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テーブルの上に置いてあっためぐみのスマホの着信音が鳴る。
「あっ、友達来たみたい、行くね」
めぐみはスマホとカバンを持つと椅子から立ちあがった。
「うん、またね、今日はありがとう」
藍子は我に返ってめぐみを見上げると、笑顔で軽く手を振る。
藍子を見下ろしていためぐみは、何やら意味ありげに笑みを浮かべると藍子に顔を寄せて小声で言った。
「かっこいいじゃん! あの人」
「えっ?」
藍子はめぐみの笑顔と言葉の意味がわからず、ただ目を丸くした。
「この間、藍子が彼氏と別れた時はすごく落ち込んでいたけど、あの人の方が絶対かっこいいよ! 良かったね、素敵な人と出逢えて」
めぐみはどうやら藍子がドアから入って来た龍司に見惚れていたと勘違いしているらしい。
「違う、違う! あの人、アドラーのリズに似ていて、それで、つい驚いて……」
「藍子って内気で人見知りするところもあるから、私が恋のキューピットをやってあげたいところだけど、友達が待っているし、ごめんね! 悪いけど一人で頑張って。じゃあ、ね!」
めぐみは笑顔のまま手を振ると、さっき「あそこに絶対何かいると思う」と言っていたドアを用心深く通りながら、店を出て行った。
藍子が店の奥の窓に目をやると、窓の外をめぐみとめぐみの友達が並んで通り過ぎて行った。
めぐみの友達は藍子が着ている服と同じような紺色のシャツワンピースを着ている。
藍子は自分と同じ服だろうかと思ったが、良く見ると違う。
めぐみとめぐみの友達が並んで歩いていると、やはりめぐみの派手な服装が際立つ。
藍子が手を振るとめぐみも手を振り返し、友達は軽く会釈をする。
やがて、二人の姿は夜闇に紛れて見えなくなって行った。
めぐみがいなくなると、バーの店内が一気に暗くなったような気がする。
藍子はふと少し淋しい気持ちになった
目立つめぐみがいなくなってしまったという物理的な意味もあるが、自分が気持ちを安らげられる心の声が聞こえない人間がいなくなったという意味合いの方が強い。
めぐみが座っていた席からは、香水の『アンジェリーク』の匂いが微かに漂ってくる。
この香りは藍子の心の声が聞こえない人間から漂って来る目印のようなものだ。
アンジェリークは藍子の母親が若い頃に愛用していた香水で、藍子が一番好きな香りだ。
甘いのにどこか爽やかな香りが特徴的で、藍子はアンジェリークと同じような良い香りに今まで出会ったことがない。
藍子は大人になったら母親の真似をしてアンジェリークをまとうことを夢見ていたが、とっくの昔に廃盤になってしまい手に入れることが二度とできない。
でも、なぜか藍子の心の声が聞こえない人間からは目印のように、あのアンジェリークの匂いが微かに漂ってくるのだった。
藍子は大体の人間の心の声が聞こえるが、めぐみのように霊感が強かったり、藍子と同じ特徴的な体質を持っていたりする一部の人間の心の声はなぜか聞こえなかった。
この不思議な例外のせいで、藍子は自分の家族の心の声も聞こえなかった。
父親と姉が強力な晴れ男と晴れ女という特徴的な体質のせいだろう。母親は特に霊感もないし晴れ女でもないが、多分神社の生まれだから心の声が聞こえないのだろうと思っている。
特徴的な体質でなくても、神社とかお寺とか教会とか神聖な場所で生まれた人間の心の声もなぜか聞こえない時があった。
藍子は心の声が聞こえない人間と一緒にいる時だけは、気持ちを安らげて過ごせることができる。
心の声を聞いてしまって罪悪感を覚えたり、相手の本心がわかって悲しい想いをしたりしなくて済むからだ。
心の声が聞こえる体質は嫌だが、せめて家族やごく一部の人間の心の声が聞こえないのは不幸中の幸いだ、と藍子は思っている。
確かアンジェリークって、フランス語で天使のようなという意味だ、と藍子は思い出した。
自分にとって、家族やめぐみのように心の声が聞こえない人間は、気持ちを安らげられる天使みたいな存在ということなのだろう。
さて、めぐみは行ってしまったし、これからどうしようと藍子は考えた。
藍子は飲んでいたレモネードの中の氷をストローでかきまわしながら、そっとカウンターを見た。
カウンターではバーのマスターの久住と、さっき店内に入って来た龍司と呼ばれた男性が話をしている。
めぐみは藍子が龍司に見惚れていると勘違いしていた。
藍子は「違う、違う!」と否定したが、龍司の素性が気になるのは確かだ。
自分の憧れのアドラーのリズに似ているのだ、気にならないわけがない。
久住と龍司の会話に聞き耳を立てていると、二人は仲が良いらしい。仲良く楽しそうに話をしている。
藍子がバイトしている占いサロンは、今いるPenny Laneの上にある。
藍子は占い師のバイトを始めてから、仕事帰りに度々このバーに立ち寄っていて、バーの常連になっていた。
このバーのマスターの久住とも仲良くなっている。
久住に話しかけて二人の会話に入ることだって、やろうと思えばできた
ただ、そう思うのは簡単だが、行動に移すだけの勇気は出て来ない。
「藍子ちゃん、友達帰ったの?」
ふいに話しかけられて、藍子は顔を上げた。
考え事をしている間に、バーのマスターの久住が藍子の座っている席の近くに来ていた。
いつの間にか消えていたアンジェリークの香りが、またほのかに漂う。
久住からもアンジェリークの香りがほのかに漂って来る。
久住の実家はプロテスタントの教会らしい。久住も藍子の心の声が聞こえない人間の一人だった。
「はい、これから他の友達と約束があるそうです」
藍子は久住に笑顔を向ける。
心の声が聞こえない人間だからという理由以上に、藍子は久住に好感を持っていた。
店のドアにポスターが貼ってあることでもわかる通り、久住も藍子の好きなアドラーのファンなのだ。
藍子が初めてこのPenny Laneに顔を出した時、同じアドラーのファンということで二人はすっかり意気投合した。内気な藍子だが、音楽の趣味が合うということで久住とはすぐに打ち解けられた。
その時、久住は藍子が一番好きなアドラーの曲を店内に流してくれたのだった。
「そうなんだ。藍子ちゃんはまだ店にいる?」
「はい、まだいます」
「じゃあ、ちょっと紹介したい奴がいるんだけど」
久住は「こっち」と藍子をカウンターに連れて行き、藍子を龍司の隣に座らせた。
久住が藍子に紹介したかったのは、龍司らしい。
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