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鬼の居る家
ばあやに届けて、二三日休息を取った私は再び旅に出ていた。
駅では人がまばらに汽車を待っていた。
暫くして、汽車が数分遅れに到着した。
横に立っていた男が不満を言っている。
気分は良くないが、今日は念願の絵画を見る日だ。
少し西の温泉の町でゆっくりと温泉を堪能して、それから絵画を見よう。
最近そこで掘り起こされた物で数百年前のものだそうだ。
汽車の中は相変わらず人が多い。しかし、大部分は私の行く町の1時間前に通過する駅で降車する。
私はこくり、こくりとうたた寝を始めた。
短く見積もっても二時間はかかる。
どれほどの時間が経った頃であろうか、赤ワインのような座席に腰を下ろし本を読んでいる女性がいた。
確か、眠りに落ちる頃には正面の席には誰も座っていなかった。見覚えのある顔。
彼女は跳ねた前髪を無意識に摩っていた。
『また、お会いしましたね』
目が細くなった。小さな声が名前を呼んだ。
『徳永京平さんですね。名前はもう覚えました。
もしかして、貴方も絵画を見に行くのですか』
『ええ、貴女もですか。』
『はい。以前から見たかったもので。
ご一緒していいですか。独り身なものですから。どうも、さみしくて。』
『ご家族とは来られないのですか』
『両親は私の幼い頃に亡くなりました。
それ以来ずっと独りで。』
『私もです。両親は居ません。
正確に言うと事情があって居なくなったのですが。よろしければ一緒に行きませんか。』
『私もそう提案しようと思っていたところです。』
にこりと笑うと一層美しさが際立つ。
長い髪の毛が開けた窓からの風に流されている。
『どうかしましたか。』
思わずじっと見つめていたようだ。
『いえ、貴女があまりにも美しいのでつい』
私は生涯で一度も口にしたことのない言葉に驚いた。彼女は目を泳がせただけだった。
『すみません。』
私は赤面して顔を下ろした。
賑やかな町並みはとうの前に通り過ぎもう残っていない。
私はあの人と絵画を見た。
『この後はどうしますか。』
『私は近くの宿を借りて一泊するつもりです。』
『そうですか。もう少しあの-先生とやらのお話を聞かせてもらえませんか。』
私は驚いたが、あの人の目元が寂しそうに潤んだような気がした。
『構いませんが、もうこんな時間です。
宿や家があるのであれば、そこまでお送りしましょう。』
『いえ、貴方さえよろしければ同室で割勘定しませんか。旅の支出はなるべく控えたいものですから。お互いに良いでしょう。』
私は疑問点は残るものの承諾した。
旅館の食事を一緒にとった。
あの人の荷物は何一つなかった。
そういえば、あった日は鞄を持っていた。
妙だな。もしかして、あそこに家があるのか。
日帰りをするつもりだったのだろう。
宿には自慢の温泉がある。
私は先に入ると言い、男湯に向かった。
名前も知らないあの人は頷いた。
まだ、本を読んでいた。
脱衣所で服を脱いだ私は身体を洗い湯舟に浸かった。
ここには混浴場があった事に気がついた。
私は期待をしなかった訳ではなかった。
そろそろ入る頃か、と頭の端で考え始めるときりがなくなり終いには彼女の出身までも考えてしまった。煩悩を消し去る為に水風呂に浸かった。
難しい顔をしている私をおじさんが見ていた。
壁の貼紙のわらび餅が目に留まった。
私はわらび餅に目がないのだ。
あの透明さは心が浄化され、味わいは不思議にも甘さの中に素朴さがあり、近頃入ってきた洋菓子はどうも身体に合わない。
砂糖と乳が多く使われていて、小豆やその土地の果物を生かしきれていない気がするのだ。
バシャバシャと冷水が顔にかかり我に返った。
子供が横で水の掛け合いをしていた。
一度、覗いてみようか。そうしたら、諦めもつく。
ほ照った身体で混浴場の扉に手をかけた。
やっぱりどうしようか。
おい、邪魔だ。そこをどいてくれ。
後ろには長身の男性がいた。年頃の奴はいい。
このように堂々と混浴場に入れるんだから。
好奇心を剥きだしにしても何もおかしくない。
羞恥もないだろう。私は一歩引いて前を開けた。
男性の後についてなるべく溶け込むように入った。
石で形作られている浴槽は期待とは裏腹にお年を召した人々の社交界となっていた。
私は溜息をつき、近くの浴槽に腰をおろした。
湯加減と露天風呂の設計は非常に満足のいくものだった。ただ、心の奥底には靄がかかっていた。
私は頭まで浸かった。
よし、温まったから上がろう。
私は湯から立ち上がった。最も奥の洞穴のような浴槽に綺麗な後ろ姿が見えた。
もしかしたら、もしかすると。
淡い期待を抱えその背中に近づいた。
長い髪の毛をかきあげた横顔は間違いなく、彼女だった。
