1 犬のお客様

1/1
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

1 犬のお客様

 雲一つない青空、遠くに見える緑、灰色の滑走路、目の前には一八○センチある俺の背丈くらいある、でかい段ボールの箱。至る所に大小の貨物が積み重ねられた巨大な倉庫のような建物の端に、俺は佇んでいた。ヘルメットの下からもみあげをつたって首筋に流れた汗は、蒸した上屋内の熱気によるものか、それとも緊張によるものかはわからない。 「今、機側からパレット戻してるから!」  隣に立って無線でやり取りしている水瀬さんは、一見、高校生のように見えるが、先月で二十二歳になったらしい。幼さが残る横顔をなんとなく眺めていると、鋭い視線が返ってきたので目をそらす。 「宗方くん、ちゃんと積み付けプラン見た?」 一応、俺は彼より三歳年上なのだが、この職場で年齢は関係ない。 「はい、見ましたけど一個口でした」  左斜め下から視線を感じつつ、敬語で先輩に返答した。水瀬さんは無線を脇に挟むと、A4の紙の束をめくって該当貨物の備考欄を確かめる。顎に手を当て、少し無言になったあと、また無線を手に持った。 「受付さーん、聞こえますかー、水瀬です」 ガガガという音の後にピッと音がして 「はい、受付でーす」 と明るい返事が聞こえる。 「222―29381938の貨物の税関申告個数、調べてもらえますか?」 「はい、ちょっと待ってください」  振り向くと、道路を隔てた向こう側にある事務所の受付で、栗色の髪の女性がパソコンを操作しているのが見える。数十秒モニタを眺めたあと、無線を手に取った。ほぼ同時に水瀬さんの無線から声が聞こえる。 「水瀬さんどうぞー、受付でーす」 「はい水瀬でーす」 「さっきの貨物、二個口でーす」 「はい了解でーす。ありがとうございましたー」  無線からピッと音が鳴るのと同時に、また左頬に視線を感じた。しぶしぶ目を合わせると、それを合図にしたかのようにお説教が始まる。 「これさ、今朝、書類変更した貨物じゃん。新しい書類届いた時、俺の隣で見てたよね? なんでその時にプランも直しとかなかったの? 後から搬入あるっていうのも聞いてたよね?」 「すみません……バルクに入れるのかと思ってました」 「こんなでかいのバルクに入るわけないじゃん、ちゃんと寸法も書いてあるでしょ」  そう言って備考欄をトントンと人差し指で叩く。俺がもう一度小さく「すみません」と言うと、水瀬さんはため息をつきながら、紙の束でバサバサと顔を仰ぎ始めた。今度は背中をツーっと汗が流れていく。滑走路内をぐるりと遠回りして来たタグ車が目の前に止まる。後ろのドーリーには貨物積み付け済みのパレットが置かれていた。周囲で待機していた人たちが追加の貨物を再度積み付け始める。邪魔にならないよう隅に移動してそれを見守ると、またパレットは飛行機に向かって運ばれて行った。積み付け担当のリーダーから、ほぼ罵倒に近いお叱りを受けたあと、俺と水瀬さんはトボトボと事務所へ戻った。自動ドアが開いて、エアコンの冷気が全身の汗を一気に冷やし始める。 「お疲れー、大変だったねー、晋ちゃんも陽ちゃんも」  受付で声をかけてくれた山近さんは今日も完璧なメイクでギャルだった。俺のことを晋ちゃん、水瀬さんのことは陽ちゃんと呼ぶ。山近さんは今年二十二歳の先輩。専門卒。 「さっきはありがとな、山近」  水瀬さんが礼を言って事務所の奥に入っていくので、俺も頭を下げつつお礼を言ってあとに続く。搬入に来た貨物トラックの運転手が受付に入ってくると、ハツラツとした声で山近さんが対応を始めるのが聞こえた。若くてかわいい、さらに愛想もよい、三拍子揃った山近さんのファンは多い。  事務所の入り口から自分の席に着くまで約二○メートル。そこでは今日もさまざまなドラマが繰り広げられている。