第五話 秋の帝都

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第五話 秋の帝都

 スタニスラワ帝国、今は国交が断絶しているリンドホルム、白の森の国境から、冬の都であるヴェースチのほぼ真ん中にある小さな町ヤシュカ。そこにある貴人用の宿は夜だというのに喧騒(けんそう)に包まれていた。 「居たか?」 「いや、居ない!」 「どこなんだ、まったく!」 「苛立つな!傷つけるなと厳命されている」 「わかっているさ!しかし、可愛い顔をして何度もやらかされるとな!」 「それだって『ごめんなさい』と笑顔で言われりゃ、許しちまうだろうが」 「確かになぁ」  そんな狼族の騎士達の声をミシェルは壁に張り付き聞いていた。  正確には旅館の建物の外の壁。ひさしとも言えない壁面の出っ張りに足をかけてだ。  小さな窓から外へと出て、壁面に張り付いて移動した。このまま頑張り続けていれば、彼らは建物の外へと捜索の手を伸ばすだろう。  そのときに裏をかいて、彼らのあとから脱出するという手段を考えていたが。 「も、限界……」  その前に足幅の半分ほどもないせまいところにしがみついていた、手足が震えて限界だった。  ずるりと滑り落ちて落下する。ここは三階で、貴人用の宿泊所だから天井も高い。そのまま落ちれば怪我は確実だ。  なんとか風の魔力で防壁を作って大けがだけは……と頭を抱えて身体を丸めるが。  とすっ……ふわり。 「え?」  衝撃はあったが予想以上に軽く、力強いものに受けとめられた。おずおず目を開けば、宿泊所の窓から漏れる薄明かりに照らされて、ローブのフードを被った、端正な顔、碧の瞳がこちらを覗きこんでいる。  横抱きにされた下からだったから、フードを目深に被った人物の顔を、はっきり見たのはこれが初めてだった。翡翠を思わせる瞳の色に、ローブからこぼれる髪は銀というより白だ。白髪ではなく、純粋にまっ白なんて珍しい。  耳が見えないから種族はわからない。狼族にしては大柄ではあるが、クリストフもこれぐらいの背の高さはあるから、帝国の近衛騎士達のうやうやしい態度からして、彼はかなり上位の貴族なのかもしれない。  その上位の貴族がどうして国境を越えてリンドホルムにいたのかわからないし、室内でさえフードを目深に被っているのも疑問だ。  外の壁に張り付いてほこりだらけになったミシェルは、とりあえずお風呂を使わせてもらった。ほこほこになりさっぱりして、監視係の騎士達に「騒がせてごめんね」と謝るのは心からではある。彼らも思わず頬を緩ませて「勘弁してください」というものや「そんな風に殊勝に謝って、またやるんでしょう」などと軽口をたたく者もいる。  とらわれの身ではあるが、ミシェルは自分を監視する騎士達に、気楽に話しかけて彼らを面食らわせた。  ミシェルとしては騎士達は仕事でやっているのだから、憎むいわれはないという考えだ。しばらく一緒にいるのなら良好な関係を築きたい。  とはいえ、それと逃げるのとは別の話だ。  まず最初の休憩の野原で「用を足すので恥ずかしいから、後ろを向いていて」と上目づかいに頼んだら、監視の若い騎士は「わ、わかりました」と赤面して後ろを向いた。  その隙に風の魔力をまとって駆け出した。  すぐに捕まったというか、いつの間に回り込んでいたやら、フードの男に細い身体をひょいと抱えられていた。  若い騎士に「目を離すな」と厳しい声で言ったので「誰だって見られたくないでしょ!」と反論したら、今度は騎士四人に背を向けて囲まれる体勢となってしまった。これでは逃げられない。  ちなみに若い騎士には「つい逃げたくなっちゃって、ゴメンネ」と上目づかいに謝ったら「じ、自分が油断したのです!こ、今度からはしっかり監視させていだたきますので!」と言われた。  今度こそと、風呂場から素っ裸で飛び出したら、マントの男にまた捕まった。「帝国はもう夏ではなく秋だ。裸で逃亡とは無謀だ」と説教され、くしゅんとくしゃみしたミシェルは。 「たしかに服無しではよくないよね」 「そもそも逃亡がよくないのだが」  もろちん風呂場番についてきた騎士達二人にも笑顔でゴメンネと謝ったら、彼らは「じ、自分達が未熟だったのです!」と逆に謝られてしまった。  普段から彼らは殿下と大変丁重に扱ってくれる。「御婦人じゃないんだから、僕は案外丈夫だよ?」と言ったのだが、馬車から降りるときも、貴婦人に対するように手を差し出してくれた。笑顔で「ありがとう」というミシェルに、若い近衛騎士などは毎度慣れずに頬を染めていた。  ミシェルは騎士達に“小悪魔殿下”と呼ばれていることは知らなかった。    ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇ 「ここで逃げられたとして、あとはどうするつもりだったのだ?」  