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第二話 晩餐には銀のナイフを飛ばして
次に目覚めると、昼近くだった。
コンコンと扉がノックされて、入って来たのは深緑の飾りのないジュストコール(アビ)を着た男だった。
褐色の髪を後ろになでつけ、黒い三角耳の中年の犬族の男は、侍従長のベルナールと名乗った。
昼食の用意をすると言われて、食欲がないと答えると、では軽いものをと返ってきて、食べないという選択はないらしいと胸の内でため息をつく。
「次にお着替えなさいますか?寝台にもお運びできますが?」と訪ねられて「起きる」と答えた。いつまでも寝ているのも腰だけでなく、身体中痛くなってきた。
身を起こし寝台から降りて、膝丈までのぶかぶかのシャツが、どう考えてもあの男、ランベールのものだと気付いて腹が立つ。朝食を食べている間にも気付かなかった、なんて……だ。
「どちらにお着替えなさいますか?」
侍従長がそう訊ねる。青のお仕着せのジュストコールを着た若い侍従が二人が入ってる。彼らが抱えていたのはトルソーで、一つはドレス、一つはシャツにベスト(ジレ)に膝丈の半ズボン(キュロット)男のものだった。
その問いにシエナは考えこんでしまった。
男とバレた以上、ドレスを着る必要はない。だが、生まれてからずっと女子の格好しか、したことはない。
だが、自分が望んでした姿ではなく、それしか与えられなかったからだ。暗示によって良い子供であり、善良なる娘になりきることを求められた。それだけだ。
では男子の姿になるのが正しいのか?わからない。 そうわからないのだ。今まで自分は人に言われるまま、与えられるままに行動してきた。今日のハンカチは若葉の刺繍か花の刺繍のものにするか?それぐらいは毎朝選んでいたが、決断というものはしたことはない。
黙りこんで考えてしまったシエナに侍従長が「こちらにおかけになってください。お茶をご用意しましょう」と目の前の小卓の前の椅子にうながす。シエナが腰を下ろせば、いつのまに用意したのかシャツ一枚の肩にふわりと軽いショールがかけられた。
ミルクをたっぷり、蜂蜜をひとたらしされたお茶に静かに口をつける。それをゆっくりのんでから、シエナは口を開いた。
「男の格好でいい」
あの男を殺すなら、動きやすい姿がいいだろうと思った。
出された昼食はふわふわのオムレットで、お腹は空いてなかったが、ついていた小さな甘いプディングまで完食した。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
昼を食べたあと、ぼんやりしていると「本をお読みになられますか?」と侍従長が何冊かの本を持って来た。「どれをお読みになられますか?」なんて言われたら今度も答えようないから、勝手に選んできてくれて助かった。
あの白い施設でも先生達に渡されたもの以外読んだことはない。小さな畑の家にも本なんてものはなかった。家事に畑と真夜中の鍛錬の日々だ。
だから、持って来られた本の一ページをめくって、シエナはこれはなんだ?と戸惑う。
物語だ。それは知っている。先生達に渡されたものにもあった。子供ならば誰でも知っている教訓めいたおとぎばなしに、少女が憬れるような王子様との恋物語。
それは子供らしく少女らしく装うために与えられた必要な知識だったのだが。
シエナが今、読んでいるのは、孤児院を飛び出した少年が宝島を目指す冒険譚だ。凶悪な海賊の船長に捕らえられて、苦労しながらも、その男達を出し抜いて財宝よりも尊いものを手にする。
そして少年は自由だ!と叫ぶ。
自由?自由ってなんだろう?
読み終わってシエナは考えた。
わからない。
ただ勝手気ままにふるまうならば、無軌道と変わらないではないか?あの白い施設でも、小さな畑がある家で祖父母役と暮らすようになってからも、シエナは規則正しい生活をしていた。
同じことをする繰り返しの毎日。同じ時刻に起きて朝食を食べて、白い施設ではその日決められた学習や訓練を、十歳のときからはあの小さな家で小さな畑の手伝いを、こまごまな家政をこなし、真夜中は訓練を。
それも少しも不快なものと感じたことはシエナはなかった。黙々と作業したんたんと過ぎていくものだった。たとえそれが百年変わらない毎日であっても、シエナは黒髪がまっ白になっても機械のように続けただろう。
今日一日のほうがよほど無軌道だと、シエナは顔をしかめた。朝はこの国の皇太子の給仕で朝食を食べ、そのまま寝台で寝こけて、起きてお昼、こうしてなにもせずに本を読んでいるなど。
シエナは明日からは朝にしっかり起きようと思った。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
夕食の前、本当に皇太子は帰ってきた。
朝食と昼は寝室でとったが、隣の部屋に少し大きめの円卓が用意されていて、そこで向かいあって晩餐となった。
最初の前菜はサラダ仕立てのテリーヌ。色とりどりの野菜の断面が美しい。シエナがそれをじっと見ていると、逆にランベールがシエナを見ていた。
「なに?」
「いや、男の姿も変わらず愛らしく美しいと思ってな」
「…………」
シエナは無言でテーブルに並べられていた銀のナイフをその秀麗な顔面に向かってなげた。それが届く前にばしりとランベールが受けとめる。まったく涼しげな顔で。
給仕のためにそばにいた侍従長ももったく動じずに、他の侍従が持ってきた新しいナイフをシエナの傍らに元あった通りにまっすぐ置く。
そして何事もなかったかのように壁際に控えた。
「その赤いリボンも良く似合っている」
「…………」
シェナの黒い真っ直ぐな髪は、後ろで一つにまとめられて赤いリボンで結ばれていた。まさか、この男が選んだのか?と思わないでもない。反発してそれを目の前で解くのも、子供の癇癪じみているとやめた。
