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「お別れだけでも言いたくて……」
「そんな悲しいことを言わないでくれ。君をさらいに来たんだ」
「え?」
きょとんとすればクリストフが真剣な顔で、こちらの瞳をじっと見る。
「約束(ゲッシュ)をはたしにきた。君を俺の国に連れていきたい。だけど、これは招待なん
かじゃない。
一度連れて行ったならば、二度と君を返せない。君を俺の妻にしたい」
「君の意思を確認したい。俺と来てくれるか?」その言葉にミシェルは迷うことなく「はい」とうなずいた。
早いと言われるかもしれない。あなたはまだ十五歳だと。
でも、十歳からこの人のことを忘れることはなかった。そして、手を握り締められて、ひたいに口づけられた。胸の高鳴りは本当だから。
「クリスと行きたい。連れて行って」
「ああ、君を連れていく」
ふわりと抱きあげられて、そして、そっと口づけられた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「それでどこから逃げるの? 扉の向こうには兄様がいるし……」
クリストフに抱きあげられたまま、ミシェルはこそこそと彼に耳打ちする。隣室には兄が詰めているのだ。
「というか、ここ三階なんだけど、どうやってクリス窓から来たの?」
「ああ、屋根伝いにな。それから縄で下に降りた」
「屋根って……」
宮殿の屋根だから普通の建物より相当高い。その上までどうやって昇ったのか? とか、そこからまた綱一本で、三階の自分の寝室の窓まで降りてきたのか?とゾッとする。
「じ、じゃあ、僕もクリスと一緒に窓から逃げるのかな?」
自分だって男なんだから覚悟を決めなきゃとミシェルは思ったが、クリスが「ミシェにそんな危ないことはさせられない」と生真面目に返す。
「じゃあどうするの?」
「正攻法だ。扉から出る」
「え? でも兄様が」
そう言っている間に、ミシェルを片腕で軽々抱いたクリストフは、大股で部屋を横切って寝室の外へと扉を開く。
そこには当然兄がいた。「お前は!」と腰の剣を抜き放ったランベールに、クリストフもまた一旦ミシェルを下ろして、すらりとその長剣を抜く。
「殿下の弟君をいただきにまいりました」
「ぬけぬけとよくも!」
振り下ろしたランベールの剣を、片手一本で受けとめたクリストフに、武勇を誇る金獅子王子は目を見張る。さらには。
「失礼」
「うわっ!」
見事に足払いをかけられてすっ転んだ。風のように素早くミシェルを再び抱きあげたクリストフは、みごとにランベールを躱して部屋を出て行く。
「待てっ! なあっ!」
立ち上がり追いかけようとしたランベールだが、一歩進んだところで、またもや見事にすっ転んだ。
なんと床が凍り付いている。あの北の銀狼の仕業だ。
「な、なんと卑怯な!」
炎の魔力で一瞬にして氷をとかし、ランベールは部屋を飛び出して「誰か!」と衛兵を呼ぼうとしたが。
「およしなさい」
「母上!」
そこにすらりとした銀狐の母大公の姿があった。
「たった三百で五千の軍をやぶった北の銀狼にして王です。初陣もまだのあなたが敗れて当然でしょう?」
告げられた言葉にランベールは唇を噛みしめる。たしかに簡単にあしらわれた。自分はもう、大人にだって負けないと思っていたのに。
「あなたもまだまだということです。よい薬になったでしょう?」
「ええ、母上の実地の教訓はとても苦い」
この母のことを敬愛はしているが、しかし、父に平気で「あなた馬鹿ですか?」と言うこと同様、ランベールにはいささか手厳しいのだ。ミシェルには甘いのに。
いや、みんなあの愛すべき弟には甘いのだけど。大切な大切な。そこでランベールはハッ!とその金色の目を見開く。
「しかし、母上。このまま、あの銀狼にミシェルをさらわれていいのですか?」
「もちろん、手は打ってありますとも。あなたぐらいでは“試練”になりませんから、当然“あの人”にも立ちはだかってもらわなければ」
意地悪な微笑みを浮かべたレティシアにランベールは「まさか」と目を見張った。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
ミシェルを抱いたクリストフは長い足を動かして、迷うことなく後宮の抜け道を進んだ。
王族しか知ることのない、宮殿の外への脱出路だ。
