双子座流星群

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双子座流星群

 ––––泣かないで。  哀一色(あいいっしょく)で飽和した彼女の声は空気を震わせ、冷え切った夜を苦しくなる程の切なさで満たした。  時計の短針も十二の数字を既に超えており、時折聞こえてくるのは過ぎ去る車の音。あとは静寂だけ。  大きく吐いた息は真っ白な雲となり、空へと昇って行った。 「大丈夫。まだ側に居るから」  人気のない公園、ポツンと置かれたベンチ、そこで僕らは座っていた。語らいの限りを尽くした後に流れて行く、(いく)つもの沈黙の時間を(また)ぎながら。 「……ほら、顔を上げて」  ふと、(うつむ)く僕の肩に手を回し、まだ小さく、(しな)やかで、今にも壊れてしまいそうなか細い身体をそっと寄せる。  すると、僕らの間には何枚もの布があるはずなのに、肌と肌が触れ合っているような感覚がして、如何してか彼女の体温がはっきりと伝わって来た。  暖かい。  とても暖かい。  彼女の体温は確かに暖かいはずなのに、何処(どこ)か凍り付いてしまっているような、そんな不思議な温度だった。 「ねぇ。空、綺麗だよ」  耳元でそっと囁かれる。  きっと今、僕らの頭上には雲一つなく、淡い光が(まば)らに(ちりば)められた透き通る紺青の海に、猶予(たゆた)既望(きぼう)が青白い光を放ちながら浮かんでいるのだろう。  今ならきっと、そんな日常の風景さえもとても美しく、幻想的に見えるかも知れない。  けれど、悲しみと悔しさ、言葉に出来ない感情が入り混じった、この最低な気分では楽しめない。そして、そんな顔を見せたくもなかった。  何も言わず、首を少し横に振る。 「そっか」  吐息混じりに漏らされた言葉はきっと如何(どう)しようも無い暗さと重さが隠されている。  ただ、それを気付かれまいとするかのように、間髪入れず「でも、本当に綺麗だよ」と優しい声音(こわね)で言葉を掛け、少し距離を取ると、僕の手の上にそっと手を重ねた。 「ねぇ、覚えてる? 昔さ、よく星について教えてくれたよね」  言葉が鼓膜を震わせる度、その優しさは名前のない温かさへと還元されていった。 「あれが、オリオン座だよね」  彼女は空の星々に向かってもう片方の手で指を刺す。 「あの明るい星が、確かベテルギウス……だったかな。それで、あっちがおおいぬ座で、シリウス。あと、あっちはこいぬ座。星の名前は忘れちゃったけど」  もう何年も前のこと。とある流星群を二人で見ようとしたことがあった。もうその名前すら覚えていないのだが。  その時は、歳の割に流星群が見られる時間帯が遅かったせいで親の猛反対に遭い、結局見ることが出来なかった。 「それで、その三つを繋いで、冬の大三角形。だよね」  それでも僕が駄々(だだ)()ね続け、最終的にほんの少しの間だけだったが、星が綺麗に見える場所に連れて行ってもらい、一緒に夜空を望んだ。 「懐かしいね。……あの時のこと、まだ覚えてるよ」  僕は自慢をするかのように知っている星に指を刺して、色々と彼女に話をしていた思い出がある。それこそ、今となっては誰だって聞いたことあるようなことだったが、当時からすれば博識だったのだろう。  それに、彼女も楽しんでいるように見えた。 「––––そろそろだよ」  彼女が耳元でそう(ささや)いた頃には、午前二時が目前に迫っていた。  気付けば、空気は()て付き、空には青と黒が注ぎ足され、鮮やかさは消え出し、ただ暗いだけの世界へと塗り変わっている。 「もう夢が終わっちゃうのか」  彼女は(つぶや)く。顔色一つ変えずに、いつものように、そう言う。  だが、重なっている手が(かす)かに震えていることに気づかないはずもなかった。 「……私、実は嬉しかった。何もない真っ白な病室で、退屈なベットの上で、やりたいことが全然出来なくて、何も言えないままお別れするなんて、酷過ぎると思わない?」  そして、声も段々と(こも)り始め、震え出しているようにも聞こえた。 「だからね、こうやって話も出来て、とっても嬉しかった」  ふと、彼女の手に水滴が落ちるのが見えた。 「言いたい事も言えたし。やりたいことも出来たし。もう満足」  ゆっくりと彼女の方を向く。 「これで、生まれ変わりだって出来そうだし、天国に立って行けそう」  彼女は空を見上げていた。しかし、きっと空なんて見ていないのだろう。  口角は吊り上がり、頬も力み、目元さえ笑った形になっているにも関わらず、涙が頬を流れているのを見れば、それくらいのことが分からない(はず)もない。  なのに、僕は彼女に如何声をかけていいか分からなかった。彼女が必死に(こら)えているその思いを、覚悟を、決して無駄にしたくなかったのだ。 「だからね……、だから……」  けれど、その気持ちは単なる僕の心の残響(ざんきょう)なのかも知れない。ただ認めたくないだけかも知れない。 「……ごめんね」  彼女はこちらを向き、目を合わせる。  そして、その眼は、涙で一杯になっており、ただ純粋に僕だけを見ているように思えた。 「……ありがとう」  彼女がそう口にした瞬間、僕の中で不思議な感情が芽吹いた。怒りや憎しみに似た感情が。  そして、自らがそれが何なのかを理解するのに時間もかからなかったのだ。 