番外編 ガラスの林檎

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番外編 ガラスの林檎

 レティシアは細い。  本人曰く「狐族なのだから当たり前でしょう」と言う。他の狼族や獅子族の男子と比べてはいけないのだろう。そして、たしかに狐族の女子よりは頭一つ分ぐらい背は高いのだから、やはりここは男子と言える。  それが現在、よけいにロシュフォールの心配をあおっているのだ。女子のように胸はふっくらしてないし、下半身にも肉が全く無い。棒きれみたいな身体だ。  いや、別に女らしい曲線なんてロシュフォールは求めていない。レティシアの青みがかった銀の髪も氷のように蒼い瞳も、人形のように常に無表情で整い過ぎた面も、だが、付き合っていれば微妙に微笑んでいるなとか、これは拗ねているのか?とか分かるようになってきた。  それよりなにより、銀色の毛並みの耳としっぽが自分だけには、へにゃりとしたりぶんぶんと振れるので、実のところかなり口に出さずとも雄弁なのだが。  そして、おうとつのないほっそりとしなやかな長い手足の身体も、すべてすべて愛している。  黄金獅子の王は己の中にあるすべての愛情を、銀狐の青年に捧げていた。  それだけにだ。レティシアの今だって愛しているほっそりした身体が恨めしい。  だって、その腹だけがふくらんでいくのだ。  ふっくらとし始めた頃は喜ばしかった。ああ、ここに己とレティシアとのあいだの命があるのだなぁ……と俺も父になるのか?なんて、感動さえ覚えたものだ。  それが、じりじりとした恐怖に変わっていったのはいつの日か。  だんだんとせり上がる腹は、ロシュフォールの予想を超えていた。実際、彼の人生の中で妊婦?をこんなに間近に見たのは初めてだったのだ。  十歳の身体のまま成長を止めていた彼は、当然後宮に送り込まれてくる愛妾達とのあいだにも、なにもなかった。盛んに機嫌をとろうとする、脂粉の匂いがぷんぷんする女達など、わずわしいとさえ思っていた。身体とともに精神の成長も十歳で止まっていた彼は、それなりに美しい女達にもなにも感じなかった。  ずっと止まっていた彼の心を波打たせて大人の男にしたのは、自分にこびも笑顔も見せなかった、銀色の狐ただ一人だ。  ともかく、後宮でも、それから王宮の夜会にも、もちろん腹のふくらんだ貴婦人など来るはずもない。ロシュフォールは妊婦の腹というものが、これほどふくらむとは思わなかった。  あとはすべてなにもかも細いレティシアの身体が心配になる。前々から小枝のような手も足も、自分が力一杯握りしめたらぼっきりいくんじゃないか?と思う時があった。しかし、ロシュフォールはその手が剣を器用に操り、敵の急所を的確につくことも、ほっそりした足が風をまとったように素早く、また踊るかのように跳んで、敵の力任せの攻撃避けることを知ってはいた。それに強力な風と氷の魔力を操ることも出来る。  レティシアは強い。そこらへんの大きな身体だけが自慢の男達には負けない。  しかし、今は身重だ。ふくらんでいく腹が余計に、細い手足を強調する。うっかり転びでもしたら、手足がぽっきりどころか、腹にヒビがはいってパリンと……などと馬鹿な夢を見て飛び起きたことがある。  横を見れば同じ寝台ですやすや眠る伴侶の姿にほっとして、そっとその腹だけふくらんだ細い身体を抱いて寝た。  そうして、今は椅子に座ったレティシアの周りをうろうろしながら、あちこちの椅子からロシュフォールはクッションを一つ二つと手にとって、それを臨月間近となった、レティシアの背中やら身体の脇へと押し込んでいる。 「陛下」  お腹は本当に大きいのに、レティシアのどこもかしこもやはり細い。細くて、壊れそうでそのふくらんだ腹だってどうなるかわからない。いや、ともかく、このガラスのようにもろい銀を保護しなくては。 「陛下」  ロシュフォールはレティシアの周りをうろうろとうろついて、クッションをそのちんまりした足下においた。男子にしては小さな足は、今はかかとのある靴ではなく、布の底の平たい室内履きだ。白の絹の光沢で幾重にもレースではき口が縁取られている。  レティシアが今着ている服も、身体を締め付けない白い衣だ。こらちもレースをふんだんに使ったもので、さらに身体を冷やさないように上から羽織ったガウンも、ひらひらと羽のような軽やかなレースのものだ。  このドレスいやいや衣は大変、レティシアに似合っていた。そもそもにこれほど白が似合う麗人はいない。だから、ロシュフォールがレティシアに贈った眼帯も白いレースばかりなのだ。この眼帯、もちろん一つだけでない。