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1-3 恋人
「断られた」
『だろうな』
自室のベッドに胡坐をかいて髪を乾かしていたエリオットは、シーツの上でつれない返事をするスマートフォンへ頬を膨らませて見せた。残念ながらビデオ通話ではないので伝わらないが。
ナサニエルの屋敷から住まいであるリトル・カルバートン宮殿へ戻ったのは、午後三時すぎ。これから別の予定が入っているから、シャワーを浴びて着替えようとしていたところへの電話だった。
「おれのためにならないって」
『フォスターに分別があれば、自分の問題でお前の再起に水を差すようなことはしない』
「おれは問題だと思ってない」
『お前と世論の意見が一致するとしたら奇跡だな』
言われなくても分かっている。
歯に衣着せない物言いに、エリオットは頭にかぶったバスタオルの端を指先でいじった。
通話の相手は、セーシェルでハネムーン兼バカンス中の王太子夫妻に随行している侍従。もちろんただの侍従ではない。彼こそ、エリオットに再び人の手の心地よさを教えた恋人、アレクシア・バッシュだ。
ナサニエルより先に、エリオットを「強欲」と評した相手でもある。
飾り気のない口調には、ベッドで拒絶された気まずさは感じられない。そもそも、あれは彼にとって心配こそすれ、もとより気まずさなど抱くできごとではなかったのかもしれない。
『また出かけるんだろう。時間はいいのか?』
「うん、まだ……」
話題を変えたバッシュに、エリオットは顔を上げた。視線は戸口に控える侍従──ロダスに向く。
「四十分ほどございます」
幼少期から気心の知れている丸顔の侍従が、心得たように告げた。
『早めに着替えろよ。スーツは?』
エリオットは壁に掛けられた本日の衣装を見やる。
「シンプルなやつ。無地っぽいんだけど、近くで見ると細いストライプが入ってる」
『シャドーストライプだな。色はネイビーかグレー、どっちだ?』
「ネイビー」
あいつは、おれのクローゼットの中身を全部把握しているのか。
ありえそうだ。
「白いシャツで、ネクタイは無し」
『……シャツは無地のブルーを探してもらえ。なるべく淡い色のやつ。シューズはジャランスリウァヤのストレートで』
「ジャラ……なにがストレートだって?」
『ジャランスリウァヤのストレートチップ。お前のクローゼットの中では、比較的安い靴だ。音大の定期演奏会ならあまり気取らないほうがいい』
「分かった」
頼むまでもなく、ロダスが部屋を出ていく。ものの数分で、クローゼットからバッシュが指定したものを取って来てくれるはずだ。主人の恋人とは別に、侍従に昇進する前は衣装係だった経歴を持つ同僚の仕事ぶりにも、エリオットのスタッフたちは信頼を置いている。
『エリオット』
ロダスが席を外したのを察したのか、バッシュの声に独特のやわらかさが乗る。それが自分だけに向けられる特別なものだと、エリオットはもう知っていた。
『前から言うように、おれはフォスターの招へいには反対だ。彼の「友人関係」は褒められたものじゃない』
エリオットが反論するより早く、彼は「でも」と続ける。
『お前にブレーンが必要なのも事実だな?』
「……うん」
『断る理由にお前の都合を出すなら、フォスター個人として拒否する理由はないはずだ』
だといいんだけどな。
『お前が本当に望むなら、粘ってみたらどうだ。そのための手伝いなら、「おれたち」はいくらでもする』
「……ありがとう、アニー」
『戻りは明日になる。じゃあな──愛してるよ』
「う、ん」
手を伸ばして終話ボタンを押すと、エリオットはそのままぱたりとベッドに倒れこんだ。
「うわあああぁ……」
やっぱ慣れない!
なにがって、あのダビデ像みたいな体格と、冷たいヒスイカズラ色の瞳を持つ男。スーツを着てサイラスの後ろを歩いているときなど、ともすれば近寄りがたさすら感じさせるのに、その口は惜しげもなく愛をささやくのだ。
幼児の淡い初恋だけを抱えて成長してしまった恋愛初心者には、その一言の破壊力たるや絶大だ。
「はぁ……むり……」
エリオットがベッドの上に丸まって羞恥に耐えていると、シャツと靴を手に戻って来たロダスに腹でも痛いのかと勘違いされ、危うく救急車を呼ばれかけた。
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