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合理、非合理、イマジナリー
しまむら
都合のいい存在が欲しくなるときがある。私のことを何でも理解してくれて、ちゃんと話を聞いてくれて、ここぞというときに私が望んでいる言葉を掛けてくれるような、そんな百点満点のパーフェクトな人間が。友人でも、恋人でも、肉親でもいいから、とにかく一人でも気の置けない誰かを、不意に求めてしまうのだ。気分が優れないときなんかは、特に。
高校から駅までの最短下校ルートを早足で踏みしめていた私の頭には、おそらく、そんな気持ちがくすぶっていたのだろう。目の前の曲がり角から、ジーパンをはいた背の高い男がにゅっと私の前に現れた。男は私に手を振った。
「よっ」
気さくに声を掛けてきたその男を見た瞬間、私はそいつが、いわゆるイマジナリーなフレンドであることを半ば確信した。だって、男と私は初対面のはずなのに、私はそいつのことを「知って」いたから。男の造形、風貌、仕草、服装、態度、声のトーン、微かに漂う体臭。男を構成するあらゆる要素に、どこまでも既視感があった。ただ、その既視感のどれも、いつ、どこで経験したものなのか思い出せない。男の細胞の一つ一つが、記憶のスポットライトに照射されるのを拒んでいるようだった。
私の右脳だか左脳だかが実在しない人物を作り上げてしまったことに対して、もちろん、驚きの念はあった。だけど、驚きながらも、私は今起きている事象を、案外すんなりと受け入れてしまっていた。なんとなく心のどこかで「私ならやりかねないかも」と思っていた。そいつを目にしたとき、むしろ自分に対する納得のようなものが芽生えた。私は目の前の男を生み出すべくして生み出したような気がした。
「なんだ、もう俺が誰だか分かってるのか。どうぞよろしく。俺は高橋」
高橋と名乗ったイマジナリーなそいつは、私の目を見てニヤッと笑った。
******
「ニンジン、豆腐、白菜……。へー、今日は鍋なんだ。え、でもサキの親帰ってくるの深夜だし、一人鍋じゃん。さみしくない? 一人鍋って」
土鍋に野菜を入れる私の手元を覗き込みながら、イマジナリー高橋が勝手にくっちゃべっている。
高橋は私の前に現れてから、家に帰ってくるまでの間に、「電車遅れてるね」だの、「今日、何か寒くない?」だの、いちいちどうでもいいことに反応しては私に喋りかけてきた。もちろん、人がいるところでは高橋の言動は全部無視した。高橋は私にしか見えないから、人前で私と高橋が喋ると、私一人が虚空に向かって語り掛けているという妙ちきりんな図ができあがる。そのことを分かっていながらも、人ごみの中でなお声を掛け続けてくる高橋に、私は少なからず苛立ちを覚えた。おまけに、高橋の口元には、どこかで見たような気色の悪い薄ら笑いがべったりと貼りついている。生田斗真似の端正な顔立ちが、不気味に吊り上がった口角のせいで台無しだった。舞台役者然とした気取った仕草も鼻につく。
要するに、私が嫌悪感を抱くポイントを煮詰めたようなやつだった。無視し続けても話しかけてくる高橋がうっとおしかったので、家に着く直前でダッシュして高橋を置き去りにした。これでも私は結構足が速い。家のドアに滑り込んで急いで鍵を閉めたところで、私は安堵のため息を一つ吐いた。ローファーを脱いでリビングに入ると、ソファの上に高橋が座っていた。
「おかえり☆」
「……ただいま」
考えてみれば、虚構たる高橋に、実在を想定したセキュリティが対応できるわけもなかった。高橋という、日常における特大の異物にめまいを感じながらも、とりあえず私は、いつも通り、弁当箱を洗ったり、洗濯物を取り込んだりした(制服から部屋着に着替えたり、化粧を落としているとき、高橋は私の部屋に入ってこなかった)。今は早めの晩ご飯を作っているところだが、やはり高橋がうろちょろしていて面倒くさい。
私の想像力よ、何でもっといい感じのイマジナリーフレンドを創ってくれなかったんだ。気に食わないやつにプライベートを侵食されて既に胃が痛いんだが。ただでさえ調子が悪いというのに。
「あんた、どうやったらいなくなってくれンの」
セラミック包丁でニンジンの皮をむきつつ、高橋に尋ねる。それを聞いた高橋は、「よくぞ聞いてくれました☆」と言わんばかりの笑みを私に向けた。気色悪いなあ。
「今サキが悩んでいることに気付けば、俺は消えるよ」
「は?」
「まあ、早い話、俺が生まれた理由に気が付けばいいってこと」
「は?」
何も早くないんだが。要領を得ない会話は嫌いだ。はっきり言え、はっきりと。何事も。皮を剥いたニンジンを輪切りにして鍋に放り込む。
「悩みなら、いつでも、いくらでもあるよ。最近、学校の方で色々忙しくて、勉強があんまりできてないこととか」
まあ、直近の悩みはお前がまとわりついてくることだけどな。
「んー、半分正解だな」
高橋は両手を広げる大仰なリアクションで私の回答を評した。こういう何気ない高橋の仕草が、本当に癇に障る。
「ヒントその一」
高橋は人差し指をピシッと立てた。
「サキの悩みは、サキがストイックなことと関係してる。他のやつなら悩みにならないようなことかもな」
「へー、あたしってそんなにストイックなんだ」「ちょっと変な方向にな」「やかましわ」