替えがいるだろうと、初めは蒼の涙型の宝石がついたものを、次に紅もにあうだろうと紅玉のものと、次にはダイヤモンドを涙型にカッティングさせたものを贈ったら「これ以上はいいですからね」と怖い顔をされて言われた。  が、実は出産祝い用に密かにロシュフォールは用意させている。祝いごとにかこつけて贈れば、無駄使いとぷんぷん怒りながらも、レティシアは受け取ってくれる。  今も顔の左半分を飾るのは、その金剛石が涙型にきらりと光るそれだ。白い羽のような衣をまとったレティシアには大変よく似合う。そして、ロシュフォールは十個目のクッションをレティシアが座る、横、少し開いていた隙間に押し込んだ。 「ロシュフォール様!」  滅多によばれない名前で呼ばれて、ロシュフォールはハッ!と目を見開いて我に返る。目の前には、あいかわらず人形のような無表情に見えるが、ロシュフォールの目にはあきれているように映る、愛しい伴侶の顔があった。その証拠に銀色のしっぽがぱたぱたとせわしなく揺れている。  これは苛立っているようだ。あまり怒らせると腹の子によくないと、侍医に訊いているロシュフォールは背中に汗をかいた。 「私をクッションに埋もれさせる気ですか?」 「すまない」  たしかに、レティシアの腰掛けた椅子の背にも脇にもクッションがおしこまれ、その足下にもクッションが散らばり敷き詰められていた。 「あなたは、獅子だと思っていたのに鳥だったのですか?」 「と、鳥?」  背中に翼がある種族なんていただろうか?と、ロシュフォールは一瞬考えたが、レティシアは「冗談です」とさらりと言った。 「あなたのそれはまるで巣作りだと言ったのです。前にもいいましたが、私は転げ落ちたら割れる卵ではないのですよ」 「割れたら大変ではないか!」  ロシュフォールがとたん青ざめるのに、レティシアはふう……とため息を一つ。 「いきなり、この腹が裂けたりはしませんから」 「恐ろしいことを言わないでくれ!」  それこそがロシュフォールが毎回考えてしまうことだった。本当にこんなに大きいお腹になって、いつ、パンと破裂……いや、考えたくない! 「あなたが私を大切に思ってくれているのはわかりますが、人間というのは案外丈夫なものなのですよ。  まあ、案外あっさりと死にますが」 「だから、どっちなんだ!」  本当にこういうところが冷静な伴侶は困る。死なないと言った口から、だが絶対という可能性もないとは事実であるが、今はその愛らしい口から聞きたくもない。  しかも。 「あ、動きました」 「え?」 「触ってみてください」 「あ、いや、おわ!」  レティシアにぐいと手を取られて腹に触れさせられた、とたんにポコンとふくれた腹の表面がさらに突き出たのに、ぎょっとして手を離す。 「お腹を蹴りました。元気です」 「は、母親の腹を蹴るなど」 「胎児ならば普通にすることですよ。いままでも何回かありましたし。  ほら、なかから蹴られたとしても、私のお腹は破れたりしません。この中の子供も元気です」  「ですから、そんなに心配しなくて大丈夫ですよ」と微笑まれて、ロシュフォールは促されるままに、またレティシアのお腹に手を触れた。  破裂するかと怖かった膨らみだが、そこが温かいことに安心する。また、ぽこりと蹴った感覚にもだ。  たしかに、レティシアも生きているし、腹の子も生きている。 「安心しましたか?」 「いや心配だ」 「あなたが産むわけでもないのに」 「俺じゃないからだ!いや、自分だと考えたらそれもそれで怖いが、代われるものなら、代わっている!」  新しい命の誕生はめでたいが、しかしその裏で出産は危険で母親と子供が死ぬこともあると、ロシュフォールとて知っている。  ましてレティシアは雄狐で雌ではないのだ。そのうえにこんな細い身体で、それこそ代われるなら頑丈な自分のほうが大丈夫に違いない!と、いささか倒錯的なことを考えるほどだ。 「……嬉しいが心配なのだ」  腹に手を当てたまま、座っているレティシアの前にひざまづくと、レティシアの手が伸びて、頭を抱きしめられる。  その細い肩に顔を埋めれば、金色の巻き毛をなでられて「大丈夫、私は死なないですよ」と言う。  この現実主義の参謀らしくない言葉だ。大丈夫とか死なないなんて。 「こんな弱虫なあなたを残して死ぬ訳ないじゃないですか」 「そうか」 「ええ、国のことだって心配です」 「結局、そうなるのだな」 「結局、あなたも国も心配なのです」  頭を撫でる細い指はやさしく、ロシュフォールはしばらくそれを受けたのだった。
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