金獅子の王子と林檎姫

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 ただのお戯れならば……という言葉に胸に響いた。  たしかにもう会わないほうがいいかもしれないと、ランベールの足は一月遠のいた。  だが、結局あの真っ直ぐな黒髪に結ばれた赤いリボン、自分を見上げる黒く濡れた星屑を散らしたような瞳が忘れられず。  気がつけば馬を走らせていた。  当然、従者は振り切ってきた。きっとあとでまた怒られるだろう。  小さな畑と林檎の木が数本生えた家。小路を馬で行けば、空のカゴをかかえたシエナが飛び出してきた。 「ジル様!」 「シエナ、会いたかった……」  そう、会いたかったのだと自然に口に出ていた。馬から飛び降りて、娘の細い身体を思わず抱き寄せていた。その頬が林檎のように紅くなるのに「す、すまない」と身体を離す。  そして決意する。  畑の裏にある小さな森。そこにシエナを誘った。人目のない木々に囲まれてランベールは狼の耳と尻尾をとった。  獅子の耳と尻尾を見てシエナが息を呑む。 「いままでだましていてすまない」 「いいえ、いいえ、お話してくださって、ありがとうございます」  言いながらシエナのほおにぽろぽろと涙が流れる。「どうして泣く?」と問えば。 「もう、お会い出来ませんよね?殿下とわたしとでは身分が違いすぎる」 「そんなことはない。俺はシエナに会いたくてここに来たんだ。シエナを……」  そこでランベールはまた一つ決意する。 「シエナ、三日後に城から迎えの馬車を出す。仕度もなにもかもこちらでするから、ただ君は来てくれるだけでいい」 「殿下?」 「本当は、このまま君を城にさらいたい。でもそれでは意味がないんだ。  君が嫌ならば迎えを断ってくれていい。だけど、君から俺に会いに来てくれたなら、そのときは」  ランベールは少女の小さな手の甲にそっと口づけた。    ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇  花嫁選びの夜会を開くと宮廷大臣に告げれば、三日後という短い期限だというのに、彼は大喜びで飛びついた。もちろん、あらゆる家の貴族の令嬢達も色めきたったと噂話で聞いた。  ランベールは三日間を静かに過ごした。これは一つの賭けといえた。皇太子と一介の騎士の娘。おとぎばなしのような幸せな結末のあとを、みんな考えたことはあるだろうか?  きっとシエナには苦労をかける。それでも自分が守るとランベールは決意していた。一時的な恋に浮かれて気の迷いだと、周りはいうだろう。父と母はおそらく味方してくれるだろうが。  その前にシエナの意思だった。ほんの数回会っただけ、それでも自分は一月会えないで会いたいと思い、彼女は自分の身分を知ってもう会えないと涙してくれた。  そして、真実も知ってなお、彼女が城からの迎えの馬車に乗ってきてくれたなら……。  このまま空の馬車が戻って来ることが本当は怖い。初陣の時でさえ、こんな風に焦燥を胸に抱えたことはなかった。  それでも、それが彼女の答えというならば受け入れよう。彼女の祖父は綺麗な思い出であるうちに……と言っていた。たしかに後戻り出来ないほどの恋情を育ててから、自分の正体を明かしたのでは卑怯だろうと思った。  でも、来て欲しいと願っている。  城の大広間。華やかに着飾った花の中に、一目でその姿がないことにランベールは落胆した。  だが、次の瞬間大扉が開かれて、現れた姿に目を見開いた。  艶やかな黒髪に赤いリボンの代わりに、今夜は赤い宝石でつくられた薔薇の髪飾りを、思ったとおりに白いドレスが良く似合っている。レースと薄物幾重にも重ねた花開くようなそれが。  ランベールは脇目もふらず真っ直ぐに彼女に歩み寄って、その白い手をとった。そのまま踊り出す彼に、慌てて楽団の指揮者が棒を振り下ろしたが、知るものか。心の中でワルツは鳴っている。  見つめ合い滑るように踊り出す。黄金の大広間、周りに何人いようとも関係ない。ランベールにとっては、目の前にいるただ一人が、今の世界だ。 「来てくれたんだな」 「はい」  それだけで言葉は要らなかった。二人は踊り続け、そして、ランベールはシエナの手を引いて広間を出た。誰も追ってくることはない。  夜の庭園。噴水の音は恋人たちの睦言を盗み聞きされないためだなんて……少し前の自分ならば少しも雰囲気など理解できなかっただろう。  だが今は、たしかにありがたいと思う。 「本当は来るのを最後まで迷いました。わたしなどがお城に行っていいのかと、でも……」 「シエナはこうして来た。俺だって一月……もう会わないつもりで、でも会いたくて馬を走らせてしまった」 「殿下……」 「ランベールでいい」  噴水のそば、刈り込まれた植木に隠れるようにして、ランベールはシエナを抱きよせて、そして唇を寄せようとした。  ヒヤリとしたものを背中に感じたのは、子供の頃から怠ったことのない鍛錬のおかげだ。それに獅子族としてのカンというべきか。  身を離さなければ、首の血管を切り裂かれていただろう。頬にちりりと熱い感触が走った。たらりと流れる血の感触をどこか遠くに感じる。痛みはなかった。  ただ、夢のように白い小さな手に握られた銀の短剣を見ていた。それが今度は自分の胸に打ち込まれようとするのを。  これも受けとめたのは完全に身体が勝手に動いた。細い手をねじりあげて、からりと短剣が落ちる音。 「なぜだ!?」 「…………」  彼女は無言で、今度はドレスの長いスカートの下から、蹴り上げてきた。腹を蹴り上げられるのを後ろに下がり避ければ、太ももにあるガーターに差し込まれていた、小さな暗器が投げられた、それも身を沈ませて避ける。  