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それから毎晩、眠っていると侑の夢を見る。
侑が俺を見下ろしているのだ。冷たい目で、ただこちらをじっと。
俺はただ「ごめんなさい」と侑に泣いて謝り続けた。俺の兄はたった一人だけだ。だから、許して。そう、兄に謝り続けた。
そんな夢を見て気が休めるはずなどなかった。
飛び起きるように夢を中断させ、ぐっしょりと濡れた額を拭う。
花戸は俺の手錠を外すようになった。
とはいえど、花戸が家の中にいるときだけだ。花戸がどこかへ出かけるときにはいつも手錠をつけられていた。本人は『またこの間のように転倒しないためだ』などと言っていたが、どうでもいい。
もう少しの辛抱だ、と挫けそうになる自分を叱咤する。
そのもう少しがいつくるかは分からない。それでも、着実に前に進めているはずだ。
自由になった手を見詰めたまま、俺は寝室の扉に目を向ける。
部屋の向こうでは花戸が食事の準備でもしているのだろう。俺は小さく身体の関節を動かし、慣らした。
足の拘束を外されて久し振りに自分で歩こうとしたとき、踏ん張り方がわからなくなっていて転倒しそうになった。想像以上に俺の身体には限界がきていたことにショックを受けるとともに、早く以前のような体力を取り戻すことを努めた。
自由を得る代わりにあいつに媚び諂わなければならないクソみたいな環境で、ようやく俺は自立して歩けるまで感覚を取り戻すことができたのだ。
それでも違和感はまだある。歩く度に股の奥が痺れるように疼くのを感じながら、俺は寝室の扉に手を伸ばす。そのまま俺は扉を開いた。
窓一つない俺の寝室と比べて他の部屋は窓が多く、眩い陽射しを取り込んでいる。だからこそ余計、部屋全体が眩しく感じた。
キッチンには花戸が立っていた。
扉が開く音に気付いたらしい花戸はこちらを振り返る。その手にはターナーが握られていた。
「ああ、おはよう間人君。丁度良かった、もうすぐ朝ご飯の準備ができるから待っててね」
何かを焼いている最中のようだ。俺はそのまま花戸の元へと近付く。
「……なに、作ってんの?」
「ん? リゾットだよ。この間、君が食べたさそうにしてたからね」
「……ふーん」
「味見する?」
「ん」と小さく頷き返せば、小皿を用意した花戸はそのまま一口分取り分け、俺に「どうぞ」と渡した。そのまま顔を寄せ、犬食いする。兄だったら行儀が悪いと眉を寄せただろう、けれど花戸はただ頬を緩め、俺を見下ろしていた。
「どうかな」
「……おいしい」
「そっか、よかった。もっと美味しくなるよう頑張るからね」
花戸は空になった小皿をシンクに置く。
本当は味など分からない。恐らく美味しいのかもしれないが、舌先は麻痺したように味覚を感じることはなかった。匂いもそうだ。なにかを焼いている音から料理しているのだということが分かるくらいだ。
「わかった」と花戸に呟き、俺はそのままリビングのソファーへと歩いて向かう。股関節が痛く、真っ直ぐに歩くのは困難だった。
恋人のフリ、兄弟の真似事、家族ごっこ――不毛極まりないと思う。それでも、そうすることを選んだ。
ここまできてしまったのだ、最後まで貫くことしか俺には頭にはなかった。
「美味しいかい、間人君」
「ああ」
「そっか。……ああ、熱いだろう、貸して」
人の代わりにふーふーと料理を冷ましたあと、花戸はそのままあーんと人に食べさせようとしてくる。
俺はそれにぱくりと食いつき、スプーンの上に乗ったものを喉の奥へと押し流した。
ごくりと喉が鳴るのを見て、花戸はほっとしたように頬を綻ばせた。
「この間は冷まし忘れたせいで君の口に火傷を負わせてしまったからね、……ほらゆっくり噛んで」
「……うん」
「おかわりもあるよ。それと、スープも……ここ最近低体温みたいだったから身体が温まるスープのレシピ、ネットで調べてみたんだ」
「食後にでも飲んで」と置かれたスープ皿を一瞥する。最初の頃に比べて、花戸の料理の腕前も上がっているのだろう。肝心の味はわからないが、見栄えや盛り付けを見てもそんな気はした。
……俺にとっては興味がない。腹を満たしてくれるのなら、毒が入っていなければ全て同じだ。
何が楽しいのか、毎回花戸は俺が食事を終えるまで自分が食事をすることはしなかった。
ただ俺が料理を口に運ぶのを見て幸せそうに頬を弛めるのだ。
俺はこの時間が大嫌いだった。
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