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【01】綾瀬繭――現在
「まゆー、また来てるよ、彼氏」
化粧をしていた手を止めて、呆れたように蘭が言った。
あたしは、窓の外に視線を投げる。
陽炎で揺れる校庭の向こう、正門の横に佇む背の高い影が見えた。
「もう! 優也は彼氏じゃないって言ってるでしょ」
抗議したけど、返事はない。
振り向いてみたら、蘭はもう、化粧を再開していた。
今言った言葉なんて忘れたみたいに、至近距離から鏡を覗き込みながら、真剣な表情でアイラインを引いている。
慎重すぎるその動きを見て、思い出した。
今日の合コン相手は、進学校K高校の男子だっけ。イケメン揃いってことで有名な学校。しかもエリートばっかりとか。
そりゃ、チークもアイラインも抜かりないはずだ。
けど、無視されるなんて、納得いかない。
「蘭ってば! 聞いてる?」
「あー、うん。聞いてる聞いてる」
嘘だ。
絶対に聞いてない。
不機嫌オーラ全開で睨みつけていたら、アイライナーをしまった蘭が笑って言った。
「てかさ、彼氏より凄くない?」
「なにが?」
「普通するか? 毎日、送り迎え」
「それは、あたしがストーカー被害にあってるから……」
「いや~、でも過保護すぎっしょ。彼氏、どこ住みよ?」
「だから、彼氏じゃないってば!」
聞く耳もたないって態度にちょっとイラついて、口調が少しだけ強くなってしまった。
けど、蘭はそんなことは気にも留めない様子で、ポーチからビューラーを取り出すと、また鏡を覗きこんだ。いつもより入念に、何段階にも分けて、睫毛をカールさせていく。そこに、ボリュームアップのマスカラを乗せながら、こちらを見もせずに言った。
「まゆはさぁ、甘やかされ過ぎなんだよなぁ」
その言葉に、胸の奥がチリッと鳴った。
「送り迎えしてくれんの、当たり前になってんじゃん? けど、全然アタリマエじゃないって。近くに住んでるわけでもないのに、毎日って。朝何時に起きてるんだって話よ。アリエナイ。ストーカーのこと差し引いても、過保護。キング・オブ・過保護」
それは、全くその通り。
優也があたしに過保護気味なのは、認めざるを得ない。
返す言葉が見つからなくて、あたしは黙り込んだ。
『罪悪感』
そんな言葉が、じわじわと心を支配してくる。
違う、そうじゃない。
あたしたちの関係は、そんなんじゃない。
「優也くんって、まゆのお父さん殺した男の息子なんでしょ?」
蘭の無邪気な言葉は、あたしの心に容赦なく突き刺さった。
「まゆにすっごい負い目あるんじゃないのー? 加害者の息子が被害者の娘に優しくする……。当たり前っちゃぁ当たり前かもだけど、でも、変な関係だよねー。そもそも会わないっしょ。親の仇の息子となんて」
蘭の言うことは、真っ当といえば真っ当。
普通は親の仇の息子なんかと、会いたいと思わないんだろう。
でも、優也とあたしは違うのだ。
『被害者の娘』と『加害者の息子』ではなく、『綾瀬繭』と『成海優也』。幼い日から、互いに、唯一心を許せる人間。
あの別荘地で初めて会った日のことは、ずっと忘れない。
その後どんな事件が起きたか、二人の立場がどう変わったかなんて、そんなことは関係ない。
あたしたちは、一生、仲間であり、親友なのだ。
でも。
優也があたしに負い目を持っているのも、確かだろう。
こうやって送り迎えしてもらうのは嬉しいけれど、そこに付け入ってるのだと思うと、気が引ける。
暗い気持ちになってきたあたしの耳に、不意に笑い声が飛び込んできた。
「ぷっ! なんか、百面相してるし」
見ると、右目だけが不自然に大きくなった蘭が、楽しそうに笑っていた。
「まゆってば、やっぱ変わってる」
そう言って、蘭はまた、鏡に向かい合う。
あたしはカバンを手に席を立ち、鏡越しに言った。
「送り迎えは、今日までにしてもらう」
「おー。それがいいよ」
決意の宣言も、サラリと聞き流される。
左目と格闘しながらの興味なさげな返答が、蘭らしいなと思う。そういうところが、好きだ。
「じゃあ、お先」
「うん。またね」
スカートを翻して、教室を出る。
早く優也に会いたくて、自然と脚は急くように動いた。
階段を降りて、下駄箱から靴を取って、外へ出る。
八月、真夏の風はむっとしていて、ものすごい圧迫感。首筋を焦がすように太陽が追ってきて、それから逃れるように日傘を広げた。
そうして、そのまま、優也の元まで一気に駆ける。
あたしの走った後に、陽炎が揺れる気配を感じた。
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