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~まよいご~
「ママ、ねこちゃん!」
───何処か遠くから声が聴こえる。
「ママはやく! ねこちゃんいるよ!」
「ねこちゃん? どこに?」
「あそこ! はやく、にげちゃう!」
「どこにもいないわよ」
どこまでも続く泥濘のような深い何処かから意識が浮上する。
「どこにいるの?」
「ママ、みえないの? ここにいるよ!」
小さな子ども特有の甲高い声。このころは男女の性差はさほどないだろう。深く深く何処かに沈んでいた己れの存在。誰にも気付かれぬ存在のはずが、こうして時折子どもに呼び起こされる。
「あれ、ねこちゃん……どこかいっちゃった」
「気のせいだったんじゃない? ほら、帰るわよ」
「ねこちゃん……」
やれやれ、今度はあの子どもか。後ろを振り返り振り返り去って行く子どもを見つめ、気配を追う。気配を追うのは容易い。小さな子どもの足跡は何故かキラキラと光っていて、それをただ追えばいい。
子どもの意識が己れに向かっているというだけで、無かった身体が組み立てられていく。身体は軽く、四肢は力強く大地を駆ける。この身体が力尽きた時のような頼りない状態ではない。駆ければ風を感じる。木々の騒めきが聴こえる。土のにおいがする。
僅かな仮初の日々とはいえ、己れは生きかえる───……
追ってきた子どもの部屋にするりと入る。子どもがひとりになる瞬間を見計らい傍に行く時もあれば、夢として眠りの中に入り込むこともあった。そうして束の間とは云え遊び相手になってやる。純粋な気を持つ子どものお陰で己れの身体は造られるのだ。僅かとは云え生気を頂くのだから、笑顔にしてやるのはせめてもの罪滅ぼしだった。
きゃっきゃっと声を上げて喜び、とにかく己れを触ろうとする子どもも居れば、そのつぶらな瞳でじっと己れを見つめてくる子どもも居る。触りたい、けれども怖い。動物に触ったことがない、何処を触っていいのか判らない……そんな戸惑いが伝わってくる。
永い間、様々な子どもたちから生気を頂いて、様々な子どもを見てきた。その中で思い出す───赤子。否、思い出すどころではない、忘れられるはずがない赤子。己れが存在する意味。泥濘に意識が沈んでいる時は何も考えてはいないのに、こうして身体が造られると絶えずその赤子の影が散ら着く。
赤子───赤子。赤子。
『───お前は、長生きしてね』
赤子の言葉が蘇る。己れの目を見て、血を吐きながら笑みを浮かべた、あの赤子。
『次は、強い身体で産まれてくるから……』
赤子の言葉は他愛のない願いだったが、それはまるで呪詛のように己れを縛り付けた───
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