第五話 秋の帝都

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 「最大級のノロケを聞いたな」と聞いて損したとばかりの男の苦々しい口調に、ミシェルは微笑んだ。  愚かな逃亡劇をくり返すより、今はクリストフを待って、気力も体力も魔力も万全に整えておくべきだろう。  そう気付いたのは目の前の男の説教があったからだが、そのことには感謝している。が、交渉の手は緩めない。これも母の教えであるが、相手の考える暇を与えずたたみ込むように……と。 「それで僕をリンドホルムに返すつもりは?」 「それは私では判断できない。冬の都におられる陛下の指示を仰がねば」  その答えもなんとなく予想はしていた。帝国の皇帝にはすでに早馬で知らせが行っているだろう。自分を帝都に連れて行こうとしているのも、おそらくその皇帝の意思だ。  リンドホルムからずいぶん離れてしまうな……とミシェルは内心でため息をついた。    ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇  スタニスラワ帝国、冬の都ヴェースチ。  冬の都という名は歴代の皇帝が秋から冬にかけてこの都で過ごしたからだ。現在は年中通して、皇帝はこの帝都にいるが、冬の都という名はそのままとなっている。  その冬宮殿を中心とした都は、高い壁に囲まれた石造りの重厚で壮麗な建物が並んでいた。さすが北の貴婦人と呼ばれるだけあると、ミシェルは馬車の窓から眺める。  冬宮殿と呼ばれる帝宮は白い大理石と金泥で作られた、サランジェの王宮を思わせる様式だった。  そういえばこの都をつくった中興の祖である皇帝ガヴリイルは、領土ばかり広い北の辺境の田舎国と一つ下に見られていた帝国をおしあげようと、大陸最古の歴史を持つサランジェの王宮にならってこの帝宮をつくりあげたと聞いた。  それも元のサランジェ王宮よりも、自国が偉大だと示すために、国庫を傾けてまで巨大な宮殿を作り上げたと。  その話のとおり宮殿はどこもかしこも大きかった。神殿のように高い天井に、幅の広い回廊。  これでは宮殿内の移動にも馬を使ったほうが良さそうだ……なんて、冗談がミシェルの頭に浮かんだ。ようやく辿り着いた目の前の、玉座の間の両開きの扉が開かれる。鮮やかな赤の地に、金泥でこの国を象徴する草花の縁取りとそれに囲まれた虎の姿が描かれていた。  そういえば、この国の皇帝は……とミシェルは、これまた広大な玉座の間。深紅の絨毯を歩きながら思う。  地平線が見えそうなとは大げさだが、遠くに五段高いきざはしの上。黄金の玉座には誰の姿もなかった。  ミシェルがきざはしの前にたったところで、あとから皇帝がはいってくるのか。それとも虜囚の王子だ。空の玉座に一礼させられて、それで終わりか?とミシェルは考えたが。 「え?」  ミシェルの前を歩いていたマントの男が、さらに足を速めた。中にはいるときは玉座の間でさえフードを被っているのか?とおもったけれど、彼はそれを後ろへと落とした。  純白の真っ直ぐな髪が露わにる。その頭の上にあるのは尖った狼の耳ではなく、丸い耳だった。  だが、獅子のものではないと父王で見慣れたミシェルにはわかる。後ろは真っ黒な耳の中央に白いはんてんがある。  完全にマントを脱ぎ捨てた男の尻には、白に黒の縞の尻尾が揺れる。  呆然として歩みを止めたミシェルを尻目に男は玉座へと歩み寄り、大股できざはしを昇るとどかりとその黄金の椅子に座り、長い足を組んだ。そして、翠の瞳でこちらを睥睨(へいげい)して口を開いた。 「余がアルダリオン・ヴァレンチノヴィチ・ポルドニコフである。ようこそこの帝宮にまいられた。  歓迎しよう、ミシェル・エル・ベンシェトリ殿下」  「お初にお目にかかります……ではありませんね。アルダリオン陛下」とそう返すのが、ミシェルにはやっとだった。    ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇  ミシェルに与えられた部屋は、広い寝室に居間(サロン)つきの豪奢なものだった。