書類棚では、今日も誰かが必死に探し物をしていて、無線が鳴り響く中に耳をつんざく電話の着信音、どこからかすすり泣きも混じって聞こえる。床に置かれたジュラルミンのボックスをジャンプで飛び越える者が居れば、その床に座り込んで、数メートルの長さに達した電報用紙の中から、必死に情報を探し出している者もいる。自分の席に戻って、パソコンの画面の右下にある時計に目をやると、まだ勤務開始から四時間も経っていない。思わず天井を見つめる。 ―――なぜここにいるんだっけか、俺は。    日本有数の大企業であり、国内はもちろん海外との航空ネットワークも堅牢に結ぶ、エアライン両雄の一つに内定が出たときは、それまでの人生がオセロのようにひっくり返っていく音が聞こえた。大学入試では第一志望に落ち、浪人してもまた不合格。滑り止めだった不本意な大学に通うこと四年間、最初の一年は仮面浪人していたものの、辛くなって諦めた。それからは友人と麻雀をするかゲームをするか、もしくは酒を飲むかして過ごし、三年生になって就活が始まっても動きはのろく、にもかかわらず大企業にばかりエントリーシートを送っては、お祈りメールが溜まり続ける受信ボックスを眺める日々。ゼミの教授に相談したあたりで、少し風向きが変わった。地元の観光業について書いたものが教授の目に留まり、教授と親しくなったことで、他大学の院に進むことに成功。いわゆる学歴ロンダリングに成功した後、大学名の力で大手企業での内定獲得。おそらくあれが俺の人生の絶頂期だったのではないか。入社後の研修が終わると、新入社員は各現場に散り散りになる。修行のはじまりだ。空港のチェックインカウンターに配属される者、機内食の工場に配属される者、商社に配属される者、そして貨物地区に配属される者、最後のは俺だ。それもこの航空会社では世界一忙しい、成田空港の輸出課に配属された。大学の同期と仕事の話をしても、誰も貨物のことを知らないので、俺が旅客のスーツケースを積む仕事をしていると思っているし、田舎のばあちゃんに至っては俺がパイロットになったのだと勘違いしている。大体の人は旅客便の下半分に貨物が搭載されていることを知らないのだ。というか俺も入社するまで知らなかった。 「ZA305便さーん! 搬出担当です!」  体がビクリと動く。パソコンモニタの上にはカードホルダーがついており、今日担当する便が書かれたカードが刺さっている。今日の俺の便は左から、809便(BKK)、815便(PEK)、305便(LHR)……305便!  「ZA305便さーん? 搬出担当ですが!」  慌てて無線を手に取る。 「はい、305便、ロンドンヒースロー担当です!」  少しの間を置いて、無線がピッと鳴る。 「あ、さっきの貨物、無事機側に着いて搭載されたんでその報告でーす」  全身の緊張が解かれていくのを感じた。もう一度無線のボタンを押しながら返答する。 「ありがとうございます! 了解しました!」  充電器に無線を戻して、また天井を見上げる。心臓に悪い。 「よかったね、いい連絡で」  左隣から声が聞こえて視線を向ける。同期の丸本がこちらを見ていた。丸本は出向でこの会社に来ている俺と違って、空港現場での業務を事業として執り行っているこの会社、要は子会社の新卒社員だ。大卒だから二十二、三歳のはずだ。人のよさそうな下がった目じりでいつもニコニコしているので、ふくよかなのもあってか、事務所内ではマスコットのようなポジションに納まっている。 「うん、無線飛んでくると寿命が縮まるよ」  視線をモニタに戻しながら返事をすると 「僕も無線は苦手だよ。常に自分が呼ばれないか気を張っておくの疲れるし」 と言いながら俺が置いた無線を押し込む。きちんと充電器に刺さっていなかったようだ。 「お、悪い」 「いえいえ」  気を取り直してモニタに目を向けると、目の前にひらりと紙が落ちてきた。FINAL、と書かれている。