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雛鳥は蚯蚓を喰らう
「もう家に来なくていいから。ううん、来ないでちょうだいな。あの子が落ち着くまで。あの子はね、父親がいなくなってからお前を父親だと思っていたからね。多分反抗期なんだろう。でも、赤の他人のお前にその役を負わせるわけにはいかないんだ。あの子が好きなら、どうか落ち着くまでそっとしておいてくれないか?」
(そう姐さんは言ったが、真実は違う。それを言えずに甘える俺は卑怯だが、坊ちゃんの為には俺がそばにいない方がいい。最近特に俺を嫌いになったようだった。だからこれでいいのだ)
久しぶりに大磯は一人で朝の時間を過ごしている。事務所に行くのは正午でいい。
大磯の自宅は必要最低限の生活用品しか置いていない。なぜなら自分の事は後回しになっていたからだ。
趣味もない、女もいない。それに構う余裕はなかった。
随分前に大磯が恩を感じていた男が幼い子供と女房を残して死んだ。
突然の事で狼狽する女性と、何も解らない子供を捨てるわけには行かなかった。
悪い奴らは「今がチャンスだぜ、この好きにお前が一番上になればいい」と忠告したけれど、大磯は自分の器の限界も弁えていたし、なにより、「おじさん」と可愛い笑顔で懐いてくれる雅哉が不幸になるなどということはあってはならなかった。
咲子と雅哉を守るためならなんでも出来た。
売女のように男に抱かれもした。構うものか、原価無料だ。心がすり減るだけなら安いものだと大磯は思った。
苦労したおかげで実年齢よりも大分老けて見えるし、白髪も多い。
(勝手に俺がやりたいからやっただけだ。ヤクザ者が疑似家族を楽しんだだけだ。それが終わっただけさ。そう思えばいい)
大磯の心は意外にも冷静だった。というよりも、いつかあの家に行けなくなるという覚悟ができていただけだ。ただ、いつも早く起きてあの家に行き、雅哉達と食卓を共にしていたのでどうも時間が過ぎるのが遅く感じる、と思った時、玄関からドン、と鈍い音が聞こえた。
「おい!いるんだろう!」
見知った声が聞こえてもう一度ドアを蹴り上げる音がする。まさか、と大磯は思った。
「おい、みみず!」
そう呼ぶのは雅哉だけだ。慌ててドアを開けると、いきなり頬を拳で雅哉が殴る。反応できずに思わず数歩下がるとそのまま腹にもう一発重いパンチを食らった。
体が勝手に膝から崩れ落ちる。
「てめえ……安心してたんだろう。お袋に守られやがって。…逃げられると思うなよ」
「ぼっちゃん」
「うるせえ、なんだよお前。なんなんだよ。気味が悪いんだよ」
「すみません、すみませんでした」
「なにを謝ってるんだお前は。ちゃんと俺に言ってみろ」
大磯は冷酷に話す男の顔がまともに見れない。腹の痛みと、心の痛みだ。
それでも、贖罪はせねばならぬ。大磯はゆっくりと息を吐きながら呟いた。長年の思いがこみ上げて、声が自然に上擦った。
「私が、ここで気持ち悪い物を見せてしまったから、です。男と、寝ている私を見て坊ちゃんはトラウマになられたんですよね。坊ちゃんは私を気持ち悪いと思っているのに、のこのこ家まで押しかけて……さぞ嫌な思いをしていたでしょう。すみませんでした。ぼっちゃん…私は貴方が成人するまでは、と思っていましたが。それは叶わない夢のようだ。もう、二度と姿を見せません。どうぞ安心してください。どうか…坊ちゃん、姐さんをよろしくお願いします」
大磯はそう告げながら頭を下げた。
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