「––––なんだよ、それ」  小さく(つぶや)く。 「何が『ありがとう』だよ。そんなこと全然思ってないだろ。思ってもない言葉で慰めようとしてんじゃねぇよ。……だったら、まだ本心で言った言葉で傷つく方が何倍もマシなんだよ」  口にしていく度に、自分の感情が募っていく。  本当の最後を、こんな言葉だけの、形だけの慰め合いで終わらせたくない。その思いだけで胸が一杯になり、喉まで出かけていた本音を無理矢理にでも吐き出していった。 「僕は、まだ話したい。最期の最後まで、ちゃんと……」  途端、彼女の手に力が入る。そっと、口を開いた。 「……全然こっち向いてくれなかったじゃん。全然話してくれなかったじゃん」  彼女の言葉から感情が溢れ出したその瞬間、一粒の光が軌跡を描きながら落ちて行った。 「私は、ずっと考えてた。どうやって傷つけないようにするか、って。どうやったら、立ち直って、また明日へ歩いてくれるか、って。……だからできるだけ我慢したの」  そして、次々に夜空を駆けて行く。 「私だって、言いたいことも、やりたいことも、まだ一杯あるの」  一つ流れ落ちて消えれば、また一つ流れ落ちる。絶え間なく流れるその流星群は、光の雨のよう。 「もっと一緒に居たいし、もっと話したい。色んな所に行って、色んなものを見て、遊びたい。まだ食べてないものも沢山あるし、まだしてないことも山ほどある」  彼女は声を枯らし、それでも尚本当の気持ちを叫ぶ。そして、耐え切れなくなった様子で、僕に抱きついた。 「……でも、出来ない。もう、叶わないの」  きっと僕が考えている以上に様々なことを考え、僕が思っている以上に沢山のことを思って、感じているのだろう。まだ言い足りない様子なのに、言葉が出ない姿を見ていると、それが痛いほど伝わってくる。 「……大好きだった。色んなものを私にくれたユウくんが、大好き」  その一言を最後に、ただ泣き声と嗚咽(おえつ)だけしか聞こえなくなった。こんな風に弱々しく、泣き(じゃく)る彼女の姿を見ていると、僕の体は勝手に動き、彼女を抱きしめる。 「大丈夫」  気付いた頃には、そう口にしていた。  すると、彼女の体から急に力が抜け、倒れ込むように全身を委ねる。そして、僕の胸元に顔を埋めた。 「……空、綺麗だよ」  (しばら)くの時間が流れ、そう声に出す。  彼女も、いつもの彼女に戻った様子で顔を上げ、一緒に空を見上げた。  双子座流星群。  まだ、止んでいなかった。 「……綺麗」 「うん、綺麗」  幻想的な風景に魅入(みい)ってしまい、流星群が止んだ後も何秒、何分、何十分と空を眺めていた。  ふと鳴った携帯の着信音でお互いに我に返り、相手の方を見ると、目がピッタリと合った。それが何となく可笑(おか)しくて、笑いが溢れてしまった。 「ねぇ、ユウくん。最後に()(まま)を聞いてもらってもいいかな?」 「何?」 「ちょっとこっち向いて」  言われるがままに彼女の方を向いた。すると、真剣な表情でこちらを見ている。それに合わせて、僕も少し気を締めた。 「今までずっと好きでした。けど、もうここで終わらせなきゃいけないから……。だから……」  見つ合うその瞳には色々な物が映っている。悲しみ、喜び、苦しさ、我慢、怒り、諦め、憎しみ、嬉しさ、そして、儚さ。そんな混沌を描いているその瞳に見惚れているほんの一瞬の間。  最後の流れ星が一筋の軌跡を描く。 「……目を閉じて」  何も答えず、目を閉じたその瞬間、唇が重なる。  たった刹那の間のだが、それでも何秒も、何十秒にも感じた。伝わってきたのは、切ない温度。彼女が生きた“証”。 「……じゃあね」 「……じゃあ、ね」  身体を離し、お別れの挨拶を交わす。  けれど、僕らの間を吹き抜ける風が冷たく、再び抱き合う。そして、ほんの少しだけ押さえ付けていた感情が溢れてしまった。  もう朝日が迫り来るのが分かり始めた頃、僕は彼女と満面の笑みを浮かべ、ちゃんとお別れをした。そして、彼女を残し、公園に背を向け、家へと向かって歩いて行く。  独りの帰り道、上を見上げ、夜明け空を仰いだ。  結局、僕はいつまで経っても傍観者気取りのまま、感情が溢れたとしても、何処かに冷静な自分がいて、素直になれない。一緒に泣き叫ぶことが出来たならば、もっと涙を流せていたら。そんな下らない後悔ばかりが全身を襲う。  このまま時間が進み、夜が明ければ、彼女はこの世から居なくなってしまう。  ––––全てが終わる。この数日間の夢が終わってしまう。  けれど、その夢の終わりには立ち会えないらしい。そんな事実に、ただ、理不尽と後味の悪さ、そして、霞んだ幸せな夢の思い出が残るだけ。  公園から離れていく一歩を踏み出す度、彼女との思い出が脳裏を過ぎる。辛く重い一歩を出しながらも歩き、気が付けばもう大分離れていた。朝日も顔を出していた。  夢の終わりを告げる光を全身で浴びたその瞬間、どうしても涙が抑えられなくなっていたのだ。泣き叫び、その場に崩れ落ちる。溢れゆく涙は朝日に照らされ、一瞬だけ輝きを放つと、アスファルトの上に落ちていった。  そして、彼女はこの世界から居なくなった。  明るく淡い色に変わり行く星空に、何処からか光が立ち上る。  公園のベンチ、そこに残されたのは、一粒の涙。
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