落とし主は背中を向けて去っていく。 「祖父江さん、ありがとうございます!」  切れ長の目でこちらをチラリと振り返り、無言で手を挙げる。背中まで伸びるウェーブのかかった茶髪と細い眉毛はちょっと怖いが、姉御肌の頼れる先輩で、確か年齢は俺の一つ上で高卒だったと思う。FINALと書かれた紙を片手に、急いでジュラルミンのボックスに近づき膝をつく。このボックスにはAWBと呼ばれる貨物にとっての『搭乗券』が入っており、これらの書類がないと到着地での受け取りができない。貨物とは別に運ばれるため、コンテナなどに入れられることはなく、このジュラルミンボックスで飛行機まで運ばれると、ボックスごとCAに手渡されて空輸される。  急ぎつつも慎重に、すべてのAWBが入っていることを指差し確認し、FINALの搭載プランを入れると、ホワイトボードの305便の欄にマーカーで搬出準備完了のチェックを入れる。ちょうど近くにドキュメントボックス搬出担当者が居たので一声かけておいた。これで自分の担当便はすべて出発準備完了だ。あとは問題なく飛んでくれるのを祈るのみ。  自分の担当便が落ち着いたら、周囲を見回す。右斜め前の席が不穏な空気に包まれている。散らばった書類、ペン、食べかけのクッキー、何かが起きているに違いない。立ち上がって回り込み、散らばった書類を見ると、状況の察しがついた。ヘルメットと油性マーカー、危険物のチェック用紙と、それを挟んだバインダーを持って事務所の外へ向かった。目の前の道路を横断して上屋の中に入ると、右手にある冷凍室に向かう。重厚な扉を引っ張ると、ゆっくりと冷気が漏れ出してくる。中に入ろうとした瞬間、入れ替わりにヘルメットをかぶった水瀬さんが出てきた。 「はい遅かった~」  人差し指で俺の肩をつつくと、油性マーカーを指先で回しながら事務所へ戻っていった。続いて桃井が出てくる。目が充血しているのを見ると、また泣いたのかもしれない。 「あ、宗方さん」  同期だが桃井は俺のことを宗方さんと呼ぶ。年上だからだそうだ。桃井は専門卒の二十一歳。感情の起伏が激しく、怒ったり泣いたりと忙しい。祖父江さんとどことなく雰囲気が似ているのは地元が近いからだろうか。祖父江さんからクールさを抜いたら桃井になる、という感じだ。 「ドライアイスのチェック終わったの?」  訊ねながら扉の向こうに目をやると、赤の油性マーカーでチェック済みの印が付けられた箱が積まれているのが見える。 「うん、水瀬さんが手伝ってくれたから」 「すげー量だな」 「そうなんだよ、あたし一人だと絶対無理だった」  扉がゆっくりと閉まる。しっかりと施錠されたのを確認して桃井と一緒に歩き始めた。 「桃井は今日どこだっけ?」 「シカゴ」 「うへえ、最悪じゃん。なんであそこ最近毎日ドライアイス大量に載せんだろな」 「さあ、品名まで確認してないから」 「怪しい薬品だったりしてな」 「ちょっとやめてよー、あたし箱ベタベタ触っちゃったんだからさー」  そう言って手をくっつけようとしてくるので、体を避けて逃げていたら、 「おい! 上屋でふざけてんじゃねえ」 とフォークリフトの上から怒られた。桃井と揃って頭を下げて謝ると事務所に戻る。ここにいると毎日だいたい誰かに謝っている気がする。さっきのは俺らが悪かったのだけど。  事務所に戻って担当便の〆作業を続ける。午前中の便の出発準備はほぼ終了していて、嵐が去った後の安堵感と疲労感を俺たちは共有していた。今日の午前中の旅客便担当は五人。TPE(台湾桃園)、PVG(上海浦東)、FRA(フランクフルト・アム・マイン)が祖父江さん。ICN(仁川)、ORD(シカゴ・オヘア)が桃井。CAN(広州)、HNL(ホノルル)が丸本。BKK(バンコク)、PEK(北京)、LHR(ロンドンヒースロー)が俺。HGH(杭州)、HKG(香港)、CDG(パリ=シャルル・ド・ゴール)、VIE(ウィーン)が水瀬さん。