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第四話 お茶会は規則正しく
物語の本の次は、この大陸の歴史が書かれた分厚い本だった。
当然、これも初めて読んだ。
シエナは自分が何も知らなかったことを知る。自分が知っていたのは、あの白い施設に小さな畑に家のみの世界。そして、今はこのサランジェの宮殿。
本から得られたのはこの世界は広く、様々な国が現れては消えて、大国にのみ込まれて、またその大国が分裂し……という気が遠くなるほど長い歴史と、広い世界がそこにある。
自分がいかに狭い場所で生きていたかを知った。
他の本も読んでみたいと言ったら、図書室に行くといいとランベールに言われた。この後宮内ならば自由に歩いていいと。
自分が逃げると思わないのか?と訊ねたら、「俺を殺すまで、ここを出て行けないだろう?」と不敵に微笑まれてむかついた。
手短にあったクッションを顔面に投げつけてやったら、顔は避けたクセに肩にはわざとあてて、床にぽとり落ちた。
なんでそばにあった花瓶を投げつけてやらなかったのだろう?と後悔した。柔らかいクッションなど、なんの意味もない。たんに自分が怒っていると相手に知らせるだけで、それに意味など……。
「すねるな」と言われて、すねるってなんだ?と思う。「侍従に案内させる」と言い残して、ランベールは執務に出ていった。
案内された図書室で、シエナは目に付いた本を片っ端から読んだ。歴史に地理、この世界にいる獣人達のこと、動植物に天文、数学。
図書室の片隅の椅子に腰掛けて、もくもくとページをめくる。
そして、世界は本当に広いのだと知る。色々な国があり、色々な人々が住んでいて、様々な考え方があるのだと。
同時にわかってしまった。
シエナは本を読む手を止めて、窓の外を見る。後宮の中庭、緑の芝生に石畳の遊歩道。真ん中には小さな噴水。それを取り囲む花々が咲く花壇。そんな光景をぼんやり眺める。
自分はわざと知識から遠ざけられていたのだ。
暗殺者として余分なことを知らせないために、先生も監視役の仮の祖父母も自分に必要以外のことを教えなかった。
一度きりの暗殺が成功しても失敗しても、そのあとのことを誰も教えてくれなかったように。
たぶん自分には、その後などなかったのだ。
手が勝手に動いたことを思い出す。死ななければという決意も、死に対する恐怖もなかった。ただ、自分の手が暗器で自分の喉を突き刺そうとするのを、呆然とみていた。
それを止めた大きな手。
任務はまだ終わっていない。
俺を憎め。
とたん空っぽだった胸の燃えさかった炎。わきあがった行き場のない激情を目の前に男にぶつけるしかなかった。
さらに彼は自分を寝台に押し倒して屈辱を与えた。男だと分かってもなお止まらなかったなんて、信じられない。
あの嵐のような行為をシエナはよく覚えていない。
そして、翌日からランベールを殺そうとして失敗し続けている。
当たり前だ……と冷徹な暗殺者としての自分が笑う。ろくな準備もなしに思いつきで、あの獅子を殺せる訳がない。
ただ一度の絶好の機会であった、舞踏会の夜さえ外したのだから。
そして、暗殺が失敗しようと成功しようと、自分にはその先などなかった。
「…………」
目を閉じれば毒杯をあおって床に転がっている、かりそめの祖父と祖母だった者達の姿がありありと浮かぶ。
シエナが家にたどりついたときには、彼らはすでに死んでいた。つまり自分が暗殺に成功しようが失敗しようが、彼らの死は決まっていたのだ。
自分の死と同じく。
だが、シエナは生き残ってしまった。いや、生かされている。
あの男に。
だからあの男を殺して自分も死ぬのか?
「それに意味はあるのか?」
思わずつぶやいた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「今日は殺さないのか?」
夕餉の時間となって、本に夢中になっていたシエナは、侍従にうながされて皇太子の部屋へと戻った。
ともに夕餉を食べる。……これも奇妙といえば奇妙だ。なんで、皇太子と暗殺者が一緒に食卓を囲まなければならないんだ?
普通なら自分は地下牢にでも放り込まれて、暗殺を依頼したのを誰か、拷問でも受けているところだろうに。
とはいえ、いくら責められたって、シエナには何一つ話せることはない。ただランベールを殺せと祖父役の老人から命じられただけだ。
そして、彼を暗殺することになんの疑問もためらいもなかった。
「殺して欲しいのか?」
「できればお前と共に生きたいな」
「わけのわからないことを言うな!」
シュッと投げたのは、デザート用の……木のスプーンだった。今日のデザートはショコラのムースだった。まだ食べてはいない。
ぱしりと受けとめてランベールはまじまじと木の匙を見た。かあああっとシエナの頬に血が昇る。木の匙ではどう考えても、殺傷能力などない。
「こちらを」と給仕の侍従が持ってきた代わりの木の匙を受け取り、ムースをもくもくと口に運んだ。ショコラは大人の味でほんのりほろ苦く、中に入っていたラズベリーのソースは酸っぱかった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
図書室からひと抱え借りてきた本を部屋で読んでいたら「良いお天気ですので、お庭でどうですか?」と侍従に勧められた。断る理由もなかったので、こくりとうなずく。
中庭に出された卓。オレンジの香りがするお茶とバターたっぷりのマドレーヌ。今日の本は戯曲だ。
架空の王家を舞台にしたものだが、まったく架空ではないことは、先に読んだ歴史書からわかる。色々な王家で実際あったものを土台にしたのだと。
内容は王位継承争いに不義密通に怨恨とドロドロだ。国の大事によくも恋愛にうつつを抜かした末に、裏切ったな!などと罵り合いをしている場合か?とシエナは冷静に思う。
結局みんな死んでしまうのだが、シエナが一番印象に残ったのは、主人公の王子でも狂乱のうちに亡くなる姫君でもない。
名も無い暗殺者だ。それも一番最初に出てくる。前王を殺し、報酬をもらう代わりに口封じに殺される。その死体は道ばたに置き去りにされ、身分も名も無い彼に、人々は見向きもしない。
使い捨ての道具……と考えて、シエナは床に倒れていた、仮の祖父母達の姿が浮かぶ。自分の手が勝手に動いて死のうとしたことも。
自分達もまた誰かの道具だった?
