世界のすべて

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海松(みる)、今から塔に戻る」  宿舎の厨房に顔を出すと、食事係の海松が調理台の上に置かれた大きな籐の籠を指さした。 「これ、できてる。たまには温かいものを食べるように、師匠にも伝えてくれ」 「ああ」  布巾のかぶせられた籠の中には、大体二日分の食事。  これから行く、日の塔の分。 「そういえば、後継者はどうなったんだ? 千草(ちくさ)は知ってる?」  興味あります、と、でかでかと顔に書かれた質問。  オレが日の塔に通うようになって、季節は10回以上廻った。  師匠に連れられて日の塔へ行くようになった頃、子供だったオレはそろそろきちんと職に就かなくてはいけない。  そして、あの頃すでに日の塔の住人だった師匠は、そろそろ後継者を決めなくてはいけない。  オレの背はとうに師匠を抜いてしまったし、身体も師匠より一回り大きくなってしまった。  今は師匠の従者とも、日の塔の弟子ともつかない仕事をしているけれど、そろそろどちらかに決めなくてはいけない。 「さあ、師匠は何もおっしゃらないから」  首を傾げたオレに、海松は笑って答えた。 「真朱(まそお)さまなら、忘れてるかもしれないな」 「ありそうな話だ」  くすくすと笑いながら、手を振ってオレは厨房を出る。  ゆっくり歩いて半日。  宿舎から塔までは、割と険しい道が続く。  荷物を持っての山登りは、嫌いではないけれど苦手だ。  厨房からの心づくしは籠に入っているから走るわけにはいかない。  背負っていれば走ることもできるけれど。  ひっくり返さないように気を付けながら、速足で歩く。  気持ちが浮足立ってくる。  やっと、師匠のもとに帰れる。  宿舎のゆったりとした寝台も、厨房からすぐに届けられる温かい食事も、たっぷりとして手足を伸ばしてつかれる風呂も、とてもいい。  人の気配も嫌いではないけれど。  けれど、オレの心はあの人のもとにある。  息が切れるまで一気に歩くと少しだけ見晴らしのいい場所にでる。  今しがた出てきた宿舎は眼下にあって、その向こうには突き抜けて高い塔が見える。  あれは月の塔。  転じて西を向けば、堅固な要塞にも見える塔。  あれは歴の塔。  ここからは見えにくいが、東を向けば学舎がある。  オレの向かう日の塔は、もう少し森を抜けた先。  月の塔と対になるように作られた、背の高い塔。  深い森と中に点在する高い塔、これが、オレの住む場所。  世界の移り変わりを記録し続ける、賢者の森。  歴の塔と学舎、宿舎の距離はそれほど離れていない。  けれど月の塔と日の塔は、少し離れた高台にある。  学舎は、子供たちが勉強をしに来るところ。  歴の塔は、世界の中で起こったことをすべて記録しているところ。  そして、月の塔は夜の天空を観察して記録するところ。  日の塔は、陽と天候と農作物と木々の様子を観察して記録するところ。  他の塔で生活する煙や温度が少しでも影響しないように、月と日の塔は離れた場所に先人たちが建てた、と聞いた。  森の外にも世界は広がっている。  ごく普通の村や町や、王宮があって、別の国もあるのだと、師匠は古い本を眺めながら言っていた。  けれど森に捨てられていて、宿舎で育ち、日の塔に通うようになったオレは、他を知らない。  知ろうとも思わない。  外を否定しているんじゃない。  ここでの生活が満たされているから。  今、怖いことといえば、師匠の 「外の世界を見てきなさい」  という一言だ。  この言葉が出ないことを、オレは本気で願っている。  しばらく歩き続けて、ちょうど日が真上に差し掛かった頃、塔につく。  森の切れ目の斜面を登り、ぐるりと塔を回り込んだ。 「ただいま」 「やあ、千草おかえり」  干していた寝具を取り込みながら、(うるみ)が迎えてくれた。  潤はオレより少しだけ年上。  オレともうひとりと、三人交代で塔の仕事を手伝っている。 「師匠は?」 「いつものところに。千草と入れ違いですぐに宿舎へ行っていいって言われているから、行くよ」 「うん、気を付けて」 「前回の食料の残りは置いていく。洗濯は持っていくね。二人だからって適当に過ごしちゃダメだよ」  優しい潤は師匠のことだけじゃなく、オレのことにまで気を配ってくれる。  食事のこと、掃除洗濯のこと、健康のこと。  ともすれば、宿舎に食料を取りに行くことだって、師匠とオレとじゃ忘れてしまいかねない。 「わかってる」 「僕が言っているのは、生活のことだよ。二人とも仕事に没頭しすぎる」  眉をひそめながら綴られる言葉は、割と予想通りのこと。 「……師匠と同じには、あんまりされたくない」  師匠は大好きだけど。  オレの全てだといっていいくらい、大好きだけど。  こと、生活全般においては、あんまり一括りにされたくないっていうのが、正直なところ。 「あんまり変わらないよ」  くすくす笑いをこぼしながら、潤がてきぱきと荷物をまとめて、ぽんぽん、とオレの肩を叩く。 「じゃあ、あとは頼んだよ」 「ああ、気をつけて」  潤を見送りしながらも、心は早る。  あの人のところへ、行きたいって。  潤の姿が見えなくなってすぐに、オレは食料の整理もそこそこに、預かった手紙を持って師匠の部屋へ行く。  今回は長い日数、宿舎に足止めされた。  顔を見るのは、十日ぶりくらいだ。 「師匠!」  階段を駆け上がり、扉を叩くのももどかしく、部屋に飛び込む。 