祖父江さんはいつも貨物専用便を担当しているが、今日は欠員が出たので急きょ旅客便を兼任している。ここでいう欠員というのは、体調不良で休む、もしくは突然永久に休む、いわゆる「バックれる」のいずれかだ。今日は前者の方で、後輩の藤嶋が体調不良で休んだらしいが、おそらくその原因は今日の便のアサインにある。担当する便の大変さをざっくり言えば、アメリカ、ヨーロッパの方がアジア便よりもきつい。アジア二便にヨーロッパ一便という組み合わせが彼女にとっては荷が重かったのだと思う。昨日、帰り際に翌日のアサイン表を見て青ざめる藤嶋を俺は目撃した。まだ入社したばかりの新人には荷が重かったはずだ。ただ驚くべきことに、俺だって入社してまだ半年しか経っていない。この会社は三カ月に一度新人がやってくる。そして去っていく。俺の同期はもっといたはずだが、今ここにいるのは、桃井と丸本と俺だけになってしまった。入社して間もない新人が次の新人を教育する、まるで少年兵が少年を教育する戦場のようなところに思えた。その分、ここでは互いを助け合うチームワークが何よりも大事だ。いつ、どの便が思わぬアクシデントに見舞われるかはわからないのだから。 「お、ロンドン飛んだよ」  その辺を歩いていた佐原さんが天井から吊り下げられたモニタのフライト情報を見て言う。薄めの化粧、制服はスカートではなくズボン派、ヘアスタイルはショートのパーマ、めったに笑わない課長代理の佐原さんは、正直怖いのだが、長年この戦場を生き抜いてきた生き字引のような存在で頼りになるし、ここで起きるほぼすべての事象を把握している。佐原さんが俺の方を見て 「宗方さん、よかったね、水瀬さんのおかげで命拾いしたね!」 と言って去っていった。斜め前に座る水瀬さんの方を見るとつまらなそうな顔でパソコンに向かい〆作業を行っている。しばらく見つめていたら、だるそうにこちらを見たあと、にやりと笑って「回る寿司でいいよ」と言ってきたので目をそらす。祖父江さんは貨物便のデスクと旅客便のデスクを行ったり来たりしながら仕事をしている。この場所で五年以上生き延びるのはああいう化け物みたいに冷静で頭の切れる人なんだと思う。  正午をまわったが、誰も休憩に行くことはない。さっさと〆作業をしてしまわないと先に貨物が着地に着いてしまうからだ。黙々とシステム上の処理と税関処理を続けていると、まずホノルルの出発を待つだけの丸本が広州便を〆て休憩に行った。次に桃井が全便を〆て休憩に行く。一応二人とも俺に手伝えることはないか声をかけてくれるが、ホノルルを残している丸本や、午前中の危険物当日大量搬入で疲れ切った桃井に頼る気にはなれず、丁重に断った。祖父江さんは旅客便を〆終えて貨物便に集中している。島に残ったのは俺と水瀬さんだけだった。斜め前を見ると相変わらず、だるそうな顔で便を〆ている。モニタの上に刺さっているカードが残りウィーンだけになっているのを見ると、だるそうにしていても仕事は早いことがわかる。  俺が何とかバンコクを〆終えて壁の時計を見ると、既に午後一時半。思ったより時間がかかってしまい、このままでは北京が到着してしまう。今日も昼飯は食えそうにない。自分を鼓舞するようにフーっと息を吐いて北京に取り掛かろうとすると斜め前から視線を感じた。 「宗方くんさあ、ロンドンやりなよ、俺北京もらうからさ」 「え、いいんですか!」 「ああ、俺もうウィーン終わるし。書類一式渡して」  お言葉に甘えて北京の書類一式を持っていく。 「そこ置いといて」  指差された場所に書類を置いて 「今度寿司おごります。回らないやつ」 と言うと、水瀬さんは口角を上げてにんまりと笑った。無邪気そうな顔が、ますます高校生のように見える。  ロンドンを〆終えるころには、水瀬さんはとっくに北京を〆て休憩に行っており、午前便の担当は俺一人になっていた。