「こちらよろしいですか?」
そう問われてシエナは本から顔をあげた。シエナの返事を聞く前に、その人は卓を挟んで反対側の椅子に腰掛けていた。同時に侍従がお茶とマドレーヌを出す。
「その本は面白いですか?」
問われてシエナは首をかしげた。面白いのだろうか?最後までページをめくる手が止まらなかったのは、先が気になったからだ。
「よくも悪いことが重なるものだと思いました。誤解に誤解が、相手のためとやったことさえ最悪の結果をもたらす。それも不自然なく上手く出来ている」
作者が暗殺者ならば完璧な事故死や自然死を装えるだろうとさえ思ってしまう。「それが悲劇です」と銀狐の麗人は口を開く。「今度観劇に連れて行ってもらうといいでしょう」と言われて誰に?と思う。
歳はわからないというか年齢不詳だ。若い外見なのに妙に落ち着いている。しかし美しい銀狐だ。真っ直ぐで鏡のように輝く銀髪に、氷のような蒼の瞳。これ以上ないほど整った人形のような顔立ち。惜しむらくは、顔の半分を覆う眼帯だろう。だけど、白のレースに涙型の宝石がついたそれさえ、魅力がある。
そこでシエナは気付く。銀狐の姿は淡い蒼のジエストコート姿。つまり男性だ。この銀狐があんまり美し過ぎて、男女の性別など気にならなかったのだ。
しかし、男の銀狐。しかも、顔に眼帯なんて、この国では一人しかいない。
必要な知識しか与えられなかったシエナだが、だからこそ標的である王子とその周辺の知識は与えられている。父は金獅子の大王であり、母は銀狐の大公。
これは椅子から立ち上がり挨拶すべきか?と思ったが、相手が「そのままで」というのでシエナは座ったまま、この国の大公と対峙した。
まじまじと見ていると「私は殺しませんか?」と聞いてきたので、むうっとする。
「俺は確かに暗殺者ですが、標的以外を手にかけるほど不正確ではありません」
あの白い施設で散々教師達にたたきこまれたことだ。標的以外は絶対に傷つけない。周りに気付かれることなく、目標だけを仕留めることこそ最上であると。
「ふむ」と銀の麗人は細い指を頬にあてる。
「たしかに暗殺は隠して成してこそ暗殺。派手に虐殺などしては目的を遂行したことになりませんね。
それがあなたを育てた組織の教えですか?」
「…………」
訊ねられてドキリとしたが黙りこむ。この人はあの白い施設のことを知っているのだろうか?
「それで“俺”ですか?」
「はい?」
「さきほど、あなたはご自分のことを“俺”と言いました」
「それはあの殿下が“俺”と……」
そこまで口にしてシエナは気付く。
少女の姿をしていたときは、わたしと言っていた。
男性の一人称も色々あることは知っている。目の前の麗人のように私、僕、それにあの殿下のように俺。
いつのまにか真似していた。口調も……と唇を噛みしめる。
暗示が解けてシエナがシエナとして話すのに、それさえも自分はわからなかったのだ。だから、目の前の王子の一人称に口調もそのままに返した。
「よいのではないですか。どんな言葉でも、あなたが好きなものを使えばいい」
「…………」
目の前の蒼の瞳が、膝を合わせきちんとそろえた足を見ていることを、シエナは気付かずに考えこむ。
────わたしは一体どんな風に話せばいいんだろう?
そこで、わたし……と内心考えていることにシエナは目を軽く見開く。
たしかに暗示をかけていたとしても、ずっとそう言ってきたのだ。染みついている。
「あなたはあなたの好きなように話し、好きな服も着られるのですよ。どうふるまえば自分らしいのか、決めるのはあなたです」
決める、選ぶ。そればシエナにとっては、いまだに少し考えこんでしまうことだ。そもそも自分らしいなんて、途方もなく難しく感じる。
というより、大公殿下ともあろう方が、自分の息子の命を狙った暗殺者になんの用だろう?
まさか、ただの雑談をしにきたわけではないだろう?とシエナが考えたところで。
「あなたに一月の一時休戦を申し入れます」
その言葉にシエナは、その黒水晶の瞳を見開いた。
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