それでも相手からは目を反らすことなく、白いスカートが夜の闇に翻って、駆けていくのが見えた。重い布は邪魔とばかり、ドレスは引き裂かれて投げ捨てられた、下着姿で駆けていく白い影。  呆然と見送る……ことはしなかった。胸に湧き上がったのは怒りなのかなんなのか「馬を用意しろ!」と異変をようやく察して駆け寄ってきた近衛兵に怒鳴っていた。    ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇  宵闇に浮かぶ白く駆ける姿を追い掛ける。  驚いたことに馬で追い掛けてなお、追いつけない。  風の魔法だろうことはわかっている。母であるレティシアもよく使う。またミシェルも。  狐族はもとから俊敏だ。魔力で補助すれば、一時的にでも馬と同じ速度で駆けられる。  それも限界はあるが。  行く先はやはり、あの小さな畑と林檎の木のある家だった。たとえ、姿を見失ったとしても、真っ先に捜索される場所だろうに、どうしてここに真っ直ぐ帰ったのか?とランベールは思ったが。  だが、家に飛び込んだ姿を追い掛けて入って、その光景に息を呑んだ。  元騎士の祖父と祖母……いまとなっては本当にそうだったのかわからないが、二人の死体が転がっていた。毒杯をあおったのか、口から血を流した姿で。 「お爺様!お婆様!」  その嘆きのさけびは本当だった。そして、涙を流し、ガーターに残っていたダガーの一本を自分の喉に突き立てようとした。  決意とか覚悟もない。まるで機械仕掛けの人形のようだった。  まるでそうすることが当たり前のように。  ランベールは白い喉にダガーが突き立てられる寸前で白い手を掴んだ。そして、その黒い瞳をのぞきこんでゾッとする。  虚無だ。  そこにはなんの感情どころか、なにも映っていないようだった。まるで心を無くしたように。  きっとこの手を離しても、別の手段でこれは命を断とうとする。それも自分の意思ではない。仕掛けられたものだと直感した。  今、目の前に転がる二つの遺体もまた、定められたように毒杯を煽ったに違いない。  もしかしたら暗殺が成功しようと失敗しようと、彼らは死ぬように定められていたのか?捨て駒そのものではないか。  死なせたくないと思った。死なせてたまるかと、輝きさえない黒い深淵のような瞳をのぞきこんで、ランベールは思う。 「まだお前の任務は終わっていない。俺は生きている」  その言葉に黒い瞳にゆらりと意思がよみがえる。ランベールは続ける。 「お前が暗殺に失敗したから、お前の祖父母は死んだんだ。俺が憎くないのか?」 「殺して、殺してやる!」  その言葉とさけび、白い手が己の首元に伸びてくるのに、胸がひき裂かれるように痛んだ。だが、同時にほの暗い歓喜がわく。  これでこの存在は死のうとはしない。自分を殺すまでは祖父母の敵を討つまでは。  暴れる身体を押さえつけて、自分の首元に巻き付いたクラバットをしゅるりと解いて、猿ぐつわをかませた。己の肩のマントを外してその細い身体を包みこんで肩にかつぐ。  そうして、再び馬上に。なにか物言いたげな護衛の近衛達にも答えず王宮へと戻った。    ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇  そして向かったのは、自分の寝室。寝台にマントにくるんだ身体を放り投げれば、マントから抜け出した身体は猿ぐつわを自ら解いて、そして寝台から飛び降りようとする。  その身体を上からのしかかり押さえつけた。「離せ!」とさけぶ。最初の大人しい印象とは裏腹に、ずいぶんと元気がいい。  だが、油断は出来ない。ここから逃げ出して一人となれば、また、あの不気味な暗示が発動して死のうとするかもしれない。使い捨ての道具のように、そんなことはさせない。  ならば、それが発動しないぐらいの激しい感情を与えよう。今、黒い瞳に燃える炎にやどる憎しみを。己のそばに常にいて命を狙わずにいられないように。  寝台の上に組み敷いて、下着の胸をはだけてランベールは目を見開いた。雪のように白い胸は平らで膨らみはない。  それにクスクスと組み敷いた相手はおかしそうに笑う。そして暗く燃える瞳で「わかったならば、殺せ!」と言った。  今度はランベールが声もなく口の両端をつり上げる番だった。意外な反応に、相手が怯えたような顔をする。そんな表情さえも良いと思う。あんな、死のうとしたうつろな顔より。  そして、その紅を塗らずとも赤い唇に口づけた。大きく黒い瞳が見開かれるのをランベールもまた、目を閉じることなく近づきすぎてぼやけた視界で見つめ続けた。身体の下の細い身体はもがき、そして、一旦顔を離す。  ランベールの唇から血がこぼれた。だが、彼は構わずまたシエナに口づけた。血に濡れた舌をその口中に割り込ませて、からめとればもがく身体の抵抗が徐々に弱々しくなる。  そうして、白い首筋に己の血で線を引くように滑らせる。  「狂ってる……」とそんな小さなつぶやきに、胸のうちで「ああ」と答える。  最初の出会いよりも、つい先ほどまでの舞踏会での己の浮かれ具合さえ馬鹿らしくなるほど、今のランベールの胸の中には激情が燃えていた。己の中にこんな見境のない感情があったのか?と。  死のうとするシエナ。あのうつろな瞳に許せないと思った。自分を置いて逝くことなど。どうしても生きろと。  男だと知ってなお、この執着に揺らぎはなかった。ならばさらに、これからの行為は屈辱となって、彼は自分を憎むだろう。  自分を殺すまで死なないと。  白く薄い平らな胸、祈るように己の額をおしあてて、ランベールは声に出さず繰り返した。  俺を憎んで生きろ……と。
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