『貴方が来ると思っていました』
突然の声にどきりとした。
『何故ですか。私がそんなに破廉恥に見えますか』
私は笑ってみせた。
背中に大きな一本の傷が刻み込んであった。
『醜いでしょう。見せられたもんではないですが見て下さい。』
あの人は私の手を掴み背中に押し当てた。
少し深い傷。さぞ、痛かっただろう。
期待していたものは何処かに消えた。
思っていたよりも逞しい背中が目の前にある。
『私を知って下さい。』
彼女は私の方に向き直り、巻いていたタオルを外した。
私は何処を見ていいか分からずに咄嗟に目をそらした。
『貴女は女性ではありませんか。
私をからかうのもいい加減辞めて頂きたい。
目的はなんです。』
『本当に私を見てもそう思うのですか。』
ぽちゃん、天井から滴り落ちる水の音が響いた。
はっとして、私は正面を見た。
鍛えられた平らな胸に、引き締まった腰回り、腹筋が割れている。私と同じ男…か。
『訳あって身分を隠して生活しているのです。
失望しましたか。』
『いや、まぁ。大分と。』
含み笑いの奥の意図が掴めない。
『部屋にかえって晩酌しましょう』
つまみを食べつつ、机に並んでいた。
障子には月の影が映っていた。
『お名前は』
『山上仁です。申し遅れましたね。
貴方が女性だと勘違いしているのは薄々感ずいてはいたんですが、言い出す時が見つからなくて』
参ったな。女性と二人きりで泊まれると思い勝手に気分が高揚していた。
うなだれる私の肩を組んだ。
『私を友達として楽しんで下さい。やっぱり不服ですか。』
『不服、そうですね。不服ではなく落胆の方が近いです。ともあれ、旅の先で友人が出来たと考えれば嬉しい限りです。』
『それはよかった』
彼はお猪口を傾け、ちびちび地酒をあおった。
『先生はどのような人だったのですか』
『先生は…』
顔ははっきりと覚えている。
けれども、声や仕草が思い出せない。
『昔の事なのであまり覚えていませんが、私に沢山の事を教えてくれた人です。
私の中に無くしていた、いや、元々持ち合わせていなかった感覚を。』
『そんなに大層な人物だったのですか』
『私にとってはそうです。
それなのに、先生は行ってしまった。』
山上さんはお酌をすると、障子を開けた。
『見事な満月ですね。久しぶりにゆっくりと月を眺めました。』
山上さんの足元の畳に染みが出来た。日本酒が零れたのだと思い、布巾を持ち縁側の横に腰をおろした。
『それで、貴方は何故先生と離れる事になったのですか。』
『それは』
二歳の頃にはピアノを習わされ、社交界の礼儀の作法を雇った専門家に一日中習い、五歳になると英語の先生を雇い、八歳になると英語は流暢に話せるようになった。
お金持ちしか通わない格式高い初等教育の学校に通った。私は優秀な方であったから、学業なんぞ手も掛からず羞恥という言葉は知らないまま八つの歳になった。
入学当初はそれなりに楽しくやっていたが、あるとき事件が起きた。
今回の試験から順位が壁に張り出される事になったのだ。
当然の事ながら、私は一番上に名前が書いてあった。
その途端、必死になって勉強をしている他の者が無様に見えたのだった。
とうとう私は天狗になってしまい、こんな行動を起こした。
試験後、教室で皆が持て囃した。
『京平君凄いじゃないか。』
見直した、今度勉強を教えてくれないか、等と声を次々にかけられた。
その場の空気に私は自慢げにこう言ったのだ。
『こんなので、満点を取れないなんて勉強していないのと同じじゃないか。
君達は学校に何をしに来ているんだ。
まだ、幼児と勉強している方がマシだ。』
そして、私は授業中に生徒をからかった。
『君の頭じゃ解くのに時間がかかってしまうな、いや一生考えても解けないだろう。実に笑える』
更には、先生への指摘をするようにもなった。
『では、何故こうなるのか。僕の独学と家庭教師によるとこの理論は成り立たない。』
『え、いや、だから。これは』
明らかに動揺している教師に追い撃ちをかけた。
『こんなのも分からないのか。
これでは、数学教師失格だな。
僕が代わりにやれるじゃないか。』
私に辱めを受けた教師は教室を出て行き、次の日から学校に来なくなった。
自ら退職届を提出したと聞いた。
味を占めた私は段々と過激になっていった。
学校を退出し、近くの本屋で立ち読みをしたり、動物小屋の動物を逃がした。
集金を教師の机の裏に隠して、集金が盗まれたと大騒動を起こさせた。
気づくと数少ない友達さえもいなくなり、誰も私に寄り付かなくなっていた。
日に日に学校に行く目的を失った。
そもそも勉強と引き換えに友達を一人も作っておらず、作り方も知らなかった。
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