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ある日の昼の事だった。
その日は何時にも増して暑苦しい太陽が日中照り、私の部屋にまで侵食してきたのだ。
(やはり、この事を知るのは私が小学校に行ってからとなるが)当時では貴重な冷房なるものが各部屋に備え付けてあり私の家族はそれを何ともないように付けっぱなしにしていた。
夏だというのに、日焼け一つせず部屋は快適な温度で保たれていた。
私はふと、この年頃の子供はいま何をしているのだろうと思い表へ出た。
玄関先で草履に履き替え、庭園を少し行って門がある。
郵便物は面倒なもので、わざわざ正面にある小屋に持って行きばあやに印を貰い、ここの郵便受けには受取の証明書のみを入れておくのだ。
そのせいか、配達員はここに届けたがらない。
以前、郵便物を3日貯めてから配達にきて父に首を切られた者もいたそうだ。
それは、私の生まれる前の話であるから詳しくは知らない。
恐らくは物理的な話では無く、暇を与えたのだろう。
私が大樹から門の正面に差し掛かった時小さな声が聞こえた。
耳をすませば、幼い子供のようだ。
相手を幼いと言っても当時の私は四つになる歳で言葉はさほど知らないのだけれど。
ここの家には鬼が三匹住んでるんだって。
怖いね。
全ての物を取って行ってしまうんだって。
それ知ってるよ、僕の叔父さんもそうだった。
本当に本の中にいるような鬼がいるんだ
私はこの屋敷の事を何一つ知らなかった。
だから、怖くなった。
ばあやに聞いてみた事もあった。
『ねぇ、ばあや。この屋敷には鬼がいるの』
『いるわけないではありませんか。
さぁさ、寝る時間ですよ。
夜更かしはお身体に悪ぅござんす。』
それもそうだ。自分の家なのに鬼がいるわけがない。安心して眠りについた。
縁側で本読んでいた時の事だ。
塀の近くで声が聞こえた。
三十円で氷菓子を食べようよ。
それより、飴玉にしないかい。
僕が勝ったら飴玉ね。
じゃんけんぽん
あっ、と短い声が聞こえた。
私の足元には黒ずんだ銅貨が転がっていた。
あ~あ、やっちゃったね諦めようか。
足音は遠ざかり、私から離れていった。
ここで引き止めなければ、私はどうしても友人が欲しかったのだった。
幼いころから犬と母と父、ばあやと使用人と住んでいるから同年代の者とは話した事がない。
それに病弱なこの身体のせいで、外に出るのは庭までと医者から制限をかけられていた。
今思えば軟禁状態であったが、庭には畑や池、階段や花壇があったし、本は幾らでも与えてくれたのでこの歳の同じ年齢の子供と比べても、知らない事は寧ろ何も無かったのではなかろうか。
私は咄嗟に待ってと声を掛けた。
何か声がしなかったか。
塀の向こう側から、黒い影が近づいてきた。
いや、ここ鬼が出るんだよ。
此処に小さな穴がある。覗いてみようか。
本当に鬼が出てきたらどうする。
そんなのいないさ。興味本位でだ。
きっと寺子屋の話題になるだろう。
君がもし襲われたら急いで大人を連れて来るよ
そんな心配いらないさ、大袈裟だな。
そして、彼らはしゃがみ込んだ。
私は激しく拍動する心臓を抑え込み待った。
穴の向こうから無邪気に笑う子供の顔が二つあった。
忽ち彼らの表情は恐怖に歪み、瞳孔が開いた。
大声をあげて、立ち去る姿は一瞬で塀の向こう側に消えた。
暫く呆然と立ちすくんでいた私は三枚の銅貨を目に留めた。
いつも父や母は汚らわしいといい、硬貨は手に取らず薄い紙切れを私に見せていた。
紙切れはいずれも皺や汚れ一つなく桁数が高いものばかりであった。
数字を見るとそれぞれに十と記されている。
これは、いわゆる十円か。
私はその三枚を手に取り、門を開けていた。
気がつくと細い路地を歩いていた。
同齢程の少年は私の前を歩いていて時々立ち止まっては自然観察をしていた。