午後便の担当者たちが続々と出社してきていて、無線や電話が置いてある島に居づらくなる。フライト関連の書類一式を抱えて、流浪の民のように事務所内を転々としていると、受付の方からキャンキャンと鳴き声が聞こえた。近くの空いた机に書類を置いて覗きに行ってみる。 「あ、晋ちゃん、犬来たよ」  山近さんがこちらに気づいた。しゃがんでクレートの中を見ている。中では柴と思われる犬が不安そうに吠えていた。犬は客室に乗せられないため、乗客から預かったあと、こうやって貨物カウンターへ連れられてくる。少し離れたところから眺めていると、水瀬さんが横を通り過ぎてクレートの前にしゃがみこんだ。 「おー、犬じゃん」  受付から聞こえる鳴き声は事務所全体に聞こえるので、犬に癒しを求めてやってくる人も多い。休憩から戻ってきた水瀬さんもその一人のようだ。山近さんの隣に座り込み犬に話しかけている。 「ごめんなー、知らないところで狭い箱に入れられて怖いよなー、もう少ししたらお兄さんかお姉さんが来て飛行機に連れて行ってくれるからなー」  犬は返事をするかのように、クーン、クーンと不安げに鳴く。 「まあ、飛行機に乗ってもバルクでかわいそうだけどね」  山近さんがポツリと言った。預かった犬はクレートに入ったまま、飛行機の最後部にあるバルクと呼ばれる空間に搭載される。もちろん空調などは整えられているので居住性に問題はない。ただ、飼い主と離れて見知らぬ空間で数時間を過ごすのは犬にとってもストレスなため、中には到着地で体調を崩す犬もいる。突っ立って二人と一匹を見ていると、後ろから肩を叩かれた。香ってくる女性ものの香水の匂いで浜島さんだと分かり、体に緊張が走る。 「宗方くん……、ロンドンは〆終わったの? 私待ってるんだけど……」  メガネの奥の眼光が鋭い。 「あ、はい、あと少しです今すぐやります!」  慌てて書類を置いていた席に戻った。おそるおそる後ろを振り返ると、浜島さんは長い黒髪ストレートヘアに光を反射しながら責任者席へ戻っていく。各便の担当は作業を終えた後、すべての関連書類を記録として綴じて、時間帯の責任者に提出することになっている。フライトレコードと呼ばれる冊子は、貨物の量が多い便だとちょっとした辞書くらいの厚さになることもあり、責任者はこれをすべてチェックして不備があれば便担当に突き返す。  残っていた税関処理業務を終えて、フライトレコードを丁寧に綴じ提出すると、逃げるように事務所を出てきた。すでに午後便の慌ただしさが事務所を覆い始めていたので、巻き込まれる前に休憩に行く。と言っても定時まであと三十分しかないが。  事務所の近くに飲食店はない。貨物トラック用に広く仕切られた駐車場の端に、仮設みたいなコンビニがあるだけだ。旅客ターミナルまで行けば食事にありつけるものの、今日は時間もなければたいして食欲もない。陽炎の立つ駐車場を速足で歩く。日陰を作ってくれるような高い建物はどこにもない、空港だから。事務所内で蓄えてきた冷気が体から抜けきる前に、急いで仮設のようなコンビニに向かう。  手動の引き戸を開けると、田舎の駅の待合室のような光景が目に入る。コンクリートむき出しの床に硬いベンチがいくつか並んでいて、部屋の隅にあるテレビを見ながらトラックの運転手が休憩していた。一画にあるコンビニは新幹線のホームにある売店くらいの大きさで、さほど品ぞろえはよくない。サンドイッチを選んでいると引き戸が開く音がして、山近さんが入ってきた。なんだか顔色がよくない。 「いた! 晋ちゃん、ごめんちょっと来てもらってもいい?」  返事をする前に引き戸から出ていってしまったので、手に持っていたサンドイッチを棚に戻す。  犬でも逃げたのかと思ってコンビニを出ると、犬が逃げていた。駐車場の真ん中で、制服を着た男女数人が両手を広げ一定間隔で立ち、円陣を作っている。事情を知らない人が見たら、UFOを呼んでいる集団かなにかだと思うだろう。