子どもの頃のトモ...ダチ...

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『それ』を言われた時、巧妙なナンパなのだと思った。 「...カオル?」 読んでいた本から顔をあげた。それは確かに自分の名前だったからだ。しかし、向かいの男に、見覚えはなかった。真っ直ぐに見つめてくる黒い瞳にも、少し長めの癖のある黒髪にも、覚えはない。 だけど、なんとなく好ましいような気はした。 「どちら様でしょうか。」 「俺だよ、ア・キ・ト。ガキの頃よく遊んだじゃん。」 言われても、心当たりはなかった。致し方ない。人は忘れる生き物だ。子どもの頃のことなんて、尚更留めておくことは難しい。 それは、生きる上で仕方のないことであり、必要なことでもある。 「申し訳ありません。心当たりがないのですが。」 「マジかぁ。ショックだな。」 男は本当に傷付いたように眉尻を下げた。黒い瞳が少しだけ潤んでいる。それを目にした途端、何とも言えない罪悪感が胸の中に広がった。しかし、それでも目の前の男のことはわからない。 「じゃあ、あれも覚えてないんだな。」 男は勝手に向かいの椅子に座った。タイミングをはかったかのようにやって来たウェイターに向かい『コーヒー、アイスで』と呟く。僕は読んでいた本に栞を挟んで閉じ、鞄にしまった。 少し頭を下げたウェイターが去るのを待って、彼は口を開いた。 「結婚して、ずっといっしょにいるって約束。」 「......はい?」 思わず聞き返した。衝撃的な言葉だった。ありえない。目の前にいる男と結婚の約束、だなんて。そんなものするはずがない。 これは男の策略だ。時々あるのだ、こういうナンパのようなものが。今回は特殊だけれど。 だけど、彼の気持ちもすぐに収まる。そう思いながら口を開く前に、彼に先を越されてしまう。 「俺たちは両想いなんだよ。だったら当然そうなるだろ?」 「いや...え。」 男はさも当然という顔でこちらを見ている。その黒く隙なく煌めく瞳には、一点の曇りもないことに、いっそ恐怖を感じる。 男は『両想い『なん』だよ』と言った。『だった』ではない。結婚の約束という全く身に覚えのないものは、彼にとっては今も有効なのだ。 随分と熱烈な男なのだろう。ならば尚更、早く『教え』なければ。 そう思いながら、今度こそと、口を開こうとした。 「しかし、驚いたな。」 それはかなわなかった。 また、先を越された。男はこちらをじっと見つめてくる。真っ直ぐな黒い瞳に見つめられると、むず痒い気分になる。そのまま口を開くタイミングを失っていると、彼が先に口を開いた。 「カオル、男だったんだな。」 空気がピシリと凍った。しかし、それを感じているのは僕だけのようで、男はそのまま巻くし立て始めた。 「カオルって話し方も雰囲気も優しくて穏やかだからな。なんとなく女だと思ってた。名前もどっちにもある感じだし。ガキの頃は大差ないしな。今はさすがに骨格でわかるけど。そっか、男か。だったらすぐに結婚は難しいな。法律変えさせるか、何か別の手段で」 「アキトさん。」 僕は完全に面食らっていた。だからといってこのままにしてはおけない。そんな覚悟を持って口にした渾身の呼びかけに、男はわかりやすく顔を輝かせた。 「もしかして思い出し」 「違います。あなた、さっき名乗ってたでしょう。それで覚えていたのです。僕、結構記憶力いい方なんですよ。」 男には本当に聞こえないだろう僕の言葉に、彼は不満げに眉をひそめた。思った通りの反応だ。 「そうでもないだろ。俺のこと覚えてない」 「ええ。覚えていません。あなたの狂言だと思っているぐらいです。」 男はまた、悲しそうに眉尻を下げた。少し胸が痛むけど、仕方がない。 「そんなわけないだろ。」 「ですが、こちらは何も覚えていないのです。時々あるのですよ。大抵は女性と勘違いして声をかけてくるのですが、男だと明かしても、『構わない』等と言われることが。僕は正直、あなたも同じようなものだと思っています。」 男の眉がつり上がった。黒い瞳が鋭い。しかし、その奥に簡単に悲しげな色が見てとれて、僕はまた罪悪感を抱える羽目になる。 「そんな輩と一緒にすんな。...だが、カオルから見たらそうだよな。覚えてないんだもんな。悪かった。」 男は簡単に謝ると、はぁ、と大きなため息を吐いた。そのタイミングで先程のウェイターがコーヒーを持ってきた。軽く会釈をしてそれを見送った男は、そのままストローで中のアイスコーヒーを啜る。 それに合わせて、僕もしばらく放置していた紅茶のカップに口をつけた。 「俺さ、ずっとカオルに会いたかったんだよ。急にいなくなっちまってから、ずっと。だから、舞い上がっちまった。」 ストローから唇を離した男は、僕の目を見て力なく笑った。彼に会ってから燻り続けている罪悪感とともに、僕は確信した。 