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「いいな。僕も見てみたい。連れて行って」
それは十歳の子供の無邪気な言葉だった。だけど、銀狼の青年はその銀の瞳を見開いて、次に寂しく微笑んで告げた。
「すまない、今は連れて行けない。俺も戻れないんだ」
「家に帰れないの?」
子供のミシェルにとっては、それはとても心細いことだ。くしゃりと顔をゆがめれば大きな手が頭を撫でてくれた。
「今はな。だけど必ず帰る」
「そうだな、約束しよう」と彼は思いついたように一転、寂しい笑いから朗らかに微笑んだ。それは冬の厳しい空から差し込む日差しのように温かな。
隣同士自分のマントの上に座るミシェルを、あぐらをかいた膝に軽々と抱きあげる。
「俺が国に帰ったら、君を俺の国に招待しよう。必ず迎えに来る」
「本当に?絶対だよ!クリス!」
本当はクリストフなんだけど、焦って思わず名前を省略してしまった。「あ……」とミシェルが頬を染めれば「その名で呼んでくれ」とクリストフは微笑む。
「クリスと俺を呼ぶのは君で二人目だな」
「一人目は誰?」
「母だ」
「母様?」
「ああ、もう亡くなった」
死んだと聞いてミシェルが顔を曇らせれば「もう、前のことだ」と彼は続ける。
「でも、悲しんでくれるのか?ミシェは優しいな」
「あなたがクリスだから、僕はミシェ?」
「ああ嫌か?」
「嫌じゃない。二人だけの呼び名だよね?」
「ああ」
その夜は残りの食べ物を口にして、ミシェルはクリストフの腕に抱かれて寝た。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
朝、起きるとクリストフの大きなマントに包まれてミシェル一人で眠っていて彼の姿はなかった。
まさか、彼は行ってしまった?一人にされたことよりも、そのことが悲しくてすみれ色の大きな瞳を潤ませていると小屋の扉が開いた。
「ミシェ、起きていたのか?朝食になるかと木イチゴを採ってきたんだが……」
見えたクリスに向かい思いきり飛び込んだ。長身の彼の腰にしがみつくようにして。
「す、すまない。一人にして寂しかったのか?」
「よく寝ていたから」とうろたえる彼にミシェルは見上げて、まだ瞳潤ませたまま「よかった」と笑顔になる。
「クリスとこのままお別れかと思ったら嫌だった」
そう告げると彼は銀色の目を大きく見開いて「おはよう」と言ってくれた。「おはよう」とミシェルも返して、それから木イチゴで朝食をとった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「奴らの気配はないが、少し遠回りをするぞ」
朝食のすぐあとでクリストフに抱かれて小屋を出た。ミシェルは一人で歩けると思ったけれど「俺が君を抱いて移動したほうが早い」と言われた。
「お願いだ」とも、そう言われてしまえば、うなずくしかない。
昨日もそうだったけれど、深い森の中を彼は知り尽くしているかのように、迷いなく進んで行った。
たしかに遠回りだったのだろうか? 朝早く小屋を出たのに、離宮にクリストフとミシェルがたどりついたのは、お日様がかなり高く上がった頃だった。
クリストフは当然一緒に来てくれると思っただけど、衛兵が守る門が遠くに見える前で、彼の足はぴたりと止まりミシェルを下ろした。
「ここから先は君一人で行くんだ。大丈夫だね?」
「クリスは一緒に行かないの?」
「俺はすぐにここから離れなきゃならないから」
首を振る彼に、ミシェルはじわりとすみれ色の瞳を潤ませる。でも、ここで泣いたら彼を困らせると思って必死に我慢して「約束したよね?」と告げる。
「クリスがお家に帰ったら、僕を北の国に連れて行ってくれるって!」
「ああ、かならず俺はミシェを迎えにくるから」
「俺の国を取りもどしたなら、いつか」と小さなクリストフのつぶやきは、うつむき涙を堪えるミシェルには聞こえなかった。
「絶対だよ」
「ああ」
「絶対、絶対、来てね!」
「約束しただろう? 北の狼は誓い(ゲッシュ)は必ず守る」
「だから行きなさい」と言われて、ミシェルはうなずきもう一度「絶対だよ」と言い残して、離宮の門へと駆けて行った。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
一晩行方不明となったミシェルに大騒ぎとなって近くの森の大捜索が行われたと、あとで聞いた。
父王ロシュフォールは「とにかくよかった」とくり返して、兄のランベールは会うなりしばらく抱きついて離れなかったぐらいだ。
双子でも二人の体格差は生まれたときより、かなりあって、このときも「苦しいよ! 兄様!」と怒ってしまったけど。
そして、母大公であるレティシアは「怪我もなく戻ってなによりです」とやっぱり冷静で、だけど頭をなでてくれる手は優しく、静かにホッと息をついたところからして、心配していたのだと分かった。