犬の周囲を漏れなく取り囲むには人が足りていないので、自分が呼ばれたのだと察しがついた。円陣を作っているのは午前勤務だった者たちで、山近さん、祖父江さん、水瀬さん、桃井、丸本、そして俺。時短勤務を申請していた桃井は帰る途中で呼び止められたのか、私服に着替えており、肩から下げたショルダーバッグが二の腕のあたりまでずり落ちて、揺れている。俺たちは、徐々に円陣の輪を小さくしながらじりじりと犬に近寄っていく。犬は吠えもせず、ただじっと様子をうかがっていた。首筋をたらりと汗が流れる。成田ののどかな自然の中、飛行機が飛び立っていく轟音のみが地響きのように聞こえていた。 「あの、僕、犬苦手なんだけど、もし僕のとこ来ても捕まえたりできないんだけど」  丸本が左右に首を振りながら助けを求める。俺だって走ってくる犬を捕まえたことなんてない。丸本の訴えが空に消えてから数十秒、聞いたことのない猫なで声が沈黙を破った。 「だいじょぶでちゅよ~、こわくないよ~、おねえちゃんたちとじむちょにもどろうね~」  祖父江さんだ。 「いいこでちゅね~、こっちおいで~、そうそう、こわくないよ~」  犬もピクリと反応すると、祖父江さんの方に顔を向け、お互いが見つめ合っている。ふと視線を感じたので、その方向に目をやると、水瀬さんが唇にぐっと力を入れて笑いを堪えながらこちらを見ている。俺も我慢してるのだからやめてほしい。いつの間にか円陣の輪の一部分、祖父江さんだけが中央に近づいていて、周囲は固唾を飲んで見守る布陣になっていた。もう少し、もう少し、と皆が祈っている間も祖父江さんの赤ちゃん言葉は続く。頼む、早く捕まえられてくれ、犬。祖父江さんが徐々に腰をかがめながら、地面のリードに手が届きそうな距離まで近づいたとき、突然犬が反対方向に向かって走り出した。 「アア!」  中腰のままそう叫び、走り去る犬に手を伸ばす祖父江さんを見て、水瀬さんが顔を背け吹き出すのが視界に入った。犬が走る方向には桃井が立っている。 「え、ちょっと待って、ちょ、ちょ、え、無理」  そう言って桃井が隣の丸本の方に走り出すと、丸本が悲鳴を上げて俺の方に向かって走ってくる、俺も反射的に後退りしてしまう。すでに円陣は崩れ、二人と犬に追いかけられる俺を水瀬さんと山近さん、膝をついた祖父江さんが見ていた。勢いをつけた犬は軽やかにジャンプすると、桃井の腕からぶら下がるバッグに噛みつき、そのまま着地する。桃井はこの世の終わりのような叫び声をあげてその場に倒れこむ。俺も丸本のタックルを受けてバランスを崩し倒れた。水瀬さんは腹を抱えて笑っている。山近さんは、バッグに気を取られている犬に気づかれないよう近づくと、リードを掴んで犬を勢いよく引っ張り、バッグから放した。犬が名残惜しそうに小さく吠える。 「桃井ちゃんバッグごめんね!」  山近さんはバッグを手に取ると、座り込んでいる桃井に手渡す。桃井はやや放心状態で 「あ、大丈夫です、全然」 と返事をした。祖父江さんはいつの間にかいつもの調子に戻っていて、膝についた砂を払うとスタスタと事務所の方へ戻っていった。山近さんも犬を引っ張って事務所に戻る。水瀬さんは俺たちのところに近づいてきた。 「さすが八街の雌豹だな」 にやにやしながら言う。祖父江さんのレディース時代の異名らしい。 「え、私は四街道の女王蜂って聞きましたけど」  よだれのついたバッグをハンカチで拭いながら桃井が言う。甘噛みだったのか目立った傷は見当たらないようで、肩からバッグを下げると「じゃ」と言って帰っていった。水瀬さんと俺も事務所に帰ろうと歩き始めたところで後ろから声をかけられる。 「腰、抜けちゃって立てないんだけど……」 水瀬さんと俺は両側から丸本を抱えて、事務所に戻った。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!