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 どれほど眠っていたのだろうか。  今が朝なのか夜なのか時間感覚もわからなくなっていた頃、ふわりとどこからともなく漂ってきた甘い蜜のような匂いに目を覚ます。  そして、ふに、と唇に触れる感触に息を飲んだ。 「……ごめんね、起こしちゃったかな」  そこには外から帰ってきたばかりなのだろうか、上着を抱えたままベッドに腰をかけていた花戸がこちらを見下ろしていた。  いや、と答えようとして喉が乾いたあまり声が出ないことに気付く。 「あぁ、喉が乾いたんだね。……ほら」  そう、予め用意していたらしい水の入ったボトルを当たり前のように口に含む花戸。  そのままやつの細い指に顎を掴まれ、持ち上げられた。咄嗟に抵抗しそうになるのを堪え、俺は口を開いて花戸の唇を受け入れる。 「……っ、ん、ぅ……っ」  背中を撫でる手に抱き寄せられ、そのまま舌伝いに咥内へと水を流し込まれるのだ。やつの体温でぬるくなった水を意識しないよう、俺はそれを奥へと押し流す。  これも、もういつものことだ。  普通に水を飲ませるという頭はこの男にはないのだろう。時折、空になった咥内で舌を絡ませてくる花戸に吐き気が込み上げてくるのを必死に抑え込む。  ――自由を得るため、花戸を安心させる。  そのためにやつに従う。逆らう気などなくなったと思わせなければならない。  頭の中で何度も繰り返し、ボトルが空になるまで俺はその行為を受け入れた。  今すぐにでも喉の奥に指を突っ込んで全てを掻き出したかった。腹の中を洗浄したかった。それでも堪え、花戸が求める俺を演じることを選んだ。  花戸の家にやってきて、それから実家に顔を出してからどれほどの時間が経ったのか最早俺にはわからなかった。  花戸は家にいる間ずっと俺を抱くか、触れるか、まるで家族かなにかのように振る舞い、接してきた。  そして家の中にいる間、あいつは俺に自分のことを『お兄ちゃん』と呼ぶようにと強制した。それを拒んだり、ほんの一瞬でも詰まればあいつは気分を損ねる。そして、いつもよりも乱暴に俺を抱くのだ。  それでも、当初のように暴力を奮われることも首を絞められることもなくなった。  花戸自身はなにも変わらない――変わったのは俺だ。 「侑とはどんな話をしてたんだ?」  そんなある日、いつものように人を散々犯したあの男はベッドの上、俺を抱いたままそんなことを尋ねてきた。  俺は、この男のこういうところに何よりも吐き気を覚えた。自分が殺した人間のことを聞いてくる。  最初、自分を兄と呼ばせるくらいだから兄の存在を忘れさせようとしてくるのかとも思ったがどうやら違うらしい。花戸の考えていることなど何一つ理解できないが、不愉快極まりないことには変わりない。 「……別に、大したことは」 「そんなことはないはずだよ、君たちは大層仲良かったらしいじゃないか」  思わず奥歯を噛み締めた。誰から聞いたのか、なんて聞きたくもなかった。 「それとも、もう忘れちゃったのかな」なんて言いながら背中にくっついてくる花戸。相変わらず拘束されたままの体では、花戸の腕の中から逃げ出すこともできない。  兄との、侑との思い出は俺と侑だけの思い出だ。――それを、こんなクソ野郎にこれ以上土足で踏み荒らされるのだけは耐えられなかった。 「――ああ」  それでも。そう嘘でも口にした瞬間、胸の奥深くが大きく音を立てて軋んでいく。もう二度と戻れない兄との思い出がひび割れていく。  侑が家にいるときのこと、会話、兄の表情を一度たりとも忘れたことなんてなかった。  それは、花戸のことを兄と呼んだあの日から日に日に記憶は濃くなっていくばかりだった。記憶の中の兄を支えにすることしかできないからだ。  そんな俺の本心を知ってか知らずか、花戸は嬉しそうに小さく笑った。 「……そっか、まあそんなものだよね。だって、君たちが最後に会ったのは侑が家を出る前だったもんね」 「……」 「ああ、ごめんね、間人君を悲しませたいわけじゃなかったんだ。ただ、興味があったんだ。もしなにかが分かれば俺が君のその寂しさも埋められるんじゃないかってさ」  自惚れかもしれないけど、と少し恥ずかしそうに笑う目の前の男に腹の奥からどろりとマグマのようなどす黒い感情が溢れ出す。  あまりのことに言葉を失う俺に構わずそっと抱きしめてくる花戸は「でも、大丈夫だよ」と耳元で囁くのだ。 「これからはもう寂しくないよう、一緒に楽しい思い出も作っていこうね」  ずっと、兄の復讐のことで頭がいっぱいだった。兄を手に掛けた憎むべき犯罪者だから、だから罪を償わせるために警察に突きつける。  絶対に同じところまで堕ちるつもりはない――そう思っていたのに。  自分の腹の奥、芽を出していたそれがいつの間にか大きな真っ黒の花弁をつけていた。
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