宿の最上階の貴賓室に戻されて、サロンにてミシエルはローブの男と向かい合って座っていた。花や果実の見事な彫り物がされた飴色の卓には、温かなお茶が出されていた。  帝国風の飲み方は添えられたジャムをなめながら、お茶を頂くというものだ。花弁が残る感じに煮詰められた薔薇のジャムとお茶の香りがあわさって、なんともいえない薫香が口中にひろがる。  そのお茶に薔薇のジャムではなく、香りの高く強い酒をいれた男はミシェルに向かいあきらかな説教口調だ。 「馬もなくリンドホルムの国境まで徒歩でいくつもりだったのか?何日かかると思っている?」  そう言われると弱い。とにかく逃げようと考えていたが、もうすでにリンドホルムの国境からは遠く離れてしまっている。  それでも、ミシェルは苦しまぎれに「そこは親切な人に馬車に乗せてもらって……」と答えれば。 「甘いな。帝国とリンドホルムは現在断交している。そこに向かう馬車も近寄る旅人もいない。  そもそも、そなたの容姿は目立ちすぎる。銀狐の少年の手配書はたちまち辺境に回るだろうな。  逃げてもどちらにしても捕まえられるぞ」  フードの男の言うことはもっともだった。  たしかにミシェルは逃げるのに頭がいっぱいで、そこから先を考えていなかった。  一時的に逃れられたとして捕まっては元も子もない。それに逃亡をすればするほど監視の目は強まるし、なにより体力も魔力も使う。 「わかった、大人しくします。もう逃げません」  今のところはだけど……と心の中でつぶやく。「ようやく諦めたか」とフードの影の下、笑みを浮かべた男の形の良い口に、ミシェルはむうっとした。 「諦めてなんかいません。クリスは必ず僕を助けにきてくれます」  それも信じてはいる。だから逃亡を続けたのは、追い掛けてくるクリストフと合流出来るのではないか?と淡い期待もあったのだ。  ただ、もう一つの可能性にもミシェルは思い当たっていた。フードの男の口許の笑みが酷薄なものに変わり開く。 「ずいぶんとあの銀狼を信じているようだが、あちらは追っ手一つこちら差し向けていないぞ」  だからミシェルは見捨てられたとそう言いたいのだろう。 「クリストフは賢明で慎重だからね。僕を助けたくても動けない事情があるんだ。今さら気付いた僕もだけど。  帝国との国境が入り組んでる白の森で戦争状態となったとたんに、海から襲ってこられるような隙は見せられないよ」  タイテーニア女王国の動きはクリストフが報告を受けた席に、ミシェルもいたから知っている。女王国なんて言っているが、あの国が大変好戦的なことも。海賊国家なんて陰口もあるぐらいだ。元々そういう成り立ちではあるけど。 「白獅子の女王のこともわかっているか。可愛い顔をして、なるほどあの銀狐の参謀の息子だな」  その口ぶりはまるでミシェルの母を知っていような口調だった。彼が高位の帝国貴族ならば、どこかの国の夜会で話したことがあるかもしれない。母は父の名代として国外に出ることも多い。 「近衛騎士達の態度からして、あなたがかなりの高位の人物とわかった上で交渉するけど、このまま僕をリンドホルムに戻してくれれば、帝国とのことは荒立てずに不問とします」 「ほう、そなたは今のところ扱いは一応“客人”だが、人質同然であることをわかっての強気の発言かな?」  たしかにミシェルの今の身柄は、この男の生かすも殺すも自由だろう。いきなり殺されるとは思わないが、三度の脱走で猿ぐつわをかまされて後ろ手に縛られたっておかしくはない。  今のところはお風呂に入れられて、こうしてお茶を飲んでいる。大変紳士的な態度だけど。 「そちらこそ僕を人質にとる意味はわかっている?  リンドホルムだけじゃない。サランジェだって黙っていないよ」 「帝国とサランジェとのあいだにはゲレオルクの黒い森が広がっている。いくら勇猛な金獅子の大王も、また大公殿下の知略も、ひととびに森は越えられまい?」  たしかに北の大国である帝国と、大陸でもっとも古く力あるサランジェがいまままで直接激突しなかったのは、地理的環境があった。ゲレオルク一国と黒い森を挟んでいるという。 「確かに父様は僕を愛してくれているけど、国を危うくしてまでは無茶なことはしない。母様ならなおさらだ。  だけど“なにもしない”人達でもないよ」  戦争以外にだって外交に交渉の手段はいくらだってあるのだ。それに長けているのが母大公レティシアだ。  男が熟考するかのように押し黙るのに、ミシェルは続ける。 「それにクリスは必ず僕を助けてくれる。だから僕は“そのとき”のために待って、体力を温存するよ」 「ずいぶんと己の夫君を信じているのだな」 「愛しているんだもの。自分の伴侶を信じなくてどうするの?」
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