「クリス、この道って……」
「ああ、大公殿下に教えていただいた」
「母様が?」
レティシアがクリストフにわざわざ?いや、あの母が“ただ”でそんなことをする訳がない。
「クリス、この道を進むのは……」
「大公殿下のご厚意なのだ。ありがたく受けねばならないだろう?」
さっきの立ちはだかる兄を強行突破したことといい、この人ならば当然そうだろうなと、向けられた笑顔に思ってしまう。ミシェルも思わずクスリと笑う。
そして、地下通路を抜けて出た先は宮殿の壁の外の森。そこに立っていたのは。
「父様」
「レティシアに言われた通り待っていれば、本当に来るとはな」
そこには月光にもキラキラと光るたてがみのような金髪の巻き毛、堂々たる体躯の父がいた。ぎらりと輝く金の瞳にミシェルは射すくめられたように目をぎゅっとつぶる。
父は怒ってる。それはひりひりと肌で感じる炎の魔力からも明らかだ。
「剣を抜け。お前の覚悟を示してみせろ」
「あなたを倒して、息子さんを頂いていく」
「よくぞ、堂々と言い切ったな。この若造!」
男達は互いに剣を抜き放つ。ミシェルはただ見ているしかなかった。
ガキリ! と重い音を立てて二つの剣が重なる。一撃、二撃、三撃と響く音が怖いけど、目を離せない。
同時にごおと炎が燃えあがれば、それはたちまち凍り付いて白くなる。が、その白を今度は赤い炎が舐めて解かし、また炎を氷が凍らせて。
それは二人の背負った闘志そのもののようだった。炎と氷の壮絶な光景の中で、二人は剣を叩きつけあう。
ロシュフォールの大剣がクリストフの顔をかすめるのに、ミシェルはひゅっと息を呑んだ。間一髪で彼はそれをのけぞることで避けたが、うっすらとその鋭角的な頬に血がにじんだ。
「やるな……」
ロシュフォールがニヤリと笑う。その父の頬にも血がにじんでいた。クリストフの長剣もまた同時に父を傷つけていたのだ。
見てられない……とミシェルは思った。
このままぶつかりあい続ければ、どちらかが本当に倒れるまで止まらない。
「もう止めて!」
反射的に二人のあいだに飛び込んでいた。月光に輝く剣も怖くなかった。
このミシェルの無茶に二人ともとっさに剣をひいたのはさすがだった。「危ないではないか!」と怒鳴ったロシュフォールだが、自分に向けられた息子の白い面に絶句する。
「父様、父様、ごめんなさい」
「ミ、ミシェル、泣くな……」
月の光に輝く涙はなによりも美しく、痛々しいと父王はその顔をゆがめる。ミシェルは隣に立つクリストフの腕にぎゅっとしがみついた。
「僕はクリスと行きます。離れません」
「ミシェ」とクリスが呼んで抱きしめてくれる。その二人の姿にロシュフォールは顔をますますゆがませて、そして、くるりと後ろを向いた。「父様?」とミシェルが声をかければ。
「俺はなにも見ていない。大切な息子をさらっていく盗人も、父をおいていく不義理な息子もな」
「ありがとう、父様」「あなたの宝、大切にする」と可愛い息子と憎い男の声にロシュフォールがこたえることはなく、二人の気配が遠ざかる。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「やはり行ってしまいましたか」
「お前が仕組んだのだろうが!レティシア!」
そして、かけられた声にロシュフォールが再び振り返れば、そこには最愛の銀狐の大公の姿があった。
「あなたが全力で阻めばよかったのです。さすがの北の銀狼も金獅子の大王の本気に無傷ではいられないでしょうから」
「あの若造なかなかにやる。あのままぶつかり続けたら、こちらも無傷では済まなかっただろうな」
「実際、無傷ではありませんね」とレティシアがロシュフォールの頬にハンカチをあてる。「かすり傷だ」と彼は不機嫌に答え。
「ミシェルに泣かれてはかなわん」
「みんな、あの子には弱いですから」
「あんな北の田舎者にくれてやるとは」
「結局どんな相手だって、あなたもランベールも不満だらけでしょう」
最愛の伴侶の言葉に、ぐっと言葉に詰まる金獅子の大王だった。
さて、十五歳の花嫁を迎えた北の銀狼だったが、口付けのみの清い関係を続け「僕も母様が父様に出会ったのと同じ十七歳になりました!」と言われ、金獅子の大王からもたったひと言「このヘタレ!」という手紙を受け取るのは、また別のお話。
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