。  その後のご機嫌取りと強制的に割引にされた事を思えば、他で追加調達するよりは数量限定で売り出した方が付加価値がつき話題になるだろうし、なにより面倒臭い貴族連中を相手にしなくても良くなる。  だが。 「ここから何色かに分けて染色をするとなると、一色の量としては……ドレス一枚刺繍出来るかどうか、か」  洗い桶から足を出し、レネに借りた布で足を拭っていると、つい考えていた言葉が口から出てしまった。  私のその呟きに、まるで死刑宣告を受けた受刑者の様に一気に青ざめ、恐る恐る顔を上げるレネとその娘達。  実際、ハンカチの隅に少しだけ刺繍を施す程度ならもっと量産出来そうだが、付加価値をつけるとなると一点物で凝った刺繍でなければ話にならない。  レネ達はこれで毎年纏まった金額を卸して行く私との契約が切れてしまう事を恐れているのだろう。  私としてもそんな事は避けたい。 「数日、数日だけ待っていただけたら、例年ほどではないにしろ纏まった量を準備致しますので……!」 「落ち着けレネ。こんな事で理不尽に怒りはしないよ。ただ、私の方は急ぎの仕事も入ってないから一向に構わないが、本当に大丈夫なのか? 数日待ったところでどうにかなるとも思えんし、今ある分だけで私は構わないが」  それでもレネはどうかお待ち下さいと懇願するばかりで引こうとしなかった。  状況的に売れる物は多いにこした事はないだろうし、レネも誠意を見せる為にもそう言うしかないのだろうな。  それに、一般の人間はこうやって床に頭をこすりつけて懇願されると、いらない物でも断れなくなってしまうものだ。  むしろ平然と断る事が出来るのは傲慢な一部の貴族だけではないだろうか。  結局レネのその願いを聞き入れる事にした私は、ひとまず今日持ち帰れるだけの糸を買い、一週間後また顔を出す約束を取り付け一度街に戻る事にした。
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