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子猫
権藤が生まれる前、この町に越してきたばかりの妻と私は、フリーマーケットが近くの運動公園で開かれることを市報で知り、4月のある晴れた日曜日の午前、散歩がてらそこを訪ねてみたのだった。
「怯えてる」
「ああ」
春の陽光はまばゆく暖かだった。競走トラックを挟んで出店を並べ、のどかに物品を売買する人たちばかりが集うと思っていたその空間の一角で、NPO法人ののぼりを立てた木陰の小さなゲージの中、私たちは怯え切った二つの目を暗闇に見つけたのだった。
ゲージの奥では白い子猫が小さくなって震えているようだった。
NPO法人の中年の男女数名は、彼の新しい飼い主を探しているのだったが、興味を持ってゲージの中を覗き込む人たちをどこか値踏みしているようでもあり近寄りがたかった。身寄りのない猫を預かってくれる人を探すという行為そのものは褒められるべきものに違いなかったが、ゲージの中の猫の表情や近づいてきた人を黙って品定めしている中年男女のその目からは、せっかくの行為の美しさを台無しにするだけの強烈なインパクトがあった。
「私たちには飼えない。あなたは猫アレルギー」
私には喘息があったが、主なアレルゲンが猫だと知ったのは大学時代だった。それと知らず数匹の猫のいる先輩のアパートで酒を飲んでいた私は呼吸困難になり、すぐに救急車を呼ばれて一命をとりとめたのだった。私たちが一緒に暮らすのを決めた時、そのことを伝えると妻になる前の彼女はすぐに猫アレルギーについて調べてくれた。彼女は私の体の心配をしてくれたのだが、私たちの生活から一つの可能性が失われたことを私は謝った。私たちのこれからの暮らしに猫は決して現れないはずだった。
「猫は私たちが飼わなくてもきっと誰かがもらってくれる。私は始まったばかりの君との生活を葬る権利をここで行使したくない」
「私が猫を求めれば未必の故意になる。二重の刑罰を受ける気はないわ」
「すまない」
そうやってしばらく猫の様子を眺めた後、私たちがNPO法人ののぼりからそっと背を向け歩き始めたその時、妻が突然声を上げた。
「あ!」
並んで歩く私たちの足元を真っ白い鳥のようなものが、ものすごいスピードで通り過ぎて行ったのだった。
「鳥?」
「猫よ」
「猫か」
振り返ると、猫のゲージは大きく開いていた。やはり飛んできたのはさっきまでゲージの中で震えていた子猫だった。
お客のためゲージを開けた一瞬の隙をついて猫は逃げ出したようだった。NPO法人の中年の男女があたふたしている。
猫はあまた並ぶおもちゃや衣服などが入った段ボールの間をまさしく鳥のように渡り、公園の外に飛び出し、住宅街の中の一軒の生垣に飛び込み、あっという間に姿を消してしまった。
「野生ね」
「今しかないと思ったんだ」
「風みたいだった」
「風だった」
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