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 暫くすると、鼻腔を擽るような匂いが花戸の鼻歌とともにキッチンの方から漂ってくる。  苦痛のような時間だった。神経が過敏になっているのかもしれない、包丁が俎に当たる音すらも俺の鼓膜には大きく響き、びくりと身体が反応してしまうのだ。  そして暫くしてエプロン姿の花戸がやってきた。 「お待たせ、間人君。……お腹、空いただろう?」 「……別に」 「俺のために気遣ってくれてるの? 間人君は本当に優しい子だね」 「……」  こいつの言葉などいちいち真に受けていては頭がおかしくなってしまう。聞き流すことに集中する。  そんな俺の肩に触れた花戸は「運んでくるから待っててね」と微笑むのだ。  花戸の手料理は一見『普通の手料理』だった。  油断はするな。もしかしたら料理の中に妙なものでも入っているかもしれない。  そう自分に言い聞かせていると、エプロンを脱いでソファーの背もたれへとかけた花戸はそのまま俺の隣へと腰をかける。  そして、料理の皿から一口分スプーンで掬った花戸はふうふうとそれを冷ますのだ。 「さあ、間人君。口を開けて」 「……」  この男の吐息のかかったものなど口に入れたくなどなかった。けれど。 「ほら、間人君」となにかを期待するようにこちらを覗き込んでくる男。この男を喜ばせるような真似したくない、けれど、しなければこの男に飼い殺しにされるだけだ。  ――これは、俺のためでもあるのだ。  そう自分に言い聞かせ、うっすらと口を開いた俺はそのまま目の前の金属スプーンに唇を寄せる。小さく開いた口の中、そのまま花戸はスプーンを咥えさせてくるのだ。  熱くはない、けれど味が薄く感じた。或いは俺の味覚が麻痺し始めてるのかもしれない。 「……どうかな、間人君」  まるで付き合いたての恋人のような、そんな甘い目でこちらを見詰めてくる花戸の視線が嫌だった。 「…………美味しい」  そう呟いた瞬間、ぱあっと花戸の表情は照らされたように明るくなる。 「そっか、良かったよ」と嬉しそうにニコニコと笑う花戸はそのまま次の分の料理も掬う。  花戸の問いかけに対し、やつの喜ぶような反応を返す。それは今まで俺が絶対にしたくなかったことだった。  この部屋に閉じ込められ、散々やつの喜ぶこと、望むことを身体に叩き込まれてきた。  気付けばやつが俺に望むことを理解してしまっていた俺自身にも嫌気が差す。  花戸との食事の間、まるで他人の食事シーンを見てるような気分だった。  花戸に甲斐甲斐しく口まで食事を届けられる様を、俺は俯瞰して見ている。だからこそ、堪えられた部分もあった。  いつでもこの男の隙きを見つけるつもりだった。けれど、一向に見つからない。  そんな苦痛な時間を過ごす内に、花戸が用意した皿の上の料理は空になっていた。
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