「ですが大人の目を盗んで行方不明になり、迷惑をかけた罰をあなたは受けねばなりませんよ」
やはりそこは厳しい母。ミシェルはこの離宮に滞在するあいだ、自室にて謹慎を申し渡されてしまった。
兄のランベールは「ミシェルと一緒にいる!」とダダをこねたが「それでは罰になりません」とレティシアに連れて行かれた。
普通だったら一人部屋で落ち込むところだ。外で遊べなくなったのは残念だけど……と、ミシェルはクリストフとたった一日だけ過ごした、森を見つめたのだった。
いつか、あの銀狼が自分に会いに来てくれる。そして見たことのない、はるか北の白い森へと思いを馳せた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
ミシェルは十五歳となった。
愛される王子という愛称は変わらず、母大公譲りの美貌に、氷の美貌に例えられる無表情の大公と違って、その笑顔はまるで春に咲くすみれのよう……と瞳の色になぞらえて例えられた。
父王と兄王子の溺愛と周囲の過保護は変わらず。とくに兄王子のランベールは最近ミシェルに近づく貴族の青年達に対して、厳しい目を向けるようになっていた。
ミシェルと同じ十五歳とはいえ、父王にますます似て、すっかり大人と同じぐらいの体格になった彼ににらまれると、青年達はすごすごと逃げていく。
「挨拶に来ただけだよ」とミシェルが言っても「お前は母様に似てますます美しくなったから心配なんだ」と兄は言う。
なにを心配しているんだか……と思う。
母大公にそう話したら「みんながあなたをいつまでも子供扱いするから、わかりませんか?」とクスリと笑われて首をかしげたけれど。
ミシェルが時々思い出すのは、あの森でたった一晩だけ一緒に過ごした銀色の狼の彼だ。
クリスは絶対に約束を守ってくれると、ミシェルは信じていた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
王宮がちょっと騒がしい。
北はリンドホルム王国の王がサランジェ王国へとやってきたのだと。
かの国の大半は深い森に覆われていて、冬は雪と氷に閉ざされる、白の森と呼ばれている。
これを学んだときにミシェルは胸が高鳴ったものだ。
クリストフも白い森からやってきたと言っていた。だから彼の国はリンドホルムではないか?と。
そういう意味では、王宮の騒がしさもちょっとはわかる。まさかとは思うけど、その王様達の外交団にクリストフが……居るわけないか、とも。
王宮の貴族達が騒がしいのは、訪ねてきた王がまだ若く、正妃を迎えていないということだった。
「……とはいえ、あの国の王は狼であるからな」
「ただの狼ではなく、王族は特別な血筋と聞いているぞ。姿を見ただろう?」
「たしかにただ者ではない風格ではあったな。あれが北の銀狼かと。しかし顔に傷がな。うちの気弱な娘は怯えるかもしれん」
「数年前に王位継承に争いがあって、一時期は国から逃亡したというが、それを戻って治めたのだから大したものではあるがな」
そんな貴族たちのささやきも、十五のミシェルの耳には素通りしていった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
そして玉座の間にて。
やってきたリンドホルムの王国の者達、その中心に立つ人物にミシェルはすみれ色の目を見張った。
すり切れたマントの旅の剣士の姿ではない。北の国らしい黒貂(くろてん)の毛皮のマントに、黒に銀の刺繍の絹の服。
あのときよりもさらに精悍さを増した、銀狼がそこにいた。
忘れるわけもない。白銀の髪の長さはあの頃と変わらず、鷹のように鋭い銀色の瞳。鋭角的な頬に高い鼻に引き結ばれた唇。長身に痩躯であるが、脆弱さなど微塵も感じさせない。高貴な野生の狼そのもののような。
そして、ミシェルが癒したけれど、残ってしまった顔の右側に走る傷跡。
クリストフ・フォン・ベルツ。
リンドホルムの若き銀狼の王こそが彼だった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
リンドホルムはサランジェ王国から見て、北。ゲレオルク国の黒い森を越えた先にある、白き森の国だ。冬は雪と氷に閉ざされて、近年まで人々は狩猟と牧畜で暮らす後進国と見られていた。
また、大陸の王のほとんどが獅子族というなかで、唯一の狼族の“長”を頂くというよりも、北の未開国よと一段低く見られる原因ともなっていた。
しかし、その銀狼が率いる北の狼たちの勇猛さは有名で、彼らは度々他国の戦の援軍、つまりは傭兵として名をとどろかせていた。
こちらも傭兵稼業で有名な山国リグランの屈強な男達よりも、その統率力や戦闘力で一段上だとも。
その長に治められていた部族集団が、長が王となって王国を名乗りだしたのは、三代前の初代王スタイフから。白き森に広大な金脈が発見されたのがきっかけだった。
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