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十歳で始めての冒険でミシェルはクリストフと出会った。
「僕ね、だからクリスが大好きになったんだよ」
唐突なミシェルのの告白に目の前の銀狼は目を丸くする。
「きっとね、全部クリスが食べても僕はひどいとか思わなかった。僕があげるって言いだしたんだもの。
だけど、それなら冷たい言い方になるけど、良いことしたなって僕も自己満足して、それでおしまいだった思う。
クリスのこと忘れなかったのは、ずっと会いたいって約束を覚えていたのは、クリスが全部半分こしてくれたからだ。
僕ね、気付いていたよ。クリスが半分こして、必ず僕に大きな方をくれていたってこと。朝の木イチゴだって、僕のほうにたくさんくれたでしょ?」
「だからクリスが好き」とまったく素直に笑顔をすべてミシェルがつげれば「それは、ありがとう」とクリストフがどこか照れたように微笑む。
そして、微笑みをおさめて真剣な表情で。
「俺も、俺の傷を怖がることなく癒してくれた君を、あのとき守らなければと思ったんだ。
食べ物を全部くれると言った君をなんて優しい子なのだろうと、それだけで逃げ回って凍えていた心か解けるのを感じた。まだ人を信じていいのだと思えたんだ。
そして、君と約束したからこそ、俺は故郷に帰る決意が出来た。
だから君には感謝している、ありがとう。
俺も君が大好きだよ」
真っ直ぐ見つめて告げられて、自分も同じことを言ったのに、ミシェルのは頬はかあああっと赤くなった。そして小さな声で「僕こそありがとう」としか言えなかった。
この人に出会えて良かったと思った。それから。
「あとどれぐらい、この国にいるんですか?」
「そうだな、予定ではあと五日滞在するつもりだ」
「そうですか」
この人はリンドホルム王国の王なのだ。いつまでも国をあけているわけにはいかない。すぐに国へと戻るだろう。それは分かっていたけれど。
あと五日しか会えない。
そのことにミシェルの胸は痛んだ。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
翌日。今日の午後にもクリストフを訪ねることを楽しみにしていたミシェルの耳に、その名前が聞こえた。
「あそこの伯爵家もか?」
「一国の王が訪ねてくるなんて、なかなかないことですもの。どこの貴族の家も目の色を変えているわ。自分の娘が王妃になれるなら……って」
若い侍従とメイド達の噂話だ。宮殿に仕えればお偉い方々の噂話にも詳しくなるというものだ。
本来はよくないことではあるけど、あれで息抜きになっているのだから、大目に見てさらりと聞かなかったフリをするのがいいと、ミシェルだって普段は心得ている。
だけど、今の話題はクリストフのことだ。外国からのお客様。それも王のことを噂話するなんて……とミシェルは自分に言い訳して、その頭の上の尖った耳をぴんと立てた。
それに“王妃”という単語も気になる。
「しかしなあ、本来王妃となる方は王族か、よくて王家の血を引く侯爵家あたりまでだろう?それが伯爵や男爵が自分の娘を愛妾ではなく、正妃になんてずうずうしくないか?」
「相手が獅子族じゃない、自分達と同じ狼で北の未開の国の王だって、馬鹿にしている気持ちがあるんでしょうね。
あげく、どこぞの侯爵様まで下の貴族達の競争に刺激されたのか、自分の妾腹の娘ならくれてやっていいと、言いだしている始末ですって」
その酷い内容にミシェルは腹が立った。貴族達の思惑も、クリストフを馬鹿にしたような考えも。
「妾腹だって、大国サランジェの侯爵家の娘となりゃ、寒い国の王様も心が動くかもな」
なんて言葉をそれ以上聞きたくもなくて、ミシェルはその場をあとにした。
あの北の国へクリストフが帰るとき、自分の知らない娘がその横にいるなんて、考えたくはなかった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「今日はどうかしたのか?」
「なんでも……」
「ない」と言えないとミシェルは思った。
迎賓館のサロン。
お茶も出された焼き菓子だって美味しい。そもそも王宮で供されるものなのだ、ミシェルの好きなバターたっぷりのガレットも美味しい。しょっぱくて甘いのがいいのだ。
だけどお茶は手をつけられず冷めたまま、いつもなら一番に手を伸ばすはずの、ガレットも食べていない。
これではおかしいと丸分かりだ。いつもはミシェルが一方的にしゃべっているし、クリストフは本来寡黙だから、嫌な沈黙ばかり続いているし。
「あなたに結婚話があると聞いて」
「ああ、あちらには悪いがすべて断っている」
その言葉にミシエルはホッと息をついた。
「そうですね。王であるあなたに貴族の娘を正妃になんて図々しい」
自分でさえ思わぬ言葉にミシェル自身も目を見開いた。クリストフも驚いた顔をしていた。