野菜を入れた土鍋が煮立ってきた。コンロの火を切って自分の分を器によそう。高橋の分はもちろんないし、そもそもこいつは食べ物を口にできないだろう。手を合わせてご飯を食べようとしたが、高橋が私の対面に座っていた。
「ねえ、あたし、食べられるところ人に見られるの嫌だからどっか行って」
「つれないなあ、俺はサキから生まれたんだぜ。そんな気にすることないじゃん」
「こんなドラ息子はうちの子じゃありません」
「勘当されちまったよ、かなちいなあ」
軽口をたたきつつも高橋は席を立つ。高橋は「かなちいかなちい」と赤ちゃん言葉を連呼していた。
……こいつ、本当に私が創り出したんだよな。私もつくづく頭がおかしくなったもんだ。久しぶりに心療内科に行った方がいいのかも。
「そう言えば、あんた、どこまで私のこと知ってんの?」
リビングのドアノブを掴んでいる高橋に声を掛ける。高橋は首だけでこっちを見て、そして、またニヤッと笑った。
「サキが寝る前に、お人形さんとお話してることは知ってるよ」
「さっさと出てけ」
高橋は肩をすくめて部屋を後にした。
細く、長い呼気が歯の隙間からこぼれる。両肩が重たく、指先が冷えている。これは、疲れだ。ストレスだ。困憊だ。高橋の出現で随分と予定が狂ったが、最近は立て込んでいて忙しいのだ。ご飯を食べたら、勉強しないと。
秋も深まっていないのに底冷えしている身体を温めたくなって、鍋の具材をかき込んだ。
******
私はハムスターの人形を右手で持って、その人形に声をあてていた。
「どかーん、まちをはかい! ドゥーン、ドゥーン!」
バーテンダーのシェイカーみたいにハムスターを振り回して、目の前にある街並みを私は次々に薙ぎ払う。
「やめないか! そんなことをしたら君のお母さんが悲しむぞ!」
父がアテレコした戦隊ヒーローの人形(緑レンジャー)がハムちゃんの暴挙を止めさせようと説得を試みる。
「じゃあ、やめる」
ハムちゃんは説得された。ハムちゃんは実はそんなに悪い子ではない。ブルジョア市民に「身体が獣臭い」とひどいことを言われて、一時的に理性を喪失していただけなのだ。
「よし、じゃあ家に帰ろうか」
父親ボイスの緑レンジャーが帰宅を呼びかけた。
「わたしがくさくないっていってくれたら、かえるよ」
「じゃあ匂ってみよう。クンクン、うわ、臭っ!」
「ウォオオオー! すべてをほろぼす!」
ハムちゃんはまた暴れ出す。こうなったら、世界を壊し尽くすまで止まらない。
「……」
ハムちゃんを握りしめていた私は、いつの間にか、薄暗い自室の天井を見つめていた。
夢だ。幼稚園くらいの頃に、父親とごっこ遊びをしていたときの夢。ただ、実際にあんなやりとりをしたのかは覚えていない。ハムちゃんと緑レンジャーの人形は確かに持っていたし、父とごっこ遊びもよくしていたけれど、街を破壊するハムちゃんのごっこ遊びをしたかどうかまでは思い出せなかった。
夢は精神衛生上よろしくない。願望と嫌悪と経験の化合物が、無秩序に、そして無遠慮に、頭の中を流れていく。見たくないものを見せられているような、裏返した服を無理やり着せられているような、そんな不快感だ。
布団から這い出て、机の上のスマートフォンで時間を確認する。時刻は五時四十九分だった。予定が詰まっているときは、無駄に早く目が覚めてしまう。二度寝するほどの余裕もなかったので、もう起きることにした。ボーっとした頭のまま基礎体温を測っていると、部屋のドアがノックされた。ドアの向こうから高橋の声が聞こえてくる。
「おはよう。もう起きてるよな?」
返事はしなかった。まあ、私が起きないとお前は現れないわけだし。起きてるよ、そりゃ。しかし、いきなり部屋の中に入ってこないあたり、高橋は寝起きの女子に対する最低限の礼節は弁えているらしい。
******
高橋が学校に付いていくと言って聞かないので、とりあえず、私が人と話しているときは声を掛けるなと念押ししておいた。まあ、どうせ茶々をいれてくるのだろうけど、こいつを生みだしたのは私自身なのだから、どうしようもない。畜生。
私はいつも通りの準急に乗り、高校の最寄り駅で下車し、校舎までの最短ルートを歩いて登校した。例によって、どうでもいい高橋の戯言は全て無視した。校門をくぐると、普段の学校とは一風変わった様子が目に飛び込んでくる。鉄パイプでくみ上げられたアーチ形のゲート、折りたたまれた運営用のテント、ラメが散りばめられた極彩色の衣装に着替えた生徒たち……。
「なんだなんだ、今日は祭りでもやるのか?」
高橋が物珍しそうに、辺りをきょろきょろ見まわしながら言った。
「いや、お前知らないのかよ。今日は文化祭前日で、午前中使って準備すんだヨ。半ドンだ、半ドン」
周りの生徒に不審がられないように、私は唇を動かさずに小さな声を出した。高橋は「ほーん」と曖昧な相槌を打って、私の後ろにピッタリとくっついて歩いた。階段を上り、踊り場を曲がってすぐの教室のドアを開ける。教室内には既に多くのクラスメイトがごった返していた。男子のグループが女性用のウィッグを被って遊んでいて、それを二、三人の女子がはやし立てている。机に座ってスマホをいじりつつ談笑している者もいれば、隣のクラスと教室とを行ったり来たりしている者もいる。何となく、いつも以上に、クラス全体が活気にあふれている気がした。自分の机の上に鞄を置くと、金髪のウィッグを被った男子(名を玄徳という)が私の側にやってきた。
