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【01】朝の風景――現在
鏡を見て、ギョッとした。
土気色の肌をした、ゾンビみたいな女が映っている。
ああ、なんて酷い顔。
怠い身体をなんとか動かして、キッチンに向かう。冷蔵庫の扉を開けてアイスコーヒーのボトルを取り出し、グラスに注ぐ。いつもはたっぷり入れるミルクは、敢えて少なめにした。冷たいコーヒーを、一息で飲み干す。鼻に抜ける酸味と舌に残った苦みで、少しだけ目が覚めた気がした。
洗面所に戻り、冷たい水で顔を洗う。
タオルで顔を拭きながら、改めて鏡をチラリ。
本当に、酷い顔だ。ボッタリと腫れた瞼に、赤く充血した白目、濁ったような黒目。その下には青黒いクマが、くっきりと刻まれている。顎も頬も不気味なまでに浮腫んで、いつもよりずっと不細工だ。
なんて醜い顔なんだろう。
こんな顔で優也に会いたくないなぁ。
そう思うと、鏡の中のあたしの顔はますます歪み、ブスに拍車がかかる。
あたしは気を取り直して、両手で頬を叩くと、パンパンッ、と小気味いい音が響いた。
いけない、いけない。
こんなんじゃ、ダメ!
今日は、道子先生に会うんだから。
パンッ、と、もう一度強く叩いて、鏡の中の自分を睨みつける。
それから改めて、顔を洗った。冷たい水で引き締めて、気合を入れ直したかったのに、蛇口から流れる真夏の水は、もうぬるくなっていて、ちっとも役には立ってくれなかった。
朝食は食べる気がしなかったので、ヨーグルトだけにした。四連のカップをパキンと折って、一つだけ取り、残りは冷蔵庫に戻す。蓋を開けるとほのかな苺の香りを感じて、ようやく少し安心できた。
クローゼットを開けて、白いお気に入りのワンピースに手をかける。今日はこれを着ていこうと、前から決めていた。でも、どうしても着る気分になれない。しばらく迷ったけど、やっぱりやめることにした。代わりに選んだのは、シンプルなグレーのワンピース。飾りっけもなくて寂しいけれど、これなら顔色の悪さも、酷い醜さも、少しは誤魔化してくれる気がする。せめてもの悪あがきに、黒いレースのチョーカーをつけた。
念入りに歯を磨いて、薄化粧を施したころ、インターフォンが鳴った。優也だ。
あたしはもう一度顔を叩いて、誰にともなく「よし」と呟いた。鏡で髪型をざっと確認して、玄関に向かう。
扉を開けると、湿気を帯びた熱が、一気に室内に流れ込んできた。むわあっとした湿度は重たくて、息が詰まりそうになる。
「おはよう。繭。迎えにきたぞ」
そんな中、優也はやっぱり涼しい顔で言った。
背中に受けた朝日が、後光のようだ。
すごく、眩しい。
この人は、いつだって綺麗だ。
涼しげで、穏やかで、凛として美しい。
どうしてなんだろう。
悪夢を見たりしないんだろうか。
酷い顔だと、悩むことはないんだろうか。
そもそも疲れることすら、ないのかもしれない。
目の下のクマも、げっそりやつれた姿も、無様に浮腫んだ顔も。
あたしはほとんど、見たことがない。
一度だけ。
疲れ果てた、やつれた優也を見たのは、たったの一度。
あの夏、事件のあったあの時だけだ。
「どうした? 繭?」
不意に聞こえた声で現実に帰ると、目の前に優也の顔があった。
心配そうな瞳が、あたしを見つめている。
まじまじと顔を眺めていたから、不審に思われてしまったのか。
「ううん。なんでもないよ」
笑ってそう答えたのに、優也はもっと心配そうになって、あたしのおでこに触れてきた。
「顔色が悪い。熱でもあるのか。今日キャンセルするか?」
あたしは黙って首を振る。
「寝不足なのか?」
「うん。ゲームやりすぎちゃった」
普段からゲームなんてやらないのに、そう答えた。
悪夢のことは、絶対に知られたくなかったから。
見え見えの嘘だったのに、優也は何もつっこまずに、優しく笑って、
「わかった。じゃあ、熱中症厳重注意だ。水分補給と塩分。水と塩飴は持ってるから」
と、黒いバッグを叩いて見せた。
きっとその中には、あたしのお気に入りメーカーの氷水出し緑茶が、最低二本は入っているんだろう。あたしの好きな、梅と檸檬の塩飴も。
そういうところが、過保護なんだろうと思う。
だけど、あたしはそれが嬉しくて、同時に申し訳なくも感じていた。
あたしは黒いショルダーバッグを肩にかけ、靴を履いた。忘れないように置いておいた紙袋を持ち、鍵をかける。黒猫モチーフのバッグチャームが、チャリ、と音を立てた。
「お待たせ。行こう」
エレベーターに向かって歩き出すと、優也の腕があたしの手から紙袋を奪った。
「重くないんだから、いいのに」
「持ちたいから持ってるんだ。気にするな」
ふくれて抗議してみても、とりあってなんかくれない。
一応、小さく肩をすくめて見せてから、あたしはエレベーターのボタンを押した。
紙袋の中には、道子先生への手土産が入っている。
都心の百貨店にある洋菓子店のフィナンシェ。すごく美味しいのだけど、とにかく並ぶことで有名なお店だ。持っていきたいけど買いに行けないなぁ、なんて思っていたら、数日後、優也が用意してくれた。一体、いつ買いに行ったのか……どこに、そんな暇があったのか……。不思議で仕方なかったけれど、おかげで道子先生に食べてもらうことができる。甘いものが大好きな先生は、きっと喜んでくれるに違いない。あたしは何度も、優也に『ありがとう』と言った。
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