【02】道子先生――回想

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【02】道子先生――回想

道子先生は、あたしのカウンセリングの先生だ。 事件の後、あたしはしばらくの間、カウンセリングを受けることになったのだ。 あんなことがあったのだから、当たり前なのかもしれないけど、あたしは『できれば受けたくない』と思っていた。聞いたこともない『カウンセリング』というものは、とても恐ろしいもの思えたし、『カウンセラーの先生』には、キツネ目で銀縁眼鏡に白衣の、怖い研究者みたいなイメージを持っていたのだ。 でも、実際には違った。 初めて会った『カウンセラーの先生』は、茶色い髪を束ねた優しそうな女の人で、眼鏡も白衣も身に着けてはいなかった。 『あなたが、繭ちゃんね?』 そう言って微笑みかける顔は、写真の中のお母さんに似ているような気がした。もっとも、道子先生の肌は、健康的な小麦色だったけれど。 そうしてあたしは道子先生と出逢い、何回か『カウンセリング』を受けた。といっても、その内容がどんな意味を持っていたのかは、未だによくわからない。 毎週決まった時間になると、叔母に送られて先生の部屋に行く。叔母はどこかに出かけて行き、あたしは道子先生と二人だけでお話をする。時には、絵を描いたり、問題を解いたりすることもあった。そうして一時間ほど過ぎると、また、叔母が迎えに来る。 道子先生と叔母が、なにやら難しそうな話をしていたこともあった。けれど、何を話していたのかは知らされなかったし、特に知りたいとも思わなかった。 道子先生の部屋には、いろんなモノが置いてあった。本棚には、レンガみたいに分厚い本と、小さい子供が読むみたいな文字もない絵本が、お行儀よく並べられていた。かわいいお人形や、動物の置物、見たこともないような形のオモチャもあった。水と砂が入った大きな容れ物に、理想のお庭を造って遊んだりもした。 『これはだぁれ?』 あたしがお人形を選んだり、お絵かきで誰かを描いたりすると、道子先生はすごく不思議そうな顔をして、首を傾けて聞いてきた。興味を持ってくれているのがよくわかるから、あたしは嬉しくなって、毎回大きな声で答えていた。 『これは、あたし。こっちは、優也』 『優也くん?』 『そう! あたしのお友達なの』 『そっかぁ。お友達かぁ』 『先生って、変ね。何回言っても、憶えられないの?』 『う~ん、そうねぇ。そうかもなぁ』 『いいよ! 何回でも教えてあげる!』 こんなやり取りのあと、先生は決まってこう聞いた。 『他には、誰かいるのかな?』 答えも、いつも決まっていた。 『いないよ。あたしと、優也だけ』 あたしがそう言うと、道子先生はちょっとだけ目を細めて笑った。 それが嬉しいからなのか、哀しいからなのか、当時のあたしにはわからなかったし、正直言うと今もわからない。 ただ、どんなことでも褒めてくれる道子先生のことが、あたしは大好きだった。 カウンセリングは、あたしが中学を卒業するまで続いた。 最後の面会で『もう大丈夫よ。頑張ったね』と言われた時には泣きそうになってしまったけれど、ここで泣いたら先生に心配をかけてしまうと思って、ぐっと我慢した。『ありがとうございました』と頭を下げたあたしに、道子先生は優しく微笑むと、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。先生に撫でられたのは、それが最初で最後だった。 それから、数年後。高校生になったあたしの元に、一通のハガキが届いた。差出人は『葉山道子(旧姓:平塚)』、道子先生の結婚の報せだった。ハガキには結婚式の写真が使われていて、純白のドレスを着た先生とタキシード姿の男性が、仲良く腕を組んで笑っていた。 久しぶりに見た先生の笑顔に目頭が熱くなったのは、きっと気のせいじゃないと思う。 写真の周り、花や鳥のイラストと一緒に印刷された『結婚しました』という文字の下に、直筆のメッセージがあった。 『繭ちゃん、元気ですか? 運命の人とは出逢えたかな? 私はこんなのに捕まっちゃいました。道子』 こんなの、なんて書いてるくせに、道子先生の顔は幸せでいっぱいに見えた。素直じゃないなぁ、と思わず笑ったとき、ハガキの隅の小さな文字に気づいた。 『追伸・引退して専業主婦になる予定。よかったら遊びに来てね』 その言葉を何回も読み直して、あたしは、ハガキを宝箱にしまった。 先生に会いたくなかったといえば、嘘になる。 本当は、会いたかった。 直接顔を見て『おめでとう』と言いたかった。 けれど、なぜか、そうしてはいけない気がした。 道子先生はカウンセラーで、あたしはその患者。 まだ幼くて、精神的にも不安定だったあの頃とは違って、もう一人でも平気なのだから、むやみに頼ってはいけないと思った。それに、その時にはもう、優也とも再会できていた。 あたしは先生に返事を書いた。先生の好きそうな、紫陽花模様のハガキを選んだ。青色のペンで、文字を綴った。感謝の気持ちを、いっぱいこめて。 『ご結婚おめでとうございます! 私はとっても元気に過ごしています。毎日が平和で退屈なくらい。これも、先生のおかげです。だから、心配はご無用! 素敵な旦那様とお幸せに! 私も、優也と再会できました』 本当は、平和な毎日ではなかった。ストーカーが現れたのがその頃だったから。 でも、それを伝えてもどうにもならないと思ったし、心配をかけたくもなかった。 それに、なぜだかはわからないけれど、このことを知られてはいけない、という、強迫めいた気持ちがあった。 けれど、会うつもりのなかった道子先生の家に、あたしは今日、優也と共に向かっている。
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