私はその子供の後を付けた。
今から子供は何処へ行くのだろう。
しばらく歩くと、橋の向こうに子供が群がっている店を見つけた。
皆手には三枚の硬貨を握り年配の女性に渡すと、白い塊を受けとった。
近くまでいくと、それは家で食べている物とは比べものにならない程質素ではあるが、牛乳で作られた洒落た氷菓子だった。
口々に あいすくりーむ と聞こえる。
気の良さそうなご婦人は私に微笑みかけ、何が欲しいのかいと尋ねた。
『あ、あい、あいすくりーむを一つ下さい。』
家族以外の人間と話すのも初めてであったから緊張して呂律が回らなくなってしまった。
冷たい汗が背中を伝っていた。
私は生まれて初めて親の言い付けを破ったのだ。
私の鼓動ははち切れそうなる程に働き私の中の血液を滞りなく循環させようとしていた。
口では表す事のできない欲情に似た興奮。
今すぐに父の目の前でこれを貪ってやりたかった。
口は渇き、パサパサになった唇を開くとぱくりと切れ、血が滲み鉄(丁度私が昨日味わったような)の味が広がった。
ある時、私は知ることになった。
それは、皮肉だったのだ。
私の父は町の人からお金を巻き上げ、土地を買収し、裏で賄賂を配っていたようなのだ。
どこかの町民が私の父はまるで桃太郎に出てくる鬼ヶ島の鬼だと言ったようだ。
私も馬鹿なものでただ鬼の様に馬鹿にされているとばかり思っていた。
知った時点でもう両親共にこの世にはいなかった。
私は茶店を出ると御礼をした。
『ご馳走様でした。本当に美味しかったです。』
『こちらこそ。束の間でしたが実に楽しかったです。また、お会い出来るといいですね。』
私は会釈をしてお土産屋で賑わっている中心街へ足を運んだ。
そこには所狭しと店がひしめき合っており家族連れが多い。私のような独りで歩いているものはそういない。
ばあやは本は好きであるけれども、気に入ったものを自分で買ってくる。
退屈していないだろうか。おはじきや百人一首、双六を買っていってやろう。
目に付いたのは古びた店のショーウインドウ。
最近入ったのであろうか、外見とは不似合いな美しいオルゴールを見つけた。
物珍しさに自然に私の足は中へと向かった。
ねじを回すと音がなる。音は鍵盤楽器や弦楽器、管楽器とは違う音色を奏でている。
これは何とも心地いい。川のせせらぎとも言えようか。これも技術者の技だな。
私はばあやに買って帰る事にした。
勘定に行こうとしたとき、一曲聞いたことのある旋律が聞こえた。立ち止まってみると、一際古びたオルゴールが店の段ボールの上においてあった。
『すみません。こちらのオルゴールは何故ここに』
店の店主は首を傾げた。
『いやぁ、これは創ったんじゃあなくてここでは買い取りもしてるんだけど、これを買い取ってくれという奴がいてね。
大分と古びてるもんだからさ、売れやしないわけ。分解して新しいオルゴールをつくろうとしていたとこなんだ。』
この旋律は、先生が口づさんでいた。
だからか、やっぱり懐かしい。
『これを売ってい頂けませんか。いくらでもいいので。』
店主は目を丸くした。
『こんなのでいいのかい。』
『ええ、勿論ですとも。是非譲って下さい。』
『そのオルゴールを買うっていうんなら、お代はいらないよ。』
私の手に持ったオルゴールを指差した。
『分かりました。これとこれを売って下さい。』
店主はオルゴールを新聞に包み、封をした。
『これは、誰かにやんのかい。』
『はい。私の育ての母に』
『そりゃあ、良いもんだ。きっと喜んでくれるさ。何てったって、うちのオルゴールは日本一だかんね。』
私は笑った。オルゴールを受け取り、一度ばあやの元に帰るべく汽車に乗った。
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