「あなたは自由なのか?」
琥珀色のスープを飲んで、白身魚のポワレから、イノシシの煮込みへと移る。ナイフで切らずともとろりと煮込まれた肉が美味しい。
「自由とは?」
「わからないから聞いている」
シエナの問いにランベールは少し考える。
「そうだな自由でもあるしないともいえる」
「なんだ、それは」
はぐらかされたような気がして、むうっと口を引き結ぶとランベールがクスリと笑う。もう一度、ナイフを投げてやろうかと思ったが、肉料理に使ったそれを使うのは行儀が悪いと思った。ソースが飛び散るだろうし。
「俺は皇太子だ。はたから見れば、望めばなんでもかなうと思うだろうな」
「そうではないのか?」
「違うな。目の前の可愛い暗殺者一人に手こずっている」
今度はフォークを投げてやろうかと思ったが、残っているのはデザート用の銀のスプーンのみだった。スプーンでは致命傷にもならないだろう。
肉料理を食べ終えた二人の前には、真っ赤なシャーベットが運ばれてきた。口にいれると薔薇の香りにベリーの甘酸っぱさが広がる。
「王侯など不自由なものだぞ。外出一つするにも供は必要だ。わずらわしいと彼らをまけば、今度は近衛隊の隊長からのお小言が待っている」
そういえばこの王子は一人であの小さな家に来たなと思い出す。王族の身辺警護を担う親衛隊としては、それは青くなるだろう。
「身分があれば、それなりに不自由がある。国のことを考えれば、好き勝手など本当は何一つ出来ない。すれば国が滅びるのだからな」
「では、あなたは自由ではないのだな?」
将来王になるものが不自由なんて、こんなものか……と思う。
では、あの話は、やはり作り話だ。少年は自由だと叫んでいたけれど、すべてが思い通りになることなんてない。
「いや、自由と好き勝手は違う。それでも俺には選ぶことが出来る」
「選ぶ?」
シエナの頭には昼間のことがよみがえった。男子の服にするかドレスにするか、そんな簡単なことを考え込んだ自分を。己で決めることの難しさを。
「皇太子である俺は王になるだろう。だが、どのような王になるのか、どのような国にしたいのか。それを選択するのは俺だ。
大臣や参謀たちの助言はある。それでも決断するのは王だ。選択の責任は王にある」
「自由といいながら、なんだか重い岩のようだな」
「選択には結果がともなう。それが自分で決めたことならば、他者のせいには出来ない。自由というのはそういうことだと、俺は思っている」
「…………」
過去、自分で自分のことを決めたことなどあっただろうか?とシエナは今さら考える。誰かに言われるまま行動すればよかった。迷うことなんてなかったのに。
「とはいえ、これは受け売りの言葉だ」
「え?」
「父上のな。あの方の傍らにはいつも母上がいる。参謀たる母上の助言は的確ではあるが、冷徹だ。
それが最良と頭でわかっていても、人として王としての信念に従って、飛び越えた選択を父はするときもある」
「まあ、それで母上が文句を言いながらも、父の決定からまた策を練るのだけどね」と自分の両親を語る彼の口許には笑みが浮かんでいた。
シエナは当然両親の顔など知らないし、知りたいと思ったこともない。恋しいと思ったことも……。
だけどそれは自分の気持ちだったのだろうか?あの白の館で一番最初に求められたことは、泣かない聞き分けのよい良い子だった。そう暗示をかけられた。いつしか、暗示は自分で自在にかけられるようになっていた。
そうしてシエナは周りに命じられるままの姿を装った。良い子、大人達が愛する快活な子供、老夫妻の自慢の孫娘、そして王子が好む、野の花のような市井の娘。
だけど、今はその何一つ装うことが出来ない。すべての虚像ははがれて、ここにいるのはシエナという名の……何者だろう?
椅子に座り、床に足をついているのに、その足下がひどく心許ない気がした。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
夕餉のあとも、二人で同じ部屋にいた。隙があらば殺してやろうかと思っていたが、やはりランベールは手強く、手のだしようもない。自分から目を離して本を読んでいるというのに。
シエナもまた、昼間読んだ本を読み返していた。 話は面白い。だけど、少年の思いつきで行動する無謀さにはイライラはした。なにごともしっかり計画たてて周到に準備すべきだ。海賊の船長ともあろう男のまぬけさにもだ。なぜ、目立つような場所に鍵を見せびらかすように置いておくのだ。
「その本は俺も好きだ」とランベールが言った。
「子供の頃に読んで、今でも思いついたように読み返す」
「この少年は勇敢というより無謀だ。大人達はそんな子供にことごとくしてやられるマヌケぶりだ」
「それが痛快ともいえる。悪辣な海賊共が右往左往するのが滑稽ともいえるな。
蜂の巣を落として逃げ回るさまなんて、何回読んでも吹き出すだろう?」
たしかにあれはおかしかったとシエナは、思わず口許を緩めてしまう。ハッと気がつくとランベールがひどく優しい眼差しでこちらを見ていたのに、また無表情に戻ったが。
さて、寝ることになって隣の寝室へ。シエナは訊ねた。
「なぜ、あなたも一緒に寝るんだ?」
「ここは俺の寝室で寝台だぞ」
「暗殺者と?寝首をかかれるぞ」
「出来るものならするといい」
「…………」
ベッドの脇に立ち尽くしていたら、実力行使とばかり抱きあげられて、そのまま寝台に入ることになった。しかも、腕は解かれない。
「離せ」ともがいたが、太くて長い腕は離れず、結局あきらめて目を閉じた。
たしかに、こんな風に抱きしめられていては、密着してる男を殺せるはずもなかった。
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