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1-4 マーガレットと高嶺の花
昼間の暑さが残るなか、わざわざ着替えてセダンに乗り込んだのは、王立音楽アカデミーの定期演奏会を鑑賞するためだ。
私的な外出とは言え、侍従だけでなく警備チームも引き連れていくことになる。ついでにお忍びでもないから、王子が来ると聞きつけてメディアも待ち構えているだろう。クラシックは嫌いではないけれど、スキップしながら出かける気分にはなれなかった。
しかし残念なことに、きょう招待をよこしたのは、非常に断りづらい相手だ。
王宮から二キロほど西にある芸術ホールに車が到着すると、エリオットは規制線の向こうに並ぶカメラを数えながら、ゆっくり息を吐くことを意識した。
厄介な『アレルギー』については、目下リハビリ中だ。バッシュとの例外的な接触さえ除けば、以前より一歩分は人に近付けるようになっている。それでも、まだ握手に応えられるほどではなかった。立ち話に困らないていど、といったところだ。では、国民の前に出るときはどうするか。この難題に助言をくれたのは、やはりナサニエルだった。
『情報が少ない療養明けってことを、最大限利用するべきだね。それが君の当たり前という顔で侍従たちと少し距離を取って、パーソナルエリアが広いことを示す。極力肌は見せないで、あとは──』
大きすぎない、控えめな笑顔──だったっけ。
随行のイェオリがドアを開けて、エリオットは友人のアドバイス通りに口元を引き上げる。
わずかな静寂のあと、一斉にカメラが叫び出した。
王族に対しカメラ目線を要求することは推奨されないから、だれも俳優やタレントにするようには声を上げてエリオットを呼んだりしないが、シャッターを切る音だけでも公害なみのやかましさだ。協定など関係のない一般市民がいたら、さらにひどい騒ぎだったに違いない。
きっちり一分、無言の撮影会を終えたエリオットは、早足でバロック様式のホールへ逃げ込んだ。
「大丈夫だった?」
後ろにいるイェオリを振り返ると、同じ年頃の侍従は東洋人特有の杏色の頬に淡い微笑をのせた。
「はい。まさに『イサンドルの天使』でした」
「最悪だ」
「非常に好ましい笑顔でいらっしゃいますよ」
「そりゃどうも」
大理石の床に敷かれたじゅうたんを歩きながら、ぐったりと頭を回す。
イェオリが言う「イサンドルの天使」は、兄サイラスの成婚の儀が行われた大聖堂の名前と、当日のエリオットの衣装がステンドグラスの天使に似せて作られたものだったことから、どこかの新聞が言い出したあだ名だ。
二十三の男を捕まえて「天使」とか、寒すぎだろ。
ベイカーが記事を持って来た時は、あまりにセンスがなさ過ぎて引いたのだが、ナサニエルは「これで行こう」と言った。
近寄られるのが怖いなら、その隙を与えない。親しみやすさを少々犠牲にして、外野が作り上げてくれた、浮世離れしたイメージで売ろうと言うのだ。友人が名付けたところによると、『高嶺の花、もしくは深窓の佳人作戦』。その広報戦略を聞いたバッシュは派手に噴き出して、ムカついたから椅子を蹴飛ばしてやったら、今度は大笑いしやがった。
足くせの悪い天使で悪かったな。
出迎えたホールのスタッフに案内されて階段を昇って行くと、ボックス席の入り口前で本日の招待者である老婦人が待っていた。
「こんにちは、大伯母さま」
エリオットが声をかけると、レースのショールをかけた白髪の老婦人は、杖をつきながらも優雅に礼をした。
「ごきげんよう、殿下」
彼女──マーガレット・ピッツ女伯爵は母方の親類で、この芸術ホールのオーナーでもある。エリオットとは子どものころに数回会ったことがあるだけだったが、成婚の儀に向けて貴族たちへの根回しを依頼してから、親戚づきあいが復活した。
そして王室を揺るがす事件の、後始末を引き受けてくれた人物でもあった。
「お招き感謝します」
「クラシックがお好きかどうか、お尋ねせずにお声がけして申し訳ありません。居眠りしない程度にお楽しみいただければいいのですが」
形式的な挨拶を済ませると、さっそくマーガレットは仕掛けて来た。
「奏者はわたしと同じ年頃ですから、楽しみにしてきました。それに、フラッシュの光で眠るどころではないかもしれませんよ」
「今どきの若い人ときたら。演奏中に一度でもフラッシュが光ったら、客席からたたきだします」
ふん、と鼻を鳴らす。
本当にやりそうなところがマーガレットだ。
エリオットは苦笑して、ホールへの扉へ目をやる。
「いい席をご用意いただいたようで」
「えぇ。去年、ボリショイのバレエ公演があったとき、王太子殿下と妃殿下が観劇された席です」
コンサートが行われるホールには、ちゃんとしたボックス席がある。クッションの利いた賓客用の椅子も人数分だけ用意されるから、自分の席に行くために、先に座っている人が体をのけぞらせなくてもいい。でなければ、肘置きを隣人と奪い合うような距離で、エリオットがのんびり音楽鑑賞などできるはずがなかった。
以前は伏せていたエリオットの事情について、マーガレットには王室の「共犯」となるときに母のフェリシアから伝えられている。王弟が甥の王子に性的暴行を働いた──それも二度──と言う醜聞は、高齢の女性には大変なショックだったはずだ。しかし貴族社会で七十年以上を生きて来たマーガレットは、それが王室にとってどれほどの危機か瞬時に理解した。
フェリシアの懇願を受け、表向きは引退と言う体で王室から追放されることになったヘクターを引き取り、監視することを了承したのだ。
それから、マーガレットは何度かランチや美術鑑賞にエリオットを連れ出した。事件のことを口にすることはなかったけれど、彼女なりに心配してくれているのは感じている。
だから、無下に誘いを断れない、のだが。
「公務への参加もありますけれど、ファンドについてはもう決めましたか?」
「いえ……」
「まぁ、ずいぶんごゆっくりだこと」
マーガレットが驚いたように瞬きした。
「母が、焦らずに決めろと」
「だからと言って、十年かけるわけにはいかないでしょう」
「……はい」
痛いところを突かれてエリオットが口ごもると、助け舟を出すようにスタッフがボックス席の扉を開く。
「まぁ、この話は後にしましょう」
できればこのまま忘れてくれ。
本気で祈りながら、エリオットは分厚いカーテンの向こうへ足を踏み出した。
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