彼が言っているのは、本当のことだ。巧妙なナンパ等ではない。僕は子どもの頃、急に住んでいた土地から離れたことがある。 そもそも彼は僕の名前を知っていたから、始めから軽薄なナンパでないことはわかっていた。名前を調べてから声をかけるという巧妙なナンパなのかと思っていたが、そうでもないようだ。 とはいえ、頷くわけにはいかない。わかりやすい幸せのレールから人を外れさせる趣味はない。それに何より、あの頃のことは思い出したくない。 仮にこの『アキト』という男が、子どもの頃、うっかり結婚の約束をしてしまう程、掛け替えのない相手だったとしても。 「まぁ、仕方ないよな。正直すっげぇショックだが、これからと」 「僕には同性と恋愛をする趣味はありません。結婚も。よって、僕をそういう目で見ているあなたと友情を育む気もありません。あなたはおそらく、そこからの発展を期待するでしょうから。」 嘘はなかった。僕には同性と恋愛をする趣味はない。しかし、異性も同じだった。恋愛もそうだけど、その先の『結婚』というものに、僕は良いイメージを抱けない。 男は、一瞬罰の悪そうな顔をしてから、すぐに悲しそうに、また眉尻を下げた。 「友達にもなってくれねぇの?」 「たった今、そう申し上げたはずです。」 「じゃ、顔見知りとかでいいから、とりあえず連絡先教えてくれよ。」 男が右手にスマートフォンを持っているのが目に入った。これ以上関わりたくない。しかし、このままでは連絡先を交換するまで解放してくれないだろう。だけど、そんなことをすればしつこく連絡される未来は、簡単に想像できる。 彼はきっと、僕に強く執着している。何せ、子どもの頃の思い出を引きずっている程だ。僕は何一つ覚えていないのに。 「顔見知り程度の人と連絡先の交換はしません。」 「は?じゃあ、知り合いで。」 「知り合いともそうです。」 「なんだよ、そんなに俺と関わりたくないのか?」 男は不満げに唇を尖らせる。目も鋭さを増しているが、悲しげな色が圧倒的で、僕は罪悪感から逃れられない。 「というか、連絡先なんて教えたら、あなたしつこく連絡してきそうなので。」 「そ、んなこと、しねぇよ。」 わかりやすい。そもそも、連絡をする気しかないから、こうして尋ねてきているのだ。この男はおそらく、連絡する気のない相手に、上辺だけでもそれを尋ねることはないだろう。 「僕は関係を深める気のない相手と連絡先の交換等しないので、あなたともしません。」 「なんだよ、俺はずっと」 「あなたとはこれっきりです。今後会うこともないでしょう。」 伝票を手にする。もちろん、男が飲んでいたアイスコーヒーの分も纏めて。これは、罪滅ぼしだ。僕の中で燻っている彼への罪悪感を紛らわせるための。 男の手が伝票を持つ僕の左手に伸びる。それをあっさりかわして席を立つ。 そして、簡単に僕にすがる言葉を吐くはずの男の口が開く前に、今度こそ先に口を開く。 「僕はあなたのことを何も覚えていないので、正直怖いのです。知らない人に急に求婚等されたのですから。」 男の顔も目も見なかった。声も少し震わせる。これが、恐れている人間に対する『適切な』反応だと考えたからだ。 「もう関わらないでください。」 呟くように言って、足早に去る。男は追って来なかった。僕は会計を済ませて、そのまま喫茶店が見えないところまで急ぐ。 「はぁ。」 十分距離を取ったところで、盛大なため息が漏れた。緊張していたみたいだ。だけど、上手くいった。 男が口にしていたのは、本当のことだろう。そして、男は僕のことを本当に大切に思ってくれていて、それは同性だとわかっても、『結婚』を考える程には確固たるものだ。 だからこそ僕は彼に諦めさせなければならなかった。僕は恋愛にも結婚にも何の希望も見出だせない。僕は彼の気持ちに応えられない。ならば、長年に渡り彼の中に蔓延っているその想いは、さっさと捨て去って貰わなければ。 そのために、彼の気持ちを利用した。 彼の気持ちが、僕を怯えさせているとなれば、彼はそれを諦める。何せ僕が述べた彼の気持ちを軽く見積もった言葉にさえ、僕の立場を鑑み、素直に謝れる程には視野が広く、優しいのだ。 罪悪感が僕を蝕む。やはり彼のアイスコーヒー代を払っただけで、紛れるものではなかった。 だけど、仕方がない。悪戯に期待させるよりはマシだ。これで僕のことは諦めて、幸せになってくれることを願う。 本当はほんの少しだけ、彼のことが気になっていた。真っ直ぐな煌めく黒い瞳が、酷く綺麗だったな、なんて思っている。 だけど、そんなものには、簡単に目をつぶれる。 何より僕は、子どもの頃のことなんて、思い出したくない。その引き金になりそうな彼と関わるのは、どう考えてもアウトだ。
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