「私は身分などは気にしていない」
「……僕もそう思います。今のは酷い言葉でした」
ミシェルも王子ではあるが、家庭環境のせいか身分ということを普段はあまり意識してない。だから、今の自分の口から出た言葉に驚いたのだ。
そう身分なんかじゃない。この人が誰かと結婚する。そのことがたまらなく嫌だったのだ。
「ただ、出来うるならば愛する人を妻に迎えたいと思うのだ。ただ一人、俺がずっと忘れられない人を」
それはミシェルの胸につき刺さった。この人の心にはすでに、その忘れられない人がいるのだ。
愛する人が。
衝動のまま、ミシェルは立ち上がりサロンを飛び出した。「ミシェ」とクリストフの声にも足は止まらない。
「待ってくれ!」
だけど迎賓館から出て、本宮殿へと続く回廊で手首をつかまれる。
「俺が想っているのは……」
どうして追い掛けてきて、この人はこんなことを自分に告げるのか?とミシェルはうつむく。じわりとすみれ色の瞳を潤ませる。
「俺がずっと忘れられなかったのは、小さかった君だ」
はじかれるように顔をあげて、そしたらほろりと涙が丸い頬にこぼれた。それを優しくクリストフの指がぬぐう。
「思い出の中の君は子供で俺がひと目でも会いたいと思ったのは、君のあのときの純粋な優しさで、国に帰る勇気を貰えたからだと思っていた。
だけど、再会した君は美しく育っていて、あの玉座の間でひと目見たときに俺は……どうして、あのすみれ色の瞳を忘れられなかったのか、その理由が分かったような気がした」
そして、クリストフはミシェルの白いひたいに、そっと口付け落とす。自分の両手を握りしめて、唇ではない額に触れるだけのそれは、いかにもこの北の誠実で優しくて勇敢な銀狼らしかった。
「あなたの国に連れていって……」
「ああ、必ずと誓い(ゲッシュ)をたてただろう?」
子供の頃はあの言葉の意味はわからなかった。だけど北の狼の戦士にとって、この言葉はけして違えぬという神々に対しての誓いなのだと知った。
だから彼はきっと自分をあの白き森へと連れて行ってくれるだろう。
「今すぐにでも行きたい」
「それは無理だ」
苦笑する彼の広い胸にミシェルはその頭を甘えるようにおしつけた。そんな自分を彼は包む込むように抱きしめてくれた。
その二人を見つめる鋭い目があることを、二人は気付くことはなく……。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
翌日、ミシェルは弾んだ気分でクリストフに会いに行くつもりだった。
「あの男のところに行くつもりか?」
そこに兄のランベールが立ちはだかった。双子でミシェルと同じ歳だが、金獅子の彼はすでに狼の戦士顔負けの体格と武勇を誇っている。さらは母親譲りで学問も良く出来て、すでに大王なんて名で呼ばれ出している父王以上の名君になるのでは?なんて期待の声も高い。
しかし、この冷静な兄の唯一の欠点は、ミシェルに対して異様なほどに過保護なことだった。愛する母に容姿が似ているうえに、心清らかで優しい弟をこの兄は溺愛している。
「いままでどうして俺に黙っていた!?」
「クリストフは大切な友達だよ。友達に会いに行くのに、兄様にいちいち許可がいるの?」
「友達?手を握りしめて、ひたいにキスされて、抱きしめあうのが、ただのお友達か?」
ミシェルはひゅっと息を呑んだ。よりにもよって、昨日の回廊での出来事をこの兄に見られていた?
「あの男に会うことは許さない。お前は部屋にいるんだ!」
「ランベール兄様の横暴!」
自室に押し込められて、その部屋の前に兄が居座って、その日の午後、ミシェルはクリストフに会いに行くことが出来なかった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「お前は五日間、後宮から外に出ることを禁止する」
夕餉の席で父のロシュフォールから告げられた言葉に、ミシェルは軽く目を見開いた。
午後からのいさかいで当然、兄ランベールとの空気は最悪だった。口も利かず視線も合わせないミシェルにランベールはなにか言いたげだったけれど無視した。
その兄ランベールの隣に彼にそっくりだが、身体が大きく、重厚さを足した父王が座っていた。丸い食卓を挟んでミシェルの正面に。
三十半ばを過ぎた男盛りのロシュフォールは、今や押しも押されぬ大国サランジェの大王として名をとどろかせていた。年齢を重ねたこその苦み走った男ぶりに、恋い焦がれる貴婦人達も多い。
とはいえ、その金獅子の大王は隣に座る参謀にして、大公である銀狐の妻に変わらず夢中なのだが。
シャトレ大公レティシアは年相応の風格が出てきた夫とは正反対に、年齢不詳の美貌を誇っていた。
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