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炎宿り
下校中、いつもの通学路で、向かいから歩いて来たサラリーマンが突然燃え出した。
朝からざらついた空気で、こりゃ一炎来そうだな、と思っていた矢先の炎上だった。
「あち、あち、アチチチチ!」
高級そうなスーツが、足元からメラメラと燃えて行く。
仰天したサラリーマンは、火だるまだけは避けようと、慌ててアスファルトに転がった。だが、そのせいか炎は近くの茂みに燃え移り、あっという間に大きくなってしまう。突如の大炎上。僕は滲んだ汗を拭い、思わず目を細めた。
熱で景色が歪み、視界の大部分が橙色に染まっていく。
路上では次々と悲鳴が上がる。消防車を呼べ! という叫び声が何処からか聞こえて来た。行先は炎の壁で塞がれている。このままじゃ帰れない。僕は途方に暮れた。仕方なしに、一番近い軒下に駆け込んで、炎宿りをすることにした。
燃えていたのは、言葉族のサラリーマンだった。
僕たち言葉族にとって、言葉の炎で燃やされることは、何よりの苦痛を伴う。
昔はこう言った炎上騒ぎも、真夏の昼下がりと相場は決まっていたが、今では異常気象により、ゲリラ豪炎的に突発的に人が燃えるようになった。
こうした人体発火現象が、今では週に3〜4回は頻発している。助けたいのは山々だが、素人が迂闊に手を出せば、言葉の炎はさらに火力を増し広範囲へとも燃え移る。
中には助けようとして、さらに勢いを加速させようとする放火魔もいる、なんて噂もあった。専用の消防士でもいなければ、中々鎮火しないのが現状だった。
遠くから消防車のサイレンが聞こえる。
『迎え来て』
軒下で炎宿りをしながら、先に家にいるはずの妹に、ぶっきらぼうなメールを送る。妹とは、先日、好きなミュージシャンの新譜の歌詞”解釈の違い”で喧嘩して以来、ギクシャクしていた。
【雨空コインランドリー/洗えるものと洗えないもの/乾燥機は1番から8番のうち、すでに6つが埋まってた/空いていた3番に、ありったけの僕と君を Ah yeah 詰め込むのさ】
僕はこれを、
『夢や目標に向かって頑張る人たちへの応援』
と捉えたのだが、妹は
『片想いの相手に対する切ない感情』
だと言ってガンとして譲らないのだった。僕たち言葉族は、言葉を大切にする。大切にするからこそ、こうした些細やすれ違いが後を絶たないのだった。
小さな画面から顔を上げると、大分言葉の炎は弱まっていた。
黒煙で良く見えないが、渦中のサラリーマンはどうやら無事のようだ。ホッとしたのもつかの間、空を覗き見上げると、鼻先に冷たいものが落ちるのを感じた。案の定、パラパラと数字の雨が降って来ていた。僕は軒下で身を縮こまらせた。
「いや参ったね」
炎宿りをしていると、軒下に、散歩をしていた近所のおっちゃんが駆け込んで来た。
数字族だ。
「010100110101……もう嫌になっちゃうよ」
突然の数字の雨で、びしょ濡れになった数字族のおっちゃんがぼやいた。
数字族にとって、数字は神聖なものであり、『010100110101』など、身の毛もよだつほどの恐怖だった。
「また小数点以下から計算やり直しだ、コンチクショウめ!」
数宿りをしにきたおっちゃんは、地面に転がった『0』と『1』の組み合わせを見て、唇を紫色にしてぼやいた。彼らには申し訳ないが、言葉の炎が弱まったのは、数字の雨のおかげもあったようだった。
そうこうしているうちに、目の前に『言葉の消防車』が停まる。
必死の消火活動が続いていた。一度火事が起きれば、ぞろぞろと見物人がやって来てお祭り騒ぎになるのが、良くも悪くも下町の習わしである。気がつけば大勢の人々が集まっていた。言葉族の僕も、数字族のおっちゃんも、道端の観衆も息を飲んでそれを見守った。
だが、今日に限って風が強く、中々言葉の炎は収まらなかった。見えない風に目を凝らし、僕はそわそわと前髪を撫でた。遠く異国の地から吹く、外部の風。
「きゃー!」
僕らの願いとは裏腹に、風はどんどん強まっていった。
煌びやかな格好をした外部族の女性たちが数名、悲鳴を上げながらこちらに向かって走って来た。
他人の目。外部の評価。風評。外部族にとって、”周りから、特に海外からどう思われているか”は、”自分たちがどう思っているか”よりも大切なことであり、不可侵である。こうして外部の風に晒されれば、外部族は否応無しに、自分の意見を吹き飛ばされるしかないのであった。
「……もうやんなっちゃう! 海外ではね、こんなこともう常識なの。日本は遅れてるのよ!」
彼女たちはブツブツと、何やら高尚なことを言っていたようだが、僕は風に舞うミニスカートや、それで露わになる太ももにどうしても目がいって、正直それどころじゃなかった。数字族のおっちゃんが下卑た笑いを浮かべ、落ちていた『1』の尖った方で僕の脇腹を小突いた。
やがて空に白い亀裂が走り、蔑視の雷鳴が轟いた。蔑視族が、蔑視の雷を避けて雷宿りしに来る。数字の雨は、やがて思想の氷礫へと変わり、極端な思想が地面を大きく抉る。思想族が、思想警察に追われて軒下にやって来た。
それから空は目まぐるしく変化し、弾が降り槍が降り、隕石が飛来しゾンビが湧き、軒下には親指族、太陽族、暴走族、遺族、フーテン族、窓際族、くれない族、斜陽族、患者家族、巨人族、ローラー族、カラス族、五輪貴族、王族、眷族、部族……などなど、続々と人が集まって来た。
「お兄ちゃん」
ふと聞き慣れた声を耳にして、顔を上げると、妹が僕の目の前にいた。クリーム色の原付バイクで、片手には携帯用消火スプレーを持って佇んでいる。
「大丈夫なの? 炎上……」
「ん? あぁ……」
僕は周りを見渡した。炎上どころか、史上稀に見る天変地異である。
「乗ってく?」
迎えに来た妹がそっぽを向いてそう言った。ありがとう、と呟いて、僕は原付の後ろに飛び乗った。道路交通法違反だが、異常事態だし、この際致し方がない。西陽が眩しくて、思わず目を細めた。妹が原付バイクを走らせた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
風を切りながら、妹が前を向いたまま、ボソッと呟いた。
「私、やっぱりアレは恋愛ソングだと思うけど……」
「…………」
「……でも、あの歌詞で、夢や目標に向かって背中を押される人がいても、それはそれで素敵だと思う」
「……ああ」
妹はまだ前を向いたままだった。言葉族にとって、言葉は大切なものである。
「僕も、アレが実は恋愛ソングじゃないかって、ちょうど思い始めていたところ」
それからは、家に着くまで、二人とも何も言わなかった。
天変地異で、危うく地球が滅びそうになる中、さっきよりちょっぴり晴れやかな気持ちで、僕らは家路へと着いた。ふと真っ赤に染まった空を見上げると、炎やら雨やら雷やらの後に、綺麗な虹がかかっていたのだった。
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