第一話 朝食には毒林檎

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 だが、間一髪で王子はそれをよけた、その白い頬に血が伝うのをシエナは見つめる。  相手の腹を狙い膝を繰り出す。避けられるのはわかっていた。ひるがえるスカート。ガーターのなかに仕込んでいた暗器を投げる。それもひょいと金色の巻き毛が残像をひいて避けられる。  シエナは駆け出していた。重い絹のドレスは邪魔だと、短剣で布一枚ひき裂いて投げ捨てる。  暗殺に成功しても失敗しても、その後のことを誰も教えてくれなかったことに、シエナは今さら気づき混乱していた。  それで終わりだと思っていたからだ。  なにを?  なにが終わりだというのだろう?自分はこうして息をしていて、風の魔法をまとい全速力で駆けている。後ろから追い掛けてくる気配をひしひしと感じながら。  そして、向かったのは小さな畑に小さな……偽りの家だ。そこが帰る場所とは思えない。なのにそこしか向かう場所がなかった。  「お爺様!お婆様!」と役でしかなかった者達の名をさけんだのは何故なのか?自分さえ驚愕していた。  なにに?  一度きりの機会、そのときを待って相手を殺して、そこから先は誰も教えてくれなかった。  そして、その後も彼らは生きているのだろうと思いこんでいた。だが、彼らは毒杯をあおったのだろう。物言わぬ遺体となっていた。  とたんにシエナのなかが空っぽのうつろとなった。  手は自然に動いた。自分のものであって、自分のものでないような。  ガーターに残っていたたった一本の、長い針のような暗器を己ののど元に持っていって突こうとした。  そんな己の手の動きをぼんやりと見ていた。  だが、その手を止められた。阻んだのは、先ほど自分の凶刃をかわした若い男の手だ。金獅子の王子の。  「任務は終わっていない」低い声で告げられて、意識が引き戻された。そうだ、目の前の男を殺していない。  さらには「お前の祖父母を殺したのは俺だ」とも、同時に胸にわいた炎のようなこれはなんだろう?  暗示によって作られた家族だ。そのはずだった。  六年ともにいた。小さな畑を耕して、林檎のパイを作り笑い合っていた。真夜中の訓練さえも、そんな日常のなかに組み込まれて、シエナはそのときが来なければ永遠に、この日だまりのような時が続くと思ってなかったか?  あれは暗示。でも暗示だからこそ、演技ではなくそのときは気持ちは本当だったのだ。いつわりでも温かな家族、温かな家。優しくも厳しい祖父に、常に優しい祖母。  暗殺が終わったそのあとのことは、誰も教えてくれなかった。  彼らもシエナの暗殺が終わったあとのことを話さなかった。  もしかして、初めから決まっていた?  シエナがこのときの一瞬のために暗殺者にされたように、彼らもそんな駒だったのか?  同時にわきあがったままの胸のなかの灼熱のなにかをシエナは持てあました。行き場のないそれをぶつける相手は目の前の男しかいなかった。 「殺して、殺してやる!」  自分でも聞いたことのない声だった。男の顔が一瞬痛みを堪えるようにしかめられた。それにさえ苛立ち、男の首に手を伸ばせばそれをひとまとめにつかまれる。  純粋な力となれば男に敵わないのはあきらかだった。クラバットで猿ぐつわをかまされて、マントに包まれる。どんなに暴れても自分を肩に担いだ身体はびくともしない。  馬で運ばれて寝台に放り込まれた。ここがどこの寝台か?なんて考えていられなかった。  暴れる身体を押さえつけられて、下着の胸を暴かれて、男が目を見開くのにクスクスとあざとく笑ってやった。こんな笑い方、誰にも教わってない。何時だって善良な良い子であるように求められ、自分を暗示し続けていたから。  でもその暗示はもういらない。いや、もうかけ方なんてわからない。なんのための誰のための“良い子”なのか。  そのときが終わったあとのことを、誰も教えてくれなかったからだ。  「殺せ!」とやけっぱちにさけんだら、信じられないことに唇をふさがれた。噛みついたら一旦離れたが、今度は己の血で濡れた唇と舌を重ねてきた。  シエナは混乱した。男だとわかってなお、どうしてこんなことをするのか?おのれの口中をはいまわる血濡れた舌に恐怖さえ覚えた。  首筋から胸に男の唇が伝う。「狂ってる」と思わずつぶやいた言葉に返事はなかった。    ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇  身体中あちこちが痛い。  ここがどこなのか一瞬分からず、それが天蓋付きの寝台のなかだと気がついて、飛び起きたところで腰の鈍痛に顔をしかめた。 「起きたのか?」  寝台の横の椅子に座り昨夜、自分を散々好き勝手した男がいた。彼はすぐに立ち上がって、扉の外に控えていた見えない人物に二言三言声をかける。  すると盆ののせたなにかを運んできた。王子が給仕をするのか?と思う。 「朝食だ。食べろ」  寝台に置かれたのはミルク粥に果物の盛り合わせ、嫌みでもないだろうが林檎が花の形に見事に飾りきりされている。  フォークを握りしめて、目の前にある金色の眼球に突き立ててやろうとした。こんなフォーク一つだって暗器になる。目玉を突き破って脳まで損傷を与えれば即死だ。  だが、その手はばしりとつかまれる。ぐぐぐと膝元にもどされて、もう一度「食べろ」と言われた。  拒否してやろうかと思ったが「なにも食べなければ俺を殺すことも出来ないぞ」と言われて、その通りだと思った。  あいかわらず腰は痛いが空腹ではある。シエナは無表情に口許にミルク粥を運んだ。蜂蜜をたらされているのかほんのりと甘く温かい。無言で黙々と食べる。  正直、暗示がない今、どんな顔をしていいのかわからない。なんの“設定”もないままなんて、どうしたらいいのか途方にくれる。  粥を綺麗に食べて果物にうつる。花の形に切られた林檎をぱりぱりと食べながら「不用意だ」とつぶやいた。 「なにがだ?」 「一国の皇太子が得体も知れない民家で出されたものを食べるなんてだ」  自分が誘ったら簡単に林檎のパイを口にしたのだ。この王子は。紅茶もだ。  毒殺されたらどうするんだ?なんて暗殺者の自分が口にすることではない。しかし、なにか文句を言わずにはいられなかった。  むずむずする?なんだこれは?とシエナは眉間にしわを寄せる。 「俺には毒は効かない」 「そうだったな」  そんなことは知っている。獅子族には基本毒が効かない。彼らが大陸の王となっていくなかで得た特性であるとか、もとから王として祝福されたものだとも言われているが。  だから獅子を確実に殺すには、武器によって致命傷を与えるしかない。  果物まで綺麗に平らげれば、盆を手にランベールが立ち上がった。「行ってくる」との言葉にシエナは首をかしげた。 「このまま執務に向かう。昼も運ばせる。それまで眠っていろ。夕餉には帰る。一緒に食べよう」  夕ご飯?一緒に?この男と?と思っていると、返事なんか期待もしてないのか、そのまま行ってしまった。  朝ご飯は食べたが身体は確かにだるい。まだまだ休息を求めていると横になる。  暗殺に失敗して、そのあとのことなど教えられてなかった。殺されて当然なのに生きている。  もしかして、あの男は自分が目覚めるまで待っていたのか?皇太子が暗殺者にてづから朝食を運んでさらに寝ろと?昼食は運ばせて、夕ご飯は一緒に食べよう?なんだそりゃ。 「おかしな男……」  そうつぶやいて目を閉じた。
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