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「あなた方の親権は既にこちらに譲り渡されています」
四畳半。
狭い部屋に膝を突き合わせて向かい合うと、祖父の秘書を名乗って家に現れた彼は、出したお茶に手をつける素振りすらなくそう切り出した。
「──母ですか」
しがみつく弟達を抱きしめながら僕は薄々予期していたことを尋ねる。
そうして、頷きと共に悟った。
売られたんだ。
それも今ある借金じゃなくて、蒸発後さらに手を出した闇金。泥々のお金問題から解放されるため、両親は僕らを売り飛ばしたらしい。
「つきましては」
言い淀む相手にも良心があるんだろう。
でもそんなこと、今の僕には関係なかった。
「悠里と晴翔は今よりもっとマシな暮らしを送れますか?」
「にーに?」
「しぃ、静かにしてて」
「……はあい」
悠里は賢い子だ。僕が一番よく知っている。さらさらの髪の毛は似ても似つかない黒で、晴翔も同じ。目元も母に似てツリ目がちで、父似の僕とは大違い。
そんな二人の成長はいつだって喜びに溢れていた。
「よろしいのですか」
「ダメって言ったら見逃してくれるんですか」
「……」
意地悪を言った。この人は何も悪くないのに。
僕は真っ青になって、歯を食いしばって、今にも逃げ出したい衝動を必死に堪えた。
「ごめんなさい。いけないことを聞きました。……父と母が駆け落ち同然に結婚したことは知ってるんです。それにきっと、二人の実家が裕福だということも」
蘇るのは、まだここに三人だけで暮らしていたとき。
「誰かに世話してもらうことが当たり前で。そんな風に考える両親だったから、買い物ひとつにも苦労していました」
時間さえあれば愚痴を垂れていた二人。それでも不器用ながらに僕を育ててくれた。根は悪い人達じゃない。そう信じていた。
「長男の僕ですら四苦八苦してたのに、弟達が生まれてからはてんでお手上げで。その頃には家事もある程度出来るようになった自分が育児にまわったんです。……おかげで、あの人達は当然のように任せっきりになりましたけど」
ぷくぷくの頬っぺたを擦り付けて、晴翔がうつらうつらと船を漕いでいる。もうすぐ三歳。君は外で遊ぶよりも家にいるのが好きだし、言葉数も同世代の子達よりずっと少ない。それが心配になった時期もあった。
心配しなくて良い。そう気づかせてくれたのは悠里だ。晴翔はいっぱい考えてるけど言うのが面倒臭いだけだって。僕なんかよりずっとお兄ちゃんをしている悠里が凄く凄く誇らしくなって、不安なんて嘘みたいに消えていった。
他人の前では無口な晴翔だけど、僕と悠里には色んなことが伝わってくる。例え言葉がなくても分かることがあるんだからそれで良い。十分だ。
耳をすますと、自分とは別の、かすかな、かすかな鼓動が、肌を伝わってくる。悠里と晴翔。二人の生きている証であった。
「多分、こんなところに居続けるよりもちゃんとした、幸せな生活が送れるようになると思うんです」
「……ですが」
「大丈夫ですよ。僕が一緒に行けない理由は察してます」
母に似ていないから。
駆け落ちしたぐらいなのだからとっくに実家とは縁が切れているはずだ。それでも母方の祖父が借金を肩代わりしてくれるって事は、母の子供が必要ってことで。
「あの、祖父はどんな方ですか」
「……厳しい方ですが、同時に正しい方です。曲がったことは致しません。……いえ、貴方にこんな酷い提案をしておいて説得力など無いのですが」
「良かったです」
母に似てぽやんとした性格だったら不安だったけれど。秘書さんの目は嘘を語る目じゃなかった。
どこか絶句したような相手に笑みを作る。
「契約条件をおさらいしても?」
「っ……、こちらです」
眠っている晴翔はそっとしておいて、僕は悠里の両耳を塞いだ。疑念に塗れた、どこか不安そうな目がこちらをずっと見上げている。本当に聡い子。これからの成長が楽しみで仕方なかった。
「第一に悠里様と晴翔様は一条家直系男児扱いとし、次期当主としての教育を開始します」
「もしも嫌がったら」
「無理強いは致しません。……私が保証します」
「信じますね」
それからつらつらと内容を反芻して。
「悠里と晴翔の前で兄を名乗らない、ですね」
「……はい、申し訳ござ」
「謝らないで下さい。謝らないで」
固まった相手の前で、いつものように笑おうとしてぎこちなくなる表情。
「……今日中に引き取る準備が?」
家の前に止まっていた目新しい車。直接やりとりを任されたらしいこの人以外にも、何人か大人の人達がいたのを思い出す。今もまだ下で待機しているのだろう。
こんな暑い中。
「少しだけ出て行ってもらえますか」
「……失礼します」
がなり声をあげて閉められた扉。
それからやっと、いつもの四畳半。
「お話しようか、悠里」
晴翔を起こさず、僕はどこか泣きそうな君に声をかけた。
──約束、約束だからね。
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