迷い香

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「子どもの頃、雨の日にしか会えない友だちがいて」  水を向けられた橘の語り出しは滑らかだった。  話題は『これまでに経験した不思議な出来事』。もちろん菊池の趣味が反映された結果である。 「雨の日?」  参加者の誰より学生らしく見える准教授が、ハイボールを傾ける手を止めた。 「はい。梅雨入りくらいの時期に出会って、毎日のように遊んでたのが、梅雨が明けるとぱったり姿を見せなくなって」  ケチャップに浸したポテトを齧りながら、どこかで聞いた話だと思う。  かつて四国の片田舎に住んでいた頃、茜にも雨の日にしか会えない友だちがいた。正確には、雨の日にしか友だちだったけれど。  両親が離婚して間もなく、茜は母の生家がある山間の集落に移り住んだ。祖母は健在だったけれど、日常生活に不便を感じ、いくらか山を下った先に一人で居を構えていたから、庭付きの大きな家は親子二人のものになった。  母にとって、茜は邪魔なようだった。二人になり、目を逸らしたかった事実から目を逸らすことができなくなった。茜は極力家に寄り付かないようにした。部屋の隅で息をひそめているよりは、いっそ屋外に出ていた方が安全だった。  晴れの日はいい。川辺なり広場なりに足を運べば誰かがいて、日暮れまでは遊んでいられる。  けれどひとたび雨が降ると、帰る場所のある友人たちはみんな家に帰ってしまう。彼らを見送り、ぽつんと取り残された茜は、一人雨に濡れながら膝を抱えているしかなかった。  そんな生活も身に馴染んだ十の年のことだ。橘が話すのと同じ梅雨の時期。  退屈に倦んで足を踏み入れた裏山で、古びた神社に迷い込んだ。  裏山なんて子どもたちの庭みたいなものなのに、それまで一度も辿り着いたことのない場所だった。  雨と、知らない花の淡い香りが、辺りを包み込んでいた。  そびえる木々に守られた境内の奥、大きくはない拝殿に、茜と同じ年頃の子どもがぽつんと一人佇んでいた。  夜を丁寧に折り重ねた髪と瞳に白い肌。祭りで見かける浴衣とは趣の異なる綺麗な白い着物を着た、どこか浮世離れした空気を連れた少年だった。  忽然と現れた鳥居の下で立ちすくむ茜を手招いて、遊ぼうよと彼は笑った。  かくれんぼは彼の独壇場で、鬼ごっこは茜の方が強かった。  そうして過ごした別れ際、彼は茜に秘密を課した。ここのことも僕のことも内緒だよ、と。またおいでと送り出してくれた手のひらは、乾いているのに妙にひやりと冷たかった。  遊びの輪を一人抜ければ不審を買う。誰にも内緒という約束を守ろうとするならば、彼のもとを訪れるには雨を待つ他になく、雨の季節が終わってしまうと途端にその機会は失われた。  だから、雨の日にしか会えない友だち。 「次に会えたのが台風の日で。さすがにどうかと思ったんですけど、台風でも雨であることには変わりないし。会えたらいいなぐらいのつもりでいつもの場所で待ってたら、やっぱり会えたんですよね」  それが妙に印象的でと橘は言う。 「雨の日なんてなにして過ごすの? やっぱりゲームとか?」 「いえ、辺りの探索やかかくれんぼでした。僕もその子もゲーム機とか持ってなくて」 「へえ」  探索という単語につられ、ふと記憶が蘇る。  茜もよく少年とふたり、裏山を歩き回った。  彼は山に詳しくて、実りたての青い木の実や見落としそうな花の名前をひとつひとつ教えてくれた。岩に潜むトカゲや、葉に擬態したカエルなんかを見つけるのも、彼は一等上手かった。  神社から少し歩いたところに秘密基地めいた洞窟があって、よくその中に潜り込んだ。山肌が削れただけの穴なのだけれど、天井の一部が天窓みたいに開けていて、雨と光が溶け合いながら差し込んでくる光景が好きだった。  