1. 『Penny Lane(ペニーレイン)』にて

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 藍子が突然の展開に驚きながら隣の龍司をそっと見上げると、龍司からもあのアンジェリークの香りが漂ってくる。  龍司も藍子が心の声を読めない人間のようだった。 「こんばんは」  龍司が藍子の方に顔を向ける。  藍子は胸が高鳴るのを感じた。  遠目で見た時からアドラーのリズに似てかっこ良いと思っていたが、間近で見てもその印象は全く変わらない。  いや、間近で見た方がかっこ良いかもしれない。  それに、さっき自分に挨拶した時の龍司の声。  久住との会話を聞いていた時からも思っていたが、良く通るのに聞いていてとても心地良い声だった。  隣で聞いてみると、ますますそれが良く分かる。 「こんばんは」  藍子も龍司に言葉を返したが、その瞬間、思わず「あっ」と声を上げそうになった。  龍司の瞳の虹彩の色がさっきまで明るい茶色だったのに、光の加減で濃い緑色に変化したからだ。 (この瞳の色、須佐(すさ)さんにそっくり!)  須佐は藍子が心の声が聞こえる体質だと唯一知っている男性だ。  藍子は須佐を思い出しながら、また胸が高鳴るのを感じた。  須佐は藍子の初恋の相手でもあったのだ。 「どうかした?」  藍子は龍司に声を掛けられて、はっとした。  須佐を思い出している内に、龍司の瞳を見つめたまま我を忘れてしまったらしい。 「いえ、その、きれいな瞳だなと思って」  藍子は言ってから、「しまった」と心の中で呟いた。  初対面の男性に対してきれいな瞳と言うのは、失礼だったのではないだろうか。  でも、龍司の瞳は藍子が思わず「きれいな瞳」と言ってしまう程、本当にきれいだった。  きれいな瞳、と言われた龍司は藍子が心配したことをまったく気にする様子を見せなかった。  優しそうに目を細めると「ありがとう」と言って、自分のグラスの飲み物を一口飲んだ。  藍子は龍司の仕草を見て、また初恋の人である須佐を思い出した。  須佐にも瞳の色を褒めたことがあったが、今の龍司と同じような表情をして「ありがとう」と言ったのだ。  須佐と龍司、見た目は全くタイプが違うがどことなく似ている、と藍子は思った。  藍子と龍司が一通り挨拶し終わると、カウンターに戻った久住はニコニコしながら口を開いた。 「藍子ちゃんも龍司もこの店に初めて来た時、最初にリクエストした曲が何か覚えている? アドラーの『Rain(レイン)』だったよね? しかも、この曲が好きなのかって訊いたら、自分の葬式で流したいくらい好きだって同じことを言っていたし」  久住の言葉に、藍子は驚いて龍司の顔をまじまじと見つめてしまった。  占いのバイトを始めた頃、初めてPenny Laneに入った時のことは良く覚えている。  一階のバーに洋楽好きなマスターがいると聞いた藍子は、思い切ってこのPenny Laneに入ってみた。  マスターの久住は確かにマニアックなくらい洋楽が好きで、藍子と同じバンドのアドラーのファンだった。二人はすぐに意気投合し、久住に「何か流してほしい曲がある?」と訊かれた藍子は、アドラーの名曲であるRainをリクエストした。  その時、藍子は確かに「自分の葬式で流したいくらい好きな曲」と言った。 (そう言えば「Rainを葬式で流したいくらい好き」と言った時、久住さん、驚いた表情をしていたっけ?)  つまり、自分よりも先に葬式で流したいくらい好きと言った人間がいたから、久住は驚いた表情をしていたのだ。  龍司も驚いた表情を見せた。 「アドラー、好きなんだ、意外だね。もしかして、ご両親が好きなの?」  龍司が藍子の顔を覗き込むように言う。  藍子はさっき自分がきれいと表現した瞳を間近に感じて、また胸を高鳴らせた。  間近で見ると、龍司の瞳はよりきれいに見えた。 「前にすごくお世話になった人がアドラーのファンで、その人にすすめられてから好きなんです」  藍子にアドラーをすすめたのは、藍子の初恋の人である須佐だった。  須佐はアドラーと同い年で、アドラーがデビューした時からのファンだと言っていた。 「俺も人にすすめられて好きになったんだ。イギリスにはとこがいて、はとこが家にホームステイした時すすめられて、それから好きなんだ」 「そうなんですか?」  藍子と龍司の会話はアドラーの話をきっかけに、どんどん盛り上がっていった。  アドラー以外にも好きなアーティストや曲を挙げてみると、二人の音楽の趣味は驚くほど似ていた。  藍子はかなり年上の須佐の影響のせいか、年齢の割には音楽の趣味が渋くてマニアックだ。  同い年の人間と音楽の話が合わないこともよくある。  こんなに音楽の話で盛り上がったのは、須佐の時以来かもしれない。  藍子は久し振りに自分の好きな音楽のことで話が盛り上がったのが嬉しくて、夢中になって龍司と話をした。  藍子は内気で慎重な性格だった。よほど親しくなった人間以外には自分のことをあまり話さない。でも、藍子は龍司に質問されるまま、音楽以外にも大学生活のことや占いのバイトの話などいろいろと話した。  どちらかというと口下手な藍子だが、龍司と話をしていると、まるで自分が話し上手な人間なのではないかという錯覚さえ感じてしまうほどだった。 (何て話しやすい人なんだろう)  話しやすいだけではない、龍司の隣にいると何とも言えない安心感を覚える。  龍司には何かしら人の心を開いたり安心させたりする天性の素質があるのかもしれないと藍子は思った。 「――そう言えば、私、アドラーのリズのサインが書いてあるCDを持っているんです」  藍子は龍司と話をしている内に、須佐が藍子の誕生日プレゼントにくれたアドラーのリズのサインCDのことを口にした。 「すごい、俺、リズのサインCDなんて見たことないよ。それ、どうしたの?」 「高二の時、アドラーをすすめてくれた方に誕生日プレゼントでもらったんです。もしなら、今度持ってきましょうか?」 「でも、大切なものだし……」 「いいんです、リズが好きな人に見てもらいたいんです」  藍子は笑顔で言いながら、自分はいつからこんなに機転が効くようになったのだろうかと思っていた。  リズのサインCDを持ってくると約束をすれば、龍司とまた会える。  また龍司に会えるかと思うと、藍子は嬉しくなった。
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