迷い香

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 午後五時になる手前。  日暮れ前の夏空はまだ明るくて、薄い黄色と緑の帯が淡く溶け合っていた。  本屋のバイトを早上がりした彼は、地図アプリから目的地のおおよその見当をつけ歩き始めた。  わざわざ電車に乗らずともたいていの欲求を満たせるのが、渋谷という街の利点のひとつだ。  西山茜。自身の名なのでもはやなんの感慨も湧かないが、初対面の相手には、字面の左右対称具合を面白がられることがある。狙って名付けられたわけでなく、八つの年に苗字が変わったせいなので、話す相手を選ぶのが面倒だ。  ちなみに百八十近い身丈の青年が名乗るには妙に愛らしい名前は、息子より娘が欲しかったという母親が無理を押したものなので、『名前は最初の贈り物』という言説を、茜はくそくらえだと思っている。  バイト先から十分も歩くと、目的の居酒屋が見えてきた。  前期の終わりにかこつけた、所属ゼミの飲みの予定が入っている。こうした付き合いは億劫だが、人間社会で生きる上での必要経費の内だろう。  引き戸をくぐり幹事の名を告げると、奥の座敷に通された。  がらんとした空間に先客は一人で、早く着きすぎたなと苦く思う。あえて距離を取るのも気まずい気がして、茜は結局彼の正面に腰を下ろした。 「久しぶりだね」  細面の青年がやわく微笑む。  なににも染められることのなさそうな黒髪に、夜を溶かしたような瞳。華があるとはまた違う、楚々と整った繊細な面差しは印象深く、一度でもまみえたらそうそう忘れられそうにない。  というのに、彼の名すら思い出せずいささか焦る。 (こんなやついたか……?)  覚えはない。けれど彼を知っている気がする。同じゼミの学生なのだから、当然といえば当然なのだが。 「おう」  適当に頷いてやり過ごす。  近くに座ったのは明らかに悪手だったが、いまさら移動する方が不自然だ。  どうにも落ち着かない気分で胡坐座を組む。 「元気だった?」  彼はずいぶん懐っこく、親し気に声をかけてくる。それが余計に茜の気分を波立たせた。 「ああ。そっちは?」 「僕は相変わらずだよ」  中学で習う英会話のお手本みたいなやり取りだった。大学入試で使って以来、英語とは疎遠になっている茜には、それはなによりの英語表現は思いつかなかった。 「二人とも早いね」  投げかけられた穏やかな声に感謝する。声の主は正面に座る彼でなく、店員に案内されて現れたゼミの指導教員だった。  准教授の肩書を持つ菊池の専門は、一応民俗学ということになっている。一応と但し書きがつくのは怪異というニッチな分野に彼の興味が絞られているせいだ。  三十過ぎにはとても見えない中性的な童顔は、ともすれば気安い友人のような錯覚を引き起こす。  菊池は名の知れない彼の隣、茜の斜向かいに腰を下ろすと、ドリンクメニューを広げて置いた。 「君たち一杯目はビール派? 遠慮しないで好きなの飲みなね」  彼とふたりという気詰まりな状況から解放され、茜はそっと息をつく。  ばらばらと学生が揃い始めると、気まずさはやがて霧散した。  菊池の呼びかけで彼が橘という名だと、知るのに時間はかからなかった。橘。聞いてしまえばしっくりと身に馴染む。  目が合うと、彼はやわく微笑んだ。その度に、慈雨という言葉が脳裏をよぎった。慈しみの静かな雨。懐かしいようにも、縁遠いようにも感じられる、ぬるい温度を持ったそれ。  頻繁に視線が絡むのは、自分がそれだけ相手を見つめているせいだとは、ついぞ茜は気付かなかった。
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