「姐御、おはようございます!」
玄徳は警察官よろしく、ビシッと敬礼のポーズを決めている。
「オハヨ。金髪、似合ってんジャン」
「ありがたき幸せ!」
複数の男子から「ィヨーッ!」と掛け声が上がる。玄徳は嬉しそうに笑って、周りの男子に声を掛ける。
「よっしゃ、姐御来たし、準備はじめるべ! とりあえず男子は機材と看板、視聴覚室に運んでくれー」
クラスの文化祭委員である玄徳の一声で、クラスメイトたちが席からおもむろに立ちあがって、ぞろぞろと教室を出ていく。私も鞄を背負いなおして、クラスメイトの列の最後尾について廊下に出た。いや、最後尾ではない。私の後ろにはまだ高橋がいた。
「サキ、クラスメイトに『姐御』なんて呼ばせてんのか。なかなかやるなあ」
「向こうが勝手に呼んでんの」
「何で『姐御』なのさ?」
「知らん。文化祭の企画でちょっと手伝ったらそう呼ばれるようになった」
クラスのノリを部外者に説明することほどサムいこともあまりない。とかくあるんだよ、そういうノリが。あまり突っ込んでくれるな、イライラするから。
高橋の無駄口に無駄に付き合っているうちに視聴覚室に着いた。私たちのクラスの出し物は「映画」なので、明日はここに設置されてあるプロジェクタースクリーンを使って上映会をする予定だ。企画で「ダンス」や「演劇」をするクラスと違って、私たちはぶっちゃけ準備をほとんどしなくてもいい。もう映画は撮れているから、あとはここで試写会をやって、ちゃんと写るかどうかを確認するだけだ。玄徳が「じゃあ、姐御、ここよろしく」と言って、プロジェクターを運んできた。
「はいはい」
私はクラスメイトが持ってきたプロジェクターとスマートフォンを接続する。映画撮影に際して、私は機材周りのあれこれや映像編集などの技術的な部分をほぼ全て担当した。もともと、クラスメイトの中に撮影技術に明るい男子(名を川辺という)が一人いたのだが、そいつが夏休み明けに重度の肺気胸を発症して入院してしまった。そういう経緯で、川辺の補佐役に過ぎなかった私が、主要な編集を全て引き継ぐことになったのだった。おかげでこの一ヵ月は編集作業に時間を削られまくって、勉強時間の確保もままならなかった。
「はい、じゃあ今から試写会やりまーす」
照明を落として暗くなった視聴覚室に玄徳の声が響く。私はスマートフォンの開始ボタンを押した。
内容は、某ヴァンパイア映画のリメイクだ。ヴァンパイアの末裔であるビクターと、人間の少女ヘレナとの切ない恋物語。作中では、自分がヴァンパイアであることを隠して人間界で暮らすビクターの苦悩や、ある事件をきっかけに、ビクターの正体を知ってしまったヘレナの煩悶が情熱的に表現されている。もちろん、二時間以上ある本編を全て真似るわけにはいかないので、導入部、二人が恋に落ちる場面、見せ場である戦闘シーン、ラストシーンをそれぞれパッチワークして、全二十分にまとめてある。
金髪のウィッグを被った、ヘレナ役の玄徳が映った。華奢なヘレナに似ても似つかぬ、逆三角体型をした男の出現を見て、クラスメイトたちは大いに笑っている。今度は、コートを着たビクター役の女子(名を沢渡という)が画面に現れた。白塗りの化粧を施した沢渡の凛とした立ち居ふるまいは、宝塚の俳優を思い起こさせる。沢渡を見たクラスの女子がきゃあきゃあと嬌声をあげていた。
クラスメイトの反応は上々だった。特にウケが良かったのは、太陽に当たったヴァンパイアの身体が大げさに発光するエフェクトと、エンドロールで流したボツシーン。試写会が終わると、暗がりの中から拍手が起こった。「サイコー!」という男子の野太い声が聞こえる。
「よくできてんなあ」
高橋が私の横で呟いた。
一ヵ月の激闘もこれにて閉幕だ、やっと勉強に集中できる。歓声の湧く視聴覚室で、私はひとまず胸をなでおろしたのだった。
******
「姐御ォ! 編集凄かったよ~ありがとう!」
諸々の準備が終わったので帰ろうとしたら、後ろから沢渡に両肩をガシっと掴まれた。そのまま前後に身体をぐわぐわと揺さぶられる。突然のスキンシップに、私の頭は、一瞬、真っ白になった。
「雨森さん嫌がるから、やめーや」
沢渡の横にいた女子(名を十勝という)があきれた様子で沢渡の腕をゆるく振りほどいた。
「あ、ゴメン。姐御こういうの嫌だったっけ……」
途端に沢渡がシュンと肩をすぼめる。叱られたビーグル犬みたいな反応だった。映画でのクールビューティーな雰囲気は微塵もない。
「いや、別にいいよ」
ちょっとびっくりしたけど。時間差で今更拍動が大きくなっていた。
「ゴメンな雨森さん。こいつ、雨森さんの編集がよかったもんやからテンション上がってて」
「なにさー、姐御がいいって言ってんじゃん」
十勝の謝罪と沢渡の文句が目の前で飛び交う。この二人は普段から仲が良い。休み時間によく雑談で盛り上がっていてかしましい。
「あんたはもうちょっと遠慮というものを(云々)」
「とかちーだってこの前(云々)」
「じゃあ、あたしはこの後予定あるから……」
二人が夫婦漫才を始めたので、このあたりで失礼しようと思ったら、十勝にまたパシッと肩を叩かれた。
「姐御、最寄、阪大前だよね? 色々お礼言いたいから一緒に帰ろうぜ~」
「……いーよ」
「やったった~ん。帰ろう帰ろう」