「おかえり、千草。ちょっとそこで止まっていてくれるかい? 黒点図が散らかっているから」  そう、柔らかな笑顔を声で言い切ったのは、この塔の主。  オレの師匠でオレのすべて。  真朱さま。  平均的な男性の身長に、細身の肉付き。  あかがね色の髪は、緩く一つにまとめられて背に流れている。  声をかけられて慌てて歩みを止めた。  久しぶりに会えることに浮かれていたのは自分ひとりだったのかと、少し水を注された気分になる。  それでも、気を取り直す。  まだ日が昇っている。  天空に日がある間は、オレたちにとっては仕事の時間。  特別な道具を使って描き留められた、太陽の黒点。  それは気候を推し量るのに重要な資料になる。 「今、分析中ですか? 描き留めるだけなら、オレやります」 「何かあった?」 「月白(げっぱく)さまからの手紙を預かっています」 「そう。それでは、頼もうかな」  床の上の紙をまとめて通路を作りながら、師匠の横にたどり着く。  手紙を渡してペンを受け取ると、黒点を描く装置に紙を取り付けた。 「月白には、直接会ったの?」  封を切りながら、師匠からの問いかけがある。  月白さまは月の塔の責任者。  師匠はここ、日の塔の責任者で、お二人は直接会うことはほとんどないけれど、昔からとても仲がいいらしい。 「はい。ちょうど学舎の方におられて……って、師匠?」  返事をしながら師匠を見ると、ちらりと文字に目を走らせた師匠はぽい、と手紙を投げやっていた。  ホントにやる気なさそうに。 「読む気にもならない。私の髪の量がどうだろうと、月白の知ったことじゃない。人のことを気にするくらいなら、自分のことを気にすればいい」 「月白さまは、お寂しくなっておられますからね」 「私はまだふさふさだよ、ざまあみろ、だ」 「でも、月の塔ではもう、後継者が決まったのでしょう?」 「……千草」  仕方のない人だなぁと思う。  仕事が大好きで、気まぐれで、好きなことしかしなくて、真面目で、でも生活能力と決断力のない人。  塔の責任者としては、誰からも憧れの眼差しを受ける人なのに。  個人のこの人ときたらどうだ。  師匠がこんな態度に出る月白さまからの手紙の内容なんて、すぐに推察できる。 『日の塔の後継者はどうなっているんだ』  この一言につきるだろう。  日の塔と月の塔。  どちらがかけても、この国の気象事象は記録・解析しきれない。  月の塔には後継者がいる。  責任者は同じ歳なのに――見た目が若くても、師匠は月白さまと同じ歳だ――こちらは決まっていない。  この危うさ。 「いい加減、決めたらどうです?」  黒点を描きながら、告げた。  オレは、師匠に対するオレの言葉の重さを、ちゃんと知ってるつもりだ。  師匠が迷っているのも、知ってる。 「――わがままを、言っていいかい?」  後ろからオレの腰に抱きついて、師匠が言った。 「師匠がわがままじゃなかったことなんて、ないと思いますよ」 「お前は意地悪だね」 「それでもあなたが良くて、あなたしか見えなくて、あなたのそばにいるオレの気持ちを、汲んで欲しいです」  わがままなんて、今更だ。 「じゃあ、これからも私のそばにいなさい」 「はい」 「日の塔ではないよ。私のそばだよ」 「はい」 「私がいなくなったら、お前の扱いや立場はとても微妙になるよ」 「はい」 「お前、本当にわかってるかい?」  オレの背に頬を押し付けながら、少しむっとしたように師匠が言う。  わかっていないなんて、どうしてそう思うんだろう。  大体、この体勢はちょっと困る。 「師匠、重いです」 「本当にわかっているのかい? 私は必ず先に逝くのだよ?」  本当に仕方のない人だ。  大好きだ。  動きにくいけれど服越しに伝わる体温が嬉しくて、腰に師匠をぶら下げたまま、作業を続ける。 「千草」 「……ここから先の人生は、師匠の方が短いのでしょう? だったら、少しくらい分けてあげますよ。自分のやりたいことなんて、師匠がいなくなってからでも充分探す時間はあります」 「いつから、私の可愛い千草はこんなに意地悪になったんだろう」 「さあ……いつからでしょうねぇ」 「あんなに純粋で可愛らしかったのに」 「可愛くないオレは、嫌ですか?」  師匠がいなくなった後のことなんて考えたくないのに。  ずっとこのまま一緒にいたいのに。 「嫌なわけがないだろう? 嫌なら、お前に手を出さないし、きちんと先のある日の塔の後継者に推している。私付きの従者だなんて先のないものにするのは、私のわがままだ」  ぎゅううっと、抱きつく手に力を込めて。  背中に向かってつぶやかれた言葉。  それがどれほど幸せかなんて、あなたは、測ろうともしていないでしょう?  そっと腰に回された手を外し、師匠と向き合う。  額に、まぶたに、頬に、唇を落としていくとくすぐったそうに目を細めて師匠が笑った。 「日が暮れたら、たくさん、しましょうね、師匠」 「できれば、ほどほどに」 「どうして? 久しぶりすぎて、我慢できないです」 「我慢しておくれ」 「明日の仕事は、全部オレがひきうけますから」 「分かっていないね、千草」  ああ。  ちゃんとわかってくれているのかもしれない。  やさしく綺麗に微笑む師匠を見て、唐突にそう思った。 「朝の観察作業は、散歩のようで、私はお前と歩くのが大好きなんだよ」  この人がオレの世界のすべてなんだ。 <END>  
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