白に金の色で統一され、花や小鳥の意匠がところどころにちりばめられた部屋は、サランジェの後宮の自室を思わせた。  本来なら懐かしいと思うべきだろうが、ミシェルの心には星の城(ヴィオ・ラクテ)こそがもはや我が家だ。クリストフと暮らしていた居室。  秋になれば早くも火がいれられる大きな岩を組んだ暖炉に、お気に入りのトナカイの模様のクッション。ならんで腰掛けた長椅子には色とりどりのはぎれを組みあわせて、白の森の針葉樹の木々を幾何学的に表した、女達の手仕事の結晶のような見事な布がかけられていた。  あの長い冬を払拭するように色鮮やかで温かな布達が懐かしい。早く帰りたいと思う。  そのためには交渉しないといけない。 「まさか、スタニスラワ帝国の皇帝陛下が白の森にいらっしゃるとは思いませんでした」  ミシェルが部屋に入ってすぐにアルダリオンがやってきた。突然の皇帝自らの来訪に驚いたが、こちらから謁見を申し入れる手間が省けた。 「私もまさかあのような場所に、噂の銀狐の殿下がいるとは思わなかった」  卓を挟んで二人向かいあってお茶を飲むのは何度目か。ただし目の前の男はいつも目深にフードをかぶっていて、その顔は良く見えなかったけれど。  北の帝国の皇帝が代々虎族であることはミシェルも知っていた。大陸の王侯のほとんどの獅子族の中で、皇帝が虎族であることが、北に位置するという地理的な立場とともに、この国を大陸中央の覇権争いから遠ざけていた。  とはいえ、この帝国が北の大国であることは間違いなく、母大公レティシアも島国のタイテーニア女王国とともに常に警戒すべきものとしていた。  眠れる虎が目覚めて、もし、冬に凍り付かない南の領土を求めたなら……と。 「どうして白の森にいらっしゃったんです?」 「率直だな」 「回りくどい言い方をしたところで質問は同じです。陛下はあの場にいたのですから」 「たしかに私はあそこにいたな。リンドホルムの黄金を狙ってと言ったらどうする?」 「ありきたりですね」 「手厳しいな」  帝国がリンドホルムの領土を望むのは、そこに莫大な金脈があるからだ。黒の森のゲレオルク国にしても、海をはさんだタイテーニアにしても、みんな白の森の黄金を狙っている。 「白の森はリンドホルムの領土です」 「そう主張しだしたのは三代前の大族長からだ。その前は我が帝国に毎年トナカイの毛皮を朝貢し、従属していた」  国王と言わずに大族長という。帝国はいまだリンドホルムを国としては認めていないが、そんな侮蔑の言葉にいちいち怒るようでは、交渉は出来ないと母レティシアの教えが浮かんだ。  怒った方が負けですよと母は言っていた。 「リンドホルムが帝国から独立し、国を興したのは事実です。たとえ国の歴史が浅かろうと、国は国です。  あなたがリンドホルム領内に入ったことを僕に見られて、慌てて帝国内に戻ったように」  ミシェルが淡々と告げれば、痛いところを突くとばかりにアルダリオンが眉間にしわを寄せる。 「さて皇帝陛下。僕をリンドホルムに帰して頂けませんか?  冬の都へのご招待ありがとうございました。色々と珍しいものも見られましたし、よいお土産話も出来ました」  先の宿ではアルダリオンは帝都で皇帝の判断をあおがねばならないと言った。それが本人だったとはミシェルにも意外であったが。  その皇帝本人の意思をミシェルは確認した。  自分をこのままリンドホルムに返し、なにごともなく済ませるか。  このままこの帝都に留め置いて、リンドホルムとさらにはサランジェともことを構えるつもりか?と。 「殿下はまだ帝都にいらっしゃったばかりだろう?もう少しゆるりと滞在なされるとよい」  アルダリオンはそう告げると、ミシェルの言葉も待たずに席を立って出ていってしまった。 「はぐらかされちゃったか……でも諦めないぞ」  ミシェルは不満げに唇をとがらせて、茶菓子のスグリのジャム入りのクッキーをかじった。
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