意味不明な小躍りをしている沢渡の横で、十勝は「いきなりゴメンなほんまに」と平謝りしていた。十勝の後ろでは、高橋が沢渡の踊りを模倣してステップを踏んでいる。頼むから下校中に喋りかけてくれるなよ、と私は高橋をねめつけた。
******
今日は早く帰って勉強に集中するつもりだったのに、最寄り駅までダラダラ歩いたり、ミニストップで買い食いをしたりする沢渡たちに付き合っていたら、帰るのが大分遅くなってしまった。そんでもって、帰ったら帰ったで高橋のおしゃべりがうるさい。私が勉強しているとき以外は五分おきくらいのペースで話しかけてくる。人前では堂々と無視できるのだが、二人きりのときに無反応を貫くのはいささかバツが悪い。私は家事の片手間に、高橋のしょうもない話にしょうもない相槌を打っていた。家に誰かいれば、高橋もここまでしゃべくらないだろうが、いかんせん、親は仕事で深夜まで帰ってこないのだった。
映画の編集作業から解放されてストレスは間違いなく軽減されたはずだったが、私の指先は依然としてひやりと冷たい。身体を芯から温めるために、今日の晩ご飯はスンドゥブにした。セラミック包丁で白菜を刻んでいると、案の定、高橋が横から覗き込んでくる。
「朝も昼の弁当も夜も自分で作るなんて、サキはマメだなあ。時間かかるだろ? たまにはインスタントとかでいいじゃん」
「アタシ、野菜欠かしたら肌荒れんの」
ジャンクなものを控えて野菜を食べないと、吹き出物がマジでエグイことになるのは、中学の頃に経験済みだ。ただでさえ私は、肌が弱くて市販の化粧水がほとんど使えていない。これ以上肌荒れに拍車をかけるのは御免だ。これからどんどん冬に近づいてくるし、乾燥もひどくなってくる。憂鬱だ。白菜を一口大に切り終わったので、今度はニラを三センチ程度の長さに切っていく。
「そいやさー」
祭りの掛け声みたいなフレーズを挟んで高橋がしゃべり続ける。
「サキ、沢渡ととかちーにめちゃくちゃ感謝されてたな。映画凄かったもんなあ」
とりあえず、とかちー呼びやめろ。
「そうね、好評でよかったよ」
適当に合わせつつ、土鍋にスンドゥブの素を流し込む。赤々としたスープの表面に、今日の沢渡と十勝の顔が浮かんだ。「エフェクトがヤバい」とウキウキ顔の沢渡。「川辺がおらんくなって詰んだと思った、ホントありがとう」と礼を言う十勝。十勝は文化祭委員として玄徳と一緒に企画を進めていたから、映画を撮り終わったときの安堵感もひとしおだったのだろう。
ニラと白菜と豆腐ともやしを鍋にぶち込んで、ガスコンロの火をつける。後は煮立つまで待つだけだ。テーブルに座ってスマホをいじる私の対面で、高橋が退屈そうに頬杖を突いている。
「打ち上げ行きゃいいじゃん」
「勉強するから行かない」
私は英単語アプリを起動させた。画面に見慣れた単語が表示される。親指で単語をタップすると、即座に日本語訳に切り替わった。
「昨日もあれだけ勉強やってたのに?」
「勉強は量じゃなくて継続な。それに、アタシは打ち上げに行ったところで楽しめないし」
言いながら、今日の沢渡と十勝との下校時のあれこれを思い出す。今、高橋と話しているのと対して変わらないような、他愛ない、些細な話題が頭の上をブンブン飛び交っていた。あってもなくても差し支えない言葉の奔流が、私たちの時間と空間を埋め尽くしていた。私を含め、誰かが声を発するたびに、意味のなさそれ自体が、圧倒的な密度で鼻の穴から頭の中に侵入してきた。何か中身があるやり取りをしたのは、打ち上げの諾否くらいだ。
「明後日ノ文化祭ノ打チ上ゲ、イコウヨー」
「ウーン、チョット勉強アルカラー」
「エー、ナンデナンデー」
「コラ、雨森サン、忙シイネン」
彼女たちと別れた後はしばらく、三人で話していたときの、あの独特の浮遊感が抜けきらなくて、うまく歩けていない気がした。その浮遊感も、しばらくすると、次第に両肩の重みに吸収されて溜息に変わった。
「基本的に不得手なんだ、ああいうの」
肩の張りを妙に意識してしまって、口調が若干、ぶっきらぼうなものになる。高橋はまた、「ほーん」と曖昧な返答をした。どうでもよさそうな言葉尻が、相変わらず癪に障った。
「……アンタさあ、まだ消えてくんないの?」
「まーだだよん☆」
高橋は頬杖をついて、ニヤニヤ顔でこちらを見やる。苛立ちを紛らわすために、私は頭の後ろをガリガリ掻いた。
「あーもういいよ、マジで。あんたが生まれた理由、だっけ? 予定が立て込んでてしんどかったのと、相談相手がいなくて寂しかったこと。はい、これで終わり」
むしろ、時間に余裕ができた今となっては、高橋がいることそのものが悩みの種なのだ。もはや相談相手など必要ない。さっさとどっか行ってくれ。
「うーん、不十分だね、ヒントその二」
高橋は左手の人差し指と中指をピシッと立ててピースをした。
「サキの悩みは、サキの行動原則と関係してる」
「は?」
「サキはものごとをよく帰結から逆算して考えてるよね。映像編集ができる人が自分しかいないから、面倒ごとを一手に引き受けたり、目標に必要な自学自習を確実にこなしたり、肌荒れを防ぐために食事管理を徹底したりさ」
いきなり、自分のことを言い当てられて、少し動揺した。まあ、自分のことも何も、高橋は私自身なのだから、図星なのは当たり前と言えば当たり前なのだけれど。本当に、こいつはいったいどこまで私のことを知っているんだ?