今思えばなんて危ない遊びをしていたんだと肝が冷える思いだけれど、彼がおいでと導いたから、不安になんて思わなかった。  薄暗いのにどこか眩しい空間で、取り留めのないおしゃべりをした。  学校での出来事や友だちとのやり取りを彼は熱心に聞きたがった。  ゲームやテレビや漫画みたいな、到底手の届かないものの話題に話を合わせなくていいだけで、茜にとって彼は特別心地のいい相手だった。  そういえばと、最後の日を思い出す。  夏の晴れ間が続いていて、しばらくぶりの荒天だった。道中はひどい豪雨に閉口させられたけれど、裏山に着く頃には優しい霧雨に変わっていた。  いつもの場所に彼はいて、あの日もふたり、洞窟で過ごした。  夕闇の気配が濃くなる手前で帰ろうかと彼が言った。彼はいつもそうやって、日のあるうちに茜を家に返そうとした。  座り込み、返事をためらう茜に感じるものがあったのだろう。  洞窟の入り口で、どうかした? と彼が尋ねた。 「帰りたくない」  細い声での訴えは、半分が本当で、半分が嘘だった。茜に張れる精一杯の虚勢。  帰れないというのがもう半分の本当だけれど、帰ってくるなと言われたなんて、親に手を離されたなんて、自分と同じ年頃の子どもに持たせていい荷物ではない。  強がりは、たぶん透けていたと思う。  彼には妙に大人びた部分があって、気付けないほどのさりげなさで確かに甘やかされていた。  優しいだけの目の色が、いたわるように茜を映す。 「一緒にいようか」  やんわりとした甘い微笑み。  あっけなく許されたことに面食らう。  惚ける茜に手を差し出して、彼はただ待っていた。  粒の細かい霧雨が、ベールみたいに彼の背後を霞ませる。  選んだのは茜だった。  掴んだ手は雪のように冷たくて、けれど縋る先のあることが、言い知れぬ安堵を連れてきた。  手を引かれ、隠れ家を後にした。  彼について覚えているのはそこまでだ。  その後の記憶は一切ない。ただひどく満ち足りて、幸福だった感覚だけが、胸の片隅に息づいている。 「楽しくて、夢中になって遊んでたら、大人の人がいっぱい来て、その子を連れていっちゃって」  以来もう会うことはなかったと、ふつりと糸を切るように、橘の話は終わりを迎えた。 「なるほどね。雨の日は怪異に出会いやすいタイミングではあって、雨降り小僧や豆腐小僧、子どもの姿を取らないものではすねこすりなんかもそうだけど、雨をきっかけに現れこそすれ、人に害を及ぼさないものが多いんだ」  その視点では確かに興味深い『友だち』だけれど、大人に連れていかれたという部分が不可解だなと、なにごとかを考え込むらしい菊池の声を遠く聞く。  大勢の大人に連れ帰られた。その光景がなぜか眼裏にちらついている。  夏の盛り。空は綺麗に晴れていた。神社の白い境内に咲く、控えめなカラタチバナ。知らない大人たちに囲まれて、ひどく気遣われたのを覚えている。  どれだけ辺りを見渡しても彼の姿は見つからず、晴れているせいだろうかと泣きそうになりながら人垣の向こうに目を走らせた。  神隠しという言葉はそこで覚えた。  もう何日も行方知れずになっていたとはあとから教えられたことだ。  茜の姿が見えないと、友人たちが口々に家族に訴えて、そこから騒ぎになったのだという。当然ながら、母親からは届け出一つ出されてはいなかった。  祖母に引き取られることになったきっかけの記憶。  ふと、表から水を跳ね上げる音が聞こえた。車が水たまりを踏んだ音。  見遣った窓は水滴に覆われ、色とりどりの通りの光を鮮やかに滲ませていた。  橘がふわりと甘く笑う。  どこかで見たような笑みだった。  儚いような花の香が、ふと鼻腔に香った気がした。
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