「持ってる選択肢の中からやるべきことを選んでるだけ」
「それを貫徹している人がどれだけいると思う? 選択肢の結果を比較できるだけの情報を集めて、常に合理的に行動しようとしている人は、はたしてどれくらいいると思う?」
「知らない。考えたこともない」
「そう、サキは考えても無駄なことは考えないんだ。サキはとっても合理的で、理性的で、ストイックだ。だからこそ、自分が選んだ選択肢に自信を持っているし、自分に忠実だ。ただし、」
高橋は中指を折って、人差し指だけを立てた。役者じみた、大げさな仕草だった。
「一部、 例外アリ」
「……ご飯食べるから、出てって」
火にかけた土鍋がくつくつと煮える音がしていた。高橋は顔に薄ら笑いを張り付けたまま、立ち上がってリビングを後にした。私はスンドゥブを深皿によそって、テーブルの上に置いた。
深皿から出た湯気が、リビングの電灯に向かって伸びている。
何となく、食べる気にならなかった。さっきの高橋との会話が頭にチラついて、鳩尾が締め付けられるような感覚を覚えた。イライラする。編集作業が終わって時間ができたはずなのに、なぜか気分が優れない。イラつく理由が分からないことが、とにかくもどかしかった。
一つ深呼吸をして、私は目の前にあったプラスチック製のコップを右手に持った。これをハムちゃんの代わりにしよう。昔、ごっこ遊びをしていたあのハムスターだ。
私は、心が落ち着かなくなったら、自問自答をする。話し手と聞き手に分けて、自問自答をする。人形があれば、もっといいのだが、わざわざ自室に取りに戻るほどでもない。コップ、もといハムちゃんは、私の裏声を伴って、元気に私に語り掛けてきた。
「サキちゃん、ハムちゃんだよ! 映像編集、よく頑張ったね。これだけ頑張ったんだから悩みなんかすぐにどっかいっちゃうさ! 高橋の野郎もどっかにいっちゃうさ!」
「うん。でもね、ハムちゃん。あいつが言うには、悩みの原因は、予定がギッチギチだったことじゃないんだって」
「大丈夫、今は分からなくても、すぐに分かるようになるさ! それに分からなかったからと言って、サキちゃんが今やるべきことは変わらないよ! さあ、ご飯を食べて身体を温めてから勉強しよう!」
「……そうだね。うちはお金ないから、国立に行かなきゃ」
「今日も親御さんが頑張って夜遅くまで働いているよ! それに報いるためにも努力を継続するんだ!」
「うん。分かった。頑張る。ご飯食べるよ」
そう、イライラしてもしなくても、やるべきことは変わらない。大事なのは、目の前の課題から目を逸らさないことだ。淡々とやれ。何事も。
「いただきます」
手を合わせて顔を上げた。ドアの隙間から垣間見している高橋と目が合った。
「何ですか?」
頭が真っ白になって、敬語を口走ってしまった。高橋がおちょくるような声を出した。
「やだーコップとおしゃべりしてる~。サキちゃん可愛い~☆、ぷーくすくす」
「分カッタ、オ前ノ正体アレダロ、ハムチャンダロ」
動揺しすぎて指先がプルプル震える。
「ヒント三、違いま~す♪」
「しね」
高橋目掛けてコップをぶん投げた。コップはドアに当たってけたたましい音を立てた。
「おお、こわ」
高橋が身を屈めてドアの後ろに引っ込む。心臓の音が耳元でこれでもかというほど跳ねまわっていた。呼吸が浅く短い。落ち着け、落ち着け、と心の中で念じながら、手の震えが収まるのを待った。
******
「まちをはかいします! ドゥーンドゥーン!」
ハムちゃんはやはり街をぶっ壊している。この前は一時的に狂暴化しているとの釈明じみた設定があったが、こう何度も暴れ倒していては、元々の気性の荒さを疑われてもしょうがない。
「やめろー! この街は君が僕たちのために作ってくれた街じゃないか!」
父親扮する緑レンジャーがハムちゃんの説得を試みる。
「そうだった。もったいないからやめるわ」
ハムちゃんは説得された。そう、この街はそもそも、ハムちゃんが一から作り上げた街なのだ。ハムちゃんは土建屋だった。
「こっからここまでタンクローリーがならした! こっちはダンプカーで土どしゃー。ビルもとうきょうタワーもぜんぶハムちゃんがたてたものでしてね」
「おお、そんなにたくさん建物があるのか。他にはどんなものがあるんだい?」
「こちらのN300系をはしらせるせんろもつくりました」
「やあ、紗希は凄いな、お父さんはそんなに色々想像できないよ」
父が私の頭を優しく撫でる。時折、父親の手が頬に触れるのがくすぐったくて、私は首をすぼめた。
私の父は「あたたかい」という形容が良く似合う。わたしが大好きなごっこ遊びにいつも付き合ってくれて、私の想像力を、しっかり褒めてくれて、誰よりも私のことを理解してくれる。そんな、かけがえのない存在だ。
だから、おかしい、と思った。大好きな父に撫でられているのに、背筋を悪寒がはい回っていたから。気持ちが悪くて、とても気味が悪い。思わず、父の手から逃れた。父はびっくりしたように、私を見たが、また、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。
「どうしたんだい、サキ、こっちへおいで」
優しい声音だ。それなのに、私は激しい嫌悪をもよおした。だって、父の顔には、高橋そっくりの薄ら笑いがべったりと貼りついていたから。
いや、違う。この笑みは高橋のものじゃない。この笑い方は、まぎれもなく、私の父のものだった。ずっと昔に父が私に向けていたあの……
「……」
私は自室の天井を眺めていた。文化祭最終日の寝覚めは、最悪だった。
******
何も文化祭の開催日まで出席をとらなくてもいいのに。そう思ったものの、体制派の私は文化祭初日の朝にきちんと登校した後、一般客用の休憩室で一日中参考書とにらめっこした。初日はそれでよかったのだが、最終日である二日目は、朝の出欠確認が終わってから沢渡に捕まった。沢渡の横にはいつものごとく十勝がいる。
「姐御、一緒に軽音部の演奏見に行こうよ~」
「何か、雨森さんが前に話してくれてたバンドのコピーがあんねんて」
今日は、行列の復習をしたかったのだが、流石にここで勉強を理由に誘いを断るのは印象が悪すぎる気がした。気が付くと私は、沢渡と十勝と一緒に体育館で爆音に身を浸していた。
壇上では、三年生のスリーピースバンドがきったねえシャウトをかましている。演奏も聴けたもんじゃない。もっと練習してこいよ。私が一番好きなバンドの、一番好きな曲の最悪なコピーを私は聴き流した。
件の最悪バンドは意外にも沢渡に好評だったようだ。沢渡は「いやあ、ロックでしたね」とか言って、体育館を出た後にうんうんと頷いていた。十勝は辛口で、「いや、下手クソ過ぎたやろ」と沢渡に突っ込んでいる。いいぞ十勝、もっと言ってやってくれ。
何となく、その場の流れに沿って、三人で中庭を歩いていると、沢渡が「てか、タピる~」と言って、タピオカミルクティーを販売している出店の列に並びに行ってしまった。私と十勝も沢渡に遅れて列に並んだ。並んでいる間、十勝とちょっとだけ話す。
「昨日、ウチらの企画の集客見た?」
「いや、ちょっと見てない」
何せ昨日は一日中休憩室にいたもので。
「見てないんかい。凄かったで。昨日の午後に受付やっててんけどな。もうお客さん満杯やったわ。いや、ほんま編集ありがとう。雨森さん、お疲れ様」
「そりゃーよかった。十勝さんも企画進行係お疲れ様」
そんな話をしているうちに列がはけた。私たちは紙コップ一杯五十円のタピオカミルクティーを一つずつ購入した。
他にも三人で演劇を観たり、脱出ゲームをしたり、駄菓子屋に寄ったりしているうちに、なんだかんだで文化祭の最終日は全企画終了の時間を迎えた。最後にクラス総出で視聴覚室から機材などを運び出して教室に持って帰る。これで、私たちの文化祭はつつがなく終幕だ。終わりの挨拶をする担任がやってくるまでの少しの間、クラスメイトは教室内で思い思いに文化祭の余韻に浸かっていた。
私は、玄徳を見つけて声を掛けた。
「お、姐御どしたん?」
「この前言ってたDVD焼いてきた、クラスの人数分」
「おお、サンキュー! みんなー、ちゅうもーく!」
玄徳の掛け声で、クラスの視線が私と玄徳に集まる。少し体が固くなった気がした。
「えー、我がクラスの企画は文化祭を通して大盛況だったわけですが、今回、なんと、編集担当の雨森さんが撮影データをDVDにして持ってきてくれました! 一人一枚あるらしいので取ってってくださーい!」
おおお、と教室内でどよめきが起こる。「スゲー」、「アリガトー」、「サスアメ」と各方面からお褒めの言葉と指笛を頂戴した。別に、データのコピーくらいそんな大したことではないと思うが、とりあえず、みんなに軽く会釈をしておく。高橋が「嬉しそうじゃん」と茶々を入れてきたが、当然、無視した。
全員が円盤を回収したあたりから、教室内では一部のクラスメイトのボルテージが高まり始めたらしく、謎のコールが始まった。
「出席番号二番、伊藤!」
「「「打ち上げにぃ~‥‥‥?」」」
「いきまぁーっす!」
「「「ワーッショイ! ワーッショイ!」」」
コールの中には笑顔の沢渡も混じっている。こういうテンションにはついていけないなあ、と思いつつボーっとしていると、「ウルセー」と愚痴りながら十勝が私の側に寄ってきた。
「雨森さん、DVDありがとな。あと、今日は沢渡とアタシに付き合ってくれてありがとう。迷惑やなかったかな?」
十勝は胸の前で手を合わせて、謝意と謝罪の双方を器用に表現していた。
「いや、別に。こっちも楽しかったよ、ありがとう」
私って、そんなに楽しくなさそうにしてたのかな。何度も十勝に謝られると、何だか不安になってくる。
「サキは無表情だから、何考えてんのか分かりづらいんだよなあ」
十勝の後ろから、高橋がにゅっと顔を突き出してきた。私は心の中で溜息をつく。今日一日は割合おとなしくしているなと思っていたが、やっぱり茶々を入れてきた。
「ほら、もっと感情込めて言ってあげろよ。『いや~ん、滅茶苦茶楽しかったです~』ってさ」
わざとらしくしなを作る高橋を見て、思わず舌打ちをしてしまった。十勝がビックリしたようにこちらを見る。
「ひょっとして、姐御さん出てきはりました?」
「ゴメン、気にしないで。ちょっと嫌なこと思い出したダケ」
「OK、OK。気にせーへんで」
十勝は左手の親指をピンと立てて、ザ・気にしないポーズをとる。その指の立て方が高橋そっくりで、私は、自分がこんなささいな部分から高橋の素材を得ていたことに驚いた。十勝の後ろでは高橋が真似るように親指を立てている。
「姐御ォ~!」
突然、沢渡に呼ばれたので振り返った。沢渡を含めた十人ほどのクラスメイトが私を凝視している。え、なに?
「「「姐御はうちあげにぃ~……?」」」
「……ゴメン、行けないです」
言葉を発しながら、私はある種の後ろめたさを感じた。クラスメイトに対しても、そして、自分に対しても。なんだ、私は今、何から目を逸らした?
「「「ええ~~~!」」」
沢渡含めた面々がいかにも残念ですといったような息を漏らした。十勝が「雨森さんはいかへん言うてたやろ!」と沢渡をたしなめていた。
私の隣では高橋がいつものニヤニヤ笑いで突っ立ている。私はいつにもまして、高橋にどこかに行ってほしいと思った。こいつは天邪鬼だから、そんなことを言ったらむしろ距離を縮めようとしてくるのだろうけれど。
担任が教室に入ってきた。帰りの挨拶をして、文化祭はお開きとなった。
******
「サキってさあ、沢渡みたいなタイプ好きだろ」
帰りの準急の中で、高橋がまた軽口をたたいている。
「わかるわ~。奔放なやつって見てて楽しいよな。自分にできないことを平然とやってのけるところにシビれるし憧れる気持ち、わかるわ~」
私は座席に腰かけて、今日やる予定だった参考書のページをパラパラと眺めていたが、いかんせん、集中できていなかった。高橋が隣で雑音を垂れ流しているだけでも腹が立って集中できないのに、学校を出た頃から、お腹が張ってきて、ひどい疼痛がしていた。そう言えば今日、朝に体温を測るのを忘れていた。両肩の凝りも相変わらず酷くて、痛みが左目の奥にまで響いているようだった。左の瞼が僅かに痙攣しているのを感じる。
ままならない体調に軽くめまいを覚えながら、帰宅する。
洗濯物を片付けて、目の周りのメイク落として、今日できなかった分の勉強を一時間ほどやって、それからご飯を作ろう。
やることを脳内でリストアップして、洗濯物から取り掛かったが、やはり、どうにも身体が重たかった。タコ足からハンカチやソックスを取る度に息が切れた。
「いや、とかちーもいいやつだよなー。面倒見良いし、どっちかというとサキよりも姐御肌な気がするね。そう言えば、結局サキってなんで姐御って呼ばれてんだっけ?」
高橋のお口はチャックが閉じられない。
「まあ、色々あって」
「その色々が気になる」
いちいち説明するのが面倒くさいので無視した。企画をやる中で、玄徳や沢渡と関わりを持つようになって、何となく生じた諸々のことを高橋に分かるように言語化する気力が今はない。
頭痛と腹痛が酷い。ダブルパンチだ。やるべきことをこなす気力が勢いよく削がれていく。気を紛らわすためにスマホをいじる。ニュースアプリ、ルナルナ、LINE。クラスの全体LINEに打ち上げの写真がアップされていた。サイゼリヤでメロンソーダらしき飲み物を掲げて楽しそうにしている玄徳と、変顔の沢渡も写っている。私はそれを見て、鳩尾がどうしようもなく重たくなった。一昨日、沢渡と十勝と三人で下校していたときの浮遊感を思い出す。一人では決して創り出せない、なんてことのないあの無意味な軽やかさ。別に、嫌いだとか、そういうわけじゃない。私はきっと、目の前のことに、向き合えていないだけなのだ。
「姐御は打ち上げにぃ~……?」
高橋が気色悪い笑みを浮かべて、謎コールの真似をしている。
打ち上げ、疼痛、メイク落とし、沢渡、浮遊感、玄徳、勉強、ご飯、文化祭、行列、とかちー、姐御。
今日あったこと、やるべきこと、できそうにないこと、様々な項目が後頭部付近を目まぐるしく行ったり来たりして、身体の首から上の部分が不必要な熱を帯びている。長湯してのぼせてしまったときの感覚に似ていた。
LINEに新しい通知が表示される。沢渡からの個人LINEだった。通知をタップして内容を確認すると、来週あたりに十勝とUSJに行くから一緒にどうですか、という旨のお誘いだった。新たな選択肢が提示される。私の頭はいよいよオーバーヒートしそうになった。
しんどいなあ。
スマホを机に置き、掛け布団の上に身体を横たえる。目を閉じるだけで、視界に氾濫していた数々の情報がシャットアウトされるのが心地良い。
化粧を落とそう。
打ち上げに行かずに得たものは、睡魔を前にして一瞬で溶けてしまうような決意だった。
******
「お前と一緒になったのが間違いだった」
父が家を出ていく日の朝になっても、父と母は口論していた。お前が悪い、あなたが悪いと、非生産的な言動をお互いがぶつけ合っていた。小学校に入学する前だった私が、その日、何をしていたのかは忘れてしまった。わずかに残っている記憶の断片は、両親が言い争っているのがただただ怖いという感情と、去り際の父の言葉だった。
「お前と一緒になったのが間違いだった」
父は母に向かってそう言った。言葉を放った父の顔は、私とごっこ遊びをしていたときのものとは似ても似つかぬものだったに違いない。覚えていないけど、多分。
ねえ、お父さんはどこからやりなおしたい? きっと、できることなら、お母さんと結婚する前からやりなおしたいよね。お母さんも、アタシもいないところから、もう一度リスタートしたいよね。
「お前と一緒になったのが間違いだった」
私のことを何でも理解してくれて、ちゃんと話を聞いてくれて、ここぞというときに私が望んでいる言葉を掛けてくれるような、そんな百点満点のパーフェクトな存在にとって、私は間違いの産物だったらしい。じゃあ、あの優しい微笑みも、父にとっては意味のないものだったのかな。
そんな問いに、答えなど最初からない。意味のないことを繰り返すことほど、不毛なこともない。だから私はそのことについて考えるのをやめたのだった。
******
深夜の三時近くに目が覚めた私は、喉の渇きを感じてリビングまで水を飲みに行った。冷蔵庫で冷やしてある水をコップに注いで一息にあおる。母のいびきが隣の和室から聞こえた。学校から帰って来たときの疲労のピークは越えたらしく、肩の凝りや頭痛は幾分かマシになっていた。腹痛はまだ続いている。
「おはよう」
高橋が専売特許の笑みをたたえつつ、ドアの前に立っていた。高橋の笑い方は父のものだ。高橋は間違いなく、私が創り出したイマジナリーフレンドだった。水を飲んだ私の頭は妙に冴えていて、今なら、高橋を構成する要素が、少しばかり鮮明に見通せる気がした。
「アタシ、打ち上げに行きたかった」
私は高橋に、つまり自分自身に話しかける。これは自問自答に過ぎない。分かりやすいように、話し手と聞き手を分けているだけだ。高橋は笑みを崩さない。
「そーだよなあ。行きたかったよなあ。何でわざわざしなくてもいい勉強の予定なんて入れたんだ? ん?」
「沢渡とか玄徳とか十勝とかと、今以上に仲良くなっちゃいそうだったから」
「仲良くなったらいいじゃん、特に沢渡は多分サキのこと好ましく思ってるし、サキだってそうだろ?」
「……仲良くなっちゃったら、アタシ、また凭れちゃいそうで、怖い」
深まった仲は、いつまでも続くとは限らない。そもそも、自分が考えていた親密さが、ただの妄想以上のものであることの保証なんて、ないのだ。都合のいい妄想に凭れかかった分だけ、梯子を外されたときの衝撃は大きくなる。
「それは、サキの付き合い方次第だろ」
「まあ、そうなんだけど、やっぱり、加減がよく分からない」
「そこは、ほら、サキの行動原則に従えばいいのさ」
高橋はいつぞやのように、人差し指をピンと立てた。
「『行動原則』なんて大それたもんじゃないよ。取りうる選択肢の中から良さそうなのを選んでるだけ」
私の言葉を聞いた高橋は、最高に気色の悪い笑みを浮かべて言った。
「サキは選択肢をちゃんと吟味したのか?」
「は?」
「打ち上げに行ったらどれだけ楽しいのかってことをちゃんと考えたか?」
「考えてない。楽しい保証なんてないし」
「そりゃあ、ちょっと勝手な話だぜ、サキちゃんよ。楽しくない保証もなかろーが」
高橋は欧米の俳優みたいに大げさに手を広げた。いつもなら鼻につく素振りも、今だけはどうでもよかった。
「打ち上げが楽しいか楽しくないか判断できるような経験を、サキはまだしてないじゃん」
「……」
「そんなところまで、余計な妄想を働かせなくてもいいんだよ」
私の余計な妄想が、私を諭す。どんな構図だよ。私は水道の蛇口をひねって、コップにもう一杯水を注いだ。ごくごく喉を鳴らして水を流し込む。がぶ飲みしたせいで、口から水が溢れて首筋を伝った。口内の渇きを癒して、私の頭の中はまた少しクリアになった。
確かに、高橋の言葉を借りれば、私の判断は「合理的」ではなかった。選択肢を満足に比べられるほどの経験すら、持っていないのだ、私は。合理的に判断したいのなら、選択肢の内実くらい、知らなくちゃいけないのに。
そんなんで、人づきあいとか自信もってやっていけるわけがない。非合理的だよ、全く。
自分の考えとか、感じ方とかそういうものが、ふとしたときに繋がって、星座みたいに一つの像を形成するように思える瞬間がある。そういうときは、自分がやっていることの一つ一つの意味合いが、いつも以上に、つぶさに見て取れるようになったりする。顕微鏡のピントが合って、プレパラートの中にいる微生物を明確に捉えたときのような爽快感だ。微生物はもちろん、高橋だ。流しのコップを見つめながら私は言う。
「アンタってさ、アタシのためらいとか逡巡とか、そういうやつ?」
高橋からの返事はなかった。視線を前に向けると、リビングに高橋はいなかった。月明りが窓から差し込むだけの暗い部屋に、母のいびきだけが小さく響いている。
あ、きっともう来ないんだな、と思った。高橋が現れたときと同じような直観が自分の中に芽生える。
私はきっと、イマジナリーなそいつを消すべくして消したのだった。
******
自室に戻って、寝る前に来た沢渡のメッセージに返信する。人と一緒に外に出かける予定をいれるなんて、いつぶりだろう。クラスメイトと休日に遊びに行くなんて、それこそ片手で数えるくらいしか経験がない。父の笑みが頭をよぎって、送信ボタンを押す指先が少し震えた。「遺書にいきたいです。」という文字列がトーク画面に表示される。いや、遺書ってなんだ、文面をよく確認しないで送ってしまった。メッセージを取り消そうと思ったら、即座に既読がついて、「やったーー!!!!!! また連絡する!!!!!!」というコメントが爆速で返って来た。
いや、人のこと言えないが、なんで深夜の三時過ぎに起きてンだよ。明日月曜だぞ。あれか、打ち上げの二次会とかか。内心でツッコミを入れていたが、そういえば、明日は文化祭の振り替え休日だった。そうか、それなら夜更かししても問題はない。明日が休みだから夜更かしする。一応は理に適っている話だ。
そんな都合のいい論理で私は勝手に納得して、二度寝をするために布